「、だいじょぶ?」
本日、3回目?4回目かの階段下り、いや、2回目か、ホテルの部屋から率先して外に出ようと勇んで階段の1段目を踏み出したはずが、存外バランスを崩しかけていた。
大げさなほど音が立ったせいもある。
危うく踏み外しそうになると、かろうじて手すりを掴んでいた腕を背後から翔陽につかまれた。
振り返ると、元気そうな翔陽がいる。
「なに?」
「……なんでもない」
「ゆっくりな。 、時差ボケしてんだし」
「ん」
なんだか言い知れぬくやしさが残っていて、それでいて、手を振りほどく気力も、自分の身を守れる自信もなく、大人しく翔陽を頼って残りの階段を下りて行った。
ホテルのフロントは、チェックインした時よりずっとムーディーな雰囲気に変わっていた。
カフェの役割だった場所はテーブルごとに蝋燭の火が灯り、幾人かがお酒らしきグラスを傾けている。
それでいて、外からは不釣り合いなほど陽気な音楽が入り込む。
最初に来た時から担当してくれた受付の人が英語であいさつしてくれたから、反射的に日本人らしく会釈し、翔陽は聞いたことのない挨拶らしきワードをさらりと口にした。
つい見つめると、『こんばんは』の意味だと日本語で耳打ちしてくれた。
「……」
「、な、なにっ?」
「なんでもない」
「そ、そんな、見られると」
わざとらしく腕に抱きついてみせた。
「なんでもないって」
「!!!」
それは嘘でも本当でもあった。
上手く説明できる気がしなかった。
きっとひっつきすぎたから、時間を超えすぎたから、頭がバカになっているんだ。
ぴたりと腕に抱きついたまま、さっきまであんなだった翔陽をこんなに緊張させたままにするのも忍びなくなり、今度はおだやかに腕をからめなおした。
「ほんとうに、なんでもないって」
「……したく、なる」
「え?」
「キスっ、したくなるっ」
もう してる。
すぐそばだったから当然だ。唇と唇が触れ合うのに一瞬あれば事足りる。
顔を背けたら、フロントの人からとびきりのスマイルを向けられて、逃げるように翔陽の腕にすがった。
「こ、ここ」
「こ?」
「ここ、部屋じゃ、ない、よ」
「ん、知ってる」
悪びれもなく翔陽が言い切ってホテルを後にする。
「部屋じゃない、のに」
「ん、部屋じゃない」
「部屋じゃ、ないから」
外灯の明かりは心もとない。
ただ、翔陽の視線を肌で感じる。
「部屋じゃないから、なに?」
「……さっきの。フロントの人に見られた」
「へーき」
なにが、平気なんだ。
抗議のつもりに視線を向けると、何を思ったのか、翔陽の片手がベッドの上にいたときと同じく伸びてきて、頬に添えられ、気づけば、また、交わしていた。
外なのに。
ここ、外なのに。
訴えかけるように見つめてみても、相手は目を閉じていた。はずが、不意にしとやかにさえ見えた睫毛が動き、よく知る瞳に囚われた。
濡れた唇を片手で覆って辺りを見回した。
何の変哲もない街並みがそこにあり、滞在予定のホテルは少しばかりライトアップされ、入り口にある花壇は暗かった。
視線を戻すと、やっぱり翔陽が余裕そうに見つめていた。
「、だれもみてない」
「でも」
「日本じゃないからだいじょーぶ」
ぐいっ、と、翔陽のTシャツを引っ張った。
「わたしが、大丈夫じゃない」
少しだけ勢いをつけて翔陽の首に腕を回し、奪ってみせた。
ふれる、だけじゃなく、ついばむように。
吐息が溶ける距離のまま見つめ続けた。
「したく、なるの」
「」
すとん、と気持ちを落ち着かせて、翔陽から身を離して一歩、二歩と進みだす。
ふりかえると、影が伸びていた。
翔陽は固まったまま、いや、目をぱちくりさせて、口がぽかんと開いていた。
まるで置いてけぼりをくらう子どものようだった。
「行くよ?」
「……、そういうところ、あるよな」
「さき行くから」
「!!」
お互い様だと思いつつ、歩く速度を落とした。
「ここが、翔陽が写真撮ってたところ……」
神をかたどる大きな像が、この街を見下ろしている。
ブラジルに来ることがあったら、ぜったい来ようとは思っていたけど、まさか本当に来てしまうとは。
改めて自分の突飛な行動にも驚いてしまう。
ここまではバスで来た。
異国の地では移動するだけで肩に力が入るが、さすがに1年以上も住んでいる相手のおかげで、思いのほかスムーズに到着できた。
チケット売り場はいつもはもっと混雑するらしい。
間もなく受付終了する時間帯とあって、まだマシな方だと翔陽は道路状況を見ながら教えてくれた。
車内はもっと離れて立っていられる混み具合だったけど、べたべたとくっつきあっていた。
タガの外れた付き合いたてのカップルみたいだと思った。
でも、振り返ってみると、翔陽とそんな風にふれあった記憶があんまりなかった。
少なくとも、バスの中、といった公共の場では。
ふと、手を握られていた。
行き交う車と外灯のおかげか、揺らめくオレンジのライトが笑顔を照らす。
「、迷子になんないようにな」
「ん……」
「写真撮るならさ、あっち!」
まだ、心地いい倦怠感が抜けきらないのか、それともここに来るまでのバスの揺れで少なからず酔ってしまったか。
夢の中にいるみたいな、浮遊感。
パシャッ、とスマホの軽快音が、真正面から聞こえた。
翔陽が楽しそうに端末を手にしていた。
「ま、さか、撮った?」
「、なんか眠そうっ」
「やだ、消して」
「やだっ」
「私だってやだ、そんな、ぜったいかわいくない、あっ、また撮った! 翔陽っ」
あちらこちらでくっつきあう恋人たちや観光客のあいだをすり抜けて、追いかけっこする。
それでも翔陽がパシャパシャと遠慮なくシャッターを押す。
何とか阻止しようと片手を伸ばすけど、やっぱり運動神経の違いか、カメラを捕まえられなくて、ただ、ひたすら、映され、追っかけ、追っかけられた。手は、つないだまま。
「ブレてるよ、ぜったい」
息がまた上がってしまった。
翔陽が撮った写真をチェックしてるのを横から覗き込んだ。二の腕同士がくっついた。
「、おばけみたいになってる」
「失礼な。誰のせいで」
「ちゃんと撮っていい?」
「あ、私ので撮って、夜景に強いから」
言い切る前に翔陽はまたシャッターを押していた。連射音が目に見えない時を刻み続ける。
「なに、してるの」
訳がわかんなくて笑ってしまった。
翔陽も口端を上げるだけで、なぜかずっと連続写真を撮っていた。
カメラの先は常に私がいる。
たくさんのファンの人たちに写真を撮られるスーパースターの姿を空想した。
「ねえ、私はもういいから一緒に撮ろ?
あ、二人で撮る前に」
言い切るより早く翔陽が手を離した。
「わかった!」
翔陽が後ろに下がった。
私の撮りたい構図を察したらしい。
翔陽に送ってもらった写真みたく、あの像のように両腕を広げてポーズをとった。
「これは、ちゃんと撮ってね」
シャッター音。
なんだっていい気分だったけど、本当になんでもよくはないから、私専用カメラマンになった翔陽のスマホを奪うように覗き見た。
その写真は私だけがばっちり映り、フレームに一緒に収めるべき像が変なところで切れていた。
「ねえ」
ちょっと、これさ。
文句を言わんとしているのを察知したらしい翔陽は、ごめんの一言といっしょにおでこに口づけを落とした。
目が合うと、街の夜景が映りこんでいるのか、翔陽の瞳はいっそう輝いていた。
あの丘から再びバスで戻ってくると、街はまだ起きていて、夜を楽しむ観光客や町の人々がそこかしこにいた。
「、次、どこ行きたい?」
翔陽の質問が、なんでだか、とってもくすぐったかった。
ただの旅行に来たカップルみたいだったから。
治安が悪い場所があると聞いていたけど、避けてくれたんだと思う。
役になり切るように翔陽の肩に軽くもたれながら話した。
「ちょっと、休みたいかな」
「ねむい?」
「じゃなくて、座りたい。おなかすかない?」
言いながら、本当はそんなにおなかはすいてなかった。
時を超えすぎた脳は、食べ物より睡眠を求めていたけど、まだもうちょっとこうしていたかった。
私のホンネを知ってか知らずか、翔陽も付き合ってくれたのかもしれない。
知ってるお店があるというから、ついていってお店に入った。
半分はレストランで、もう半分はバーになっている。
店内は人がまばらだ。
設置されたテレビをみんな眺めていて、どこかの国で行われているスポーツの試合が流されていた。バレーじゃなかった。
好きなものを取っていき、最後に会計するらしい。
これがおいしい、とか、これは名物だけど変な味だとか教えてもらって、ぜんぶちょこちょこ乗せていった。
翔陽が、ってやっぱり女の子だって私のお皿を覗き見て笑った。
「、そっち、先いいよ」
「ぇ」
「おれ、あっち行く」
あ。
翔陽の会計を見て真似る予定だったのに。
ドキドキしながらレジに近づくと、至ってシンプルに金額を出してくれて支払いを終えた。
そうだ。
目まぐるしく享受する楽しさにまぎれ、やりたいと思っていたことを忘れるところだった。
幸い英語が通じたから、それは叶った。
next.