ハニーチ






しあわせな夜だった。

絵本のハッピーエンドみたいな、一日のおわり。


すぐそばの寝顔を見つめた。


充実した毎日を送っていたのに、いざ会ってみると、心のどこかにできていた空白の場所に、今日という一日がすっぽりとおさまった。

離れた時から知らぬ間に生まれていた、心の奥底の、空き地のようなスペース。

気にも留めなかったのは、その場所が荒れ果てたわけじゃなく、ただ、心地よかったから。

どこまでもいけそうな青空、通り抜ける風、せせらぎ、野原。
そういうものにふれたときと同じだった。

ほっと息がつける、なつかしい居場所。

会ってわかった。

そこは、ただひとりのために存在していた。


何から遠ざかったのか、やっとわかった。



かけがえのない、ひと。



また、こみあげる。


頬ずりした。
ふれてみた。

そのたび、心のその場所が満ちる。

これが水たまりなら、きっと海になっていた。
これが海なら、とっくに空まで届いていた。


こんなにも、求めていた。


口づけをひとつ、またひとつ。

“いとしい”という言葉が、解けてゆく。
深いところで理解する。

“惹かれている”

その意味を改めて知る。

こんなに惹かれているのに、まだこんなに、こんなにも。


起こさないように抱きしめ、呼吸をかさねた。

少しでも、同じところへ近づけるように。





***










Day and night








まどろみから浮上する。

しあわせの温もりのなか、時差ボケが抜けきらないのか、うとうとと瞼を上げた。

見慣れない光景。
ここはブラジルで、日向翔陽に会うためにとったホテルの部屋だと思いかえした。

何時だろう。
ベッドのわきに時計があったはず。

寝返りを打とうとしたものの、翔陽が私をしっかり抱きしめていて、それは叶わなかった。

室内の暗さに慣れた目で、なんとか時計をたしかめた。

秒針は動かない。

そういえば、電池が切れていた。何回目だ、寝ぼけてる。

スマートフォンに手を伸ばそうにも、翔陽の腕のなかでは難しかった。

いいや、と思い、近い位置にあった翔陽のスマホを手に取った。

日本を出発したときと変わらないスマホケース、待ち受け。

高校生の姿があって、時刻はここブラジルのものだった。まだ3時すぎ。


寝なくちゃ。

そう思ってる時点で、頭が起きている。

天井をぼんやりと見つめ、なんにも見いだせず、代わりに片時もはなれない翔陽にすり寄った。

翔陽は、とても気持ちよさそうに寝息を立てていた。


このまま眺めていたら、ひつじを数えるよりは眠くなりそうだ。


まだ、ここにいられる。

翔陽の首筋に顔をうずめると、くすぐったかったのか、翔陽が小さく声をもらした。

かくれんぼの最中のように息をひそめていると、その内、また静かになった。


あたたかい。

あたたかくて、ずっとここにいたくなる。

人の体温は落ちつくと聞くけど、とりわけ、心を許した相手なら尚のことだ。

自分と同じで、違う匂い。

ためしに買ったトラベルサイズのシャンプーは、今まで使ったことのないブランドだ。
買い続けてもよさそうだけど、たぶん、日本で使っても、同じ安心感は得られない。


心地がいい、時間。

最高の夜。


誕生日おめでとうを本人に直接伝えられて、こんなにもいっしょにいられて、なにより、とても喜んでもらえた。

突発的かつ衝動的な旅も、この濃密な時間ですべて報われた。


パーフェクト。


完ぺきな一日。



“俺のこと、考えて”


“ちゃんと、俺とのこれから、考えてほしい”


眠る直前に言われたことがよぎった。


翔陽との、これから。


わたしと、翔陽の、未来。



「!」


不意にぎゅっと抱き寄せられる。

起きたのかと焦ったけど、単純に抱き枕と勘違いしているだけのようだった。

翔陽のいろんな部分が、私にふれている。
このままくっついていたら離れられなくなるんじゃ、と不安を覚えた。

けれどすぐ、そんな心配は無用であることに気づいて、翔陽にしがみついた。


ちゃんと、わかっていた。


いま眠ったら、くたくたの私は、翔陽が起きるのに気づけない。


翔陽は、日課のランニングがある。

早朝に走って、海でトレーニングして、バランスのいい朝食をとる。
午前中から昼にかけてやるべき事を済ませ、時にレッスンを手伝い、あとは多くをビーチでの修行に費やす。

生活のリズムを整えるには、朝の起床時刻を変えないこと、だそうだ。

知っていた。ぜんぶ。
翔陽のことは、努力しなくても勝手に頭に入ってしまう。
トレーニングのメニューだってすこし聞いただけで、自分がする訳でもないのに覚えてしまった。


次、起きたら、翔陽はここにいない。


半分は覚悟し、半分はあきらめた気持ちで目を閉じた。


ぬくもりの中、起きた時のことを想像する。

二人で泳いだはずのシーツの上、ベッドに残るあたたかさ。
たしかに翔陽がいた痕跡を、ひとり実感する。

しょうがない。わかっていたことだ。

ここにいるのは、つかの間の夢と同じ。


出会えば別れがあるのと一緒。

そばにいれば、離れる時が来る。

私に出来ることは、“いま”を大事にするだけだ。


かなしくなるのはやめよう。


いま、翔陽はここにいる。

まだ、いっしょにいられる。

翔陽のそばで、ほんとうに、すぐそばで眠りにつけることを、幸福におもう。



そのうち、眠気がさざ波のようにおとずれ、意識はさらわれていった。






















事実は小説よりも奇なり、


とは、よく言ったもので。






「あ、れ……」





翔陽がいる。


なんで?


もう一度まばたきして現実を確かめた。

たしかに、いる。
翔陽が、私のそばにいる。

寝ぼけたかと思ったけど、視覚以外にも、ちゃんと、感じる。

回された腕も足も、密着する肌の感覚も、ぜんぶがここに翔陽がいることを実感させた。

夢じゃない。

翔陽は全身で、と言っていいほど、しっかりと私を抱きしめている。
足だって、その他すべて、いや、むしろくっついてないところを探す方が難しい。というか、若干くるしい。近い。あと、重い。
唇だってあと少しでくっつきそう。
髪だってふわふわと当たって正直くすぐったい。


おかしい。ランニングは?

もしかして時差ボケで早く目が覚めただけで、実のところ15分くらいしか時間は進んでないんだろうか。

そうだ。

スマホへと伸ばした手は、翔陽につかまった。


、おはよ」

「お、おはよう」


なんだか、改めて向き合うとはずかしくなってくる。

こんな風に目覚めてすぐ顔を合わせるのは久しぶりだし、昨日のこと全部が意思とは関係なく一気に思い出された。

翔陽は、私の指と自分のを絡めた。

なぜかあせって声をかけた。


「あ、あの」


翔陽がうごくと、体重が集中してベッドがきしんだ。


「ねえっ、待って、ちょっと、……ね!」


Tシャツが引き延ばされ、衣服が変に着崩れた状態で、翔陽がやっと手を止めた。

抗議の意を込めてにらんだのに、翔陽は起き抜けの様子もなく言ってのけた。


「いい眺め」


晴れやかな笑顔。

ときめいたことが悔しい。


ベッドから落ちかけていた枕を片腕で抱きかかえた。


「なんで枕」

「翔陽が、すごく見てくるから」

「見られたくないならさ」


あ。

枕がひょい、と取り上げられた。


「俺でいいじゃん」


枕のあった位置に、翔陽がおおいかぶさった。

そうじゃ、ないんだけどな。

押しのける気持ちはないけど、どうしたものかと翔陽を眺めていた。
上機嫌な様子にふといたずら心が芽生え、身体を押し付けるように抱きしめてみた。
乱れた衣服の合間、触れ合った感覚は、どことなく生々しかった。

っ?

翔陽が動揺しているのがわかって、ほくそ笑んだ。


「ドキドキする?」

「そりゃっ、……するに、決まってる」


満足して力を抜き、中身の少ないミネラルウォーターに手を伸ばした。

なんだか喉がかわいていた。


「俺とるよ」


そう言って、翔陽は体を少しだけ起こして、ペットボトルを手にすると、まずは自分がその水で喉を鳴らした。

CMみたい。
つい、見入ってしまった。

視線に気づいた翔陽の口端から水滴がつたった。

その雫を人差し指でふれ、ぺろりとなめた。
それは、単なる水だった。

ペットボトルの中身は残り少なかった。

翔陽は、また水を少し口に含んだ。
新しいミネラルウォーター、どこ置いてたっけ。


「!」


おぼれるかと思った。


「足りた?」


悪びれもしないで聞くから、返事の代わりにはたく。
翔陽はびくりともしないで、じっと私を見つめた。なんではたいたの?って顔だった。

私は、濡れた口元を手の甲でぬぐった。


「……飲めてない」

「じゃあもう一回」

「もういい、そうじゃなっ、しょ」



ごくごく、

ごくごくと、飲み尽くすみたいな時間だった。

どこか、べっとりとなまめかしさを隠し切れない感触でもあった。

このTシャツ、もうダメかな。

少し伸びてきた襟口は、今の触れ合いで湿っていた。


「翔陽のせいで濡れた」

、着替えは?」

「ある、その前にシャワー……、浴びすぎかな」


日本にいる時より入ってるかも。

そう呟くと、こっちの人もよくシャワーを浴びるよと翔陽は教えてくれた。

なら、いっか。
郷に入っては郷に従え、と言うし。


起き上がると、ベッドからまた軋む音がした。

そうだ。


「翔陽」


呼ばれた本人は、空っぽのペットボトルを手にして、離れたゴミ箱に狙いを定めていた。


「なに?」

「脱がせて」

「ハッ!?」


その声がやけに大きくておもしろかった。

冗談だよ。

そう続けると、あのなあって返された。

同じ感覚で続けた。


「翔陽、走ってきていいよ」


私を気にしなくていいからねって、なるべく軽く聞こえるように努めた。

女性は身支度に時間がかかるものだから、なんてすました様子で。

翔陽はこちらの意図を知ってか知らずかわからないけれど、空のペットボトルを見事にゴミ箱に命中させて言った。

「わかった、いってくる。 鍵、持ってくな」

「鍵?」

「部屋のっ、、シャワー浴びてるんだし」

「べつに、大丈夫だと思うけど」


ぽん、と頭に手を置かれた。


「ここ、外国!」


こくりと頷くと、翔陽は私を撫でた手でルームキーを手にして、本当に出ていった。
あっさりと、とても、自然に。

暗いからカーテンをあけた。

もうこんなに明るいんだ。
6月の、ブラジルの早朝。

シャワー、浴びよう。

そう思うのに窓辺から離れなかったのは、そんな予感がしたから。

ほら、やっぱり。

昨日口づけを交わした付近で、ホテルから出てきた翔陽を見つけられた。

こっちに気づくかなと少し期待したけど、翔陽はさくさくと路駐の車を避けて走っていった。

その姿が見えなくなってから、深紅のタイルで敷きつめられたバスルームに入った。

鏡はもう曇っておらず、一枚脱ぎ捨てた肌に残る痕跡をきちんと映し出していた。


next.