まどろみから浮上する。
しあわせの温もりのなか、時差ボケが抜けきらないのか、うとうとと瞼を上げた。
見慣れない光景。
ここはブラジルで、日向翔陽に会うためにとったホテルの部屋だと思いかえした。
何時だろう。
ベッドのわきに時計があったはず。
寝返りを打とうとしたものの、翔陽が私をしっかり抱きしめていて、それは叶わなかった。
室内の暗さに慣れた目で、なんとか時計をたしかめた。
秒針は動かない。
そういえば、電池が切れていた。何回目だ、寝ぼけてる。
スマートフォンに手を伸ばそうにも、翔陽の腕のなかでは難しかった。
いいや、と思い、近い位置にあった翔陽のスマホを手に取った。
日本を出発したときと変わらないスマホケース、待ち受け。
高校生の姿があって、時刻はここブラジルのものだった。まだ3時すぎ。
寝なくちゃ。
そう思ってる時点で、頭が起きている。
天井をぼんやりと見つめ、なんにも見いだせず、代わりに片時もはなれない翔陽にすり寄った。
翔陽は、とても気持ちよさそうに寝息を立てていた。
このまま眺めていたら、ひつじを数えるよりは眠くなりそうだ。
まだ、ここにいられる。
翔陽の首筋に顔をうずめると、くすぐったかったのか、翔陽が小さく声をもらした。
かくれんぼの最中のように息をひそめていると、その内、また静かになった。
あたたかい。
あたたかくて、ずっとここにいたくなる。
人の体温は落ちつくと聞くけど、とりわけ、心を許した相手なら尚のことだ。
自分と同じで、違う匂い。
ためしに買ったトラベルサイズのシャンプーは、今まで使ったことのないブランドだ。
買い続けてもよさそうだけど、たぶん、日本で使っても、同じ安心感は得られない。
心地がいい、時間。
最高の夜。
誕生日おめでとうを本人に直接伝えられて、こんなにもいっしょにいられて、なにより、とても喜んでもらえた。
突発的かつ衝動的な旅も、この濃密な時間ですべて報われた。
パーフェクト。
完ぺきな一日。
“俺のこと、考えて”
“ちゃんと、俺とのこれから、考えてほしい”
眠る直前に言われたことがよぎった。
翔陽との、これから。
わたしと、翔陽の、未来。
「!」
不意にぎゅっと抱き寄せられる。
起きたのかと焦ったけど、単純に抱き枕と勘違いしているだけのようだった。
翔陽のいろんな部分が、私にふれている。
このままくっついていたら離れられなくなるんじゃ、と不安を覚えた。
けれどすぐ、そんな心配は無用であることに気づいて、翔陽にしがみついた。
ちゃんと、わかっていた。
いま眠ったら、くたくたの私は、翔陽が起きるのに気づけない。
翔陽は、日課のランニングがある。
早朝に走って、海でトレーニングして、バランスのいい朝食をとる。
午前中から昼にかけてやるべき事を済ませ、時にレッスンを手伝い、あとは多くをビーチでの修行に費やす。
生活のリズムを整えるには、朝の起床時刻を変えないこと、だそうだ。
知っていた。ぜんぶ。
翔陽のことは、努力しなくても勝手に頭に入ってしまう。
トレーニングのメニューだってすこし聞いただけで、自分がする訳でもないのに覚えてしまった。
次、起きたら、翔陽はここにいない。
半分は覚悟し、半分はあきらめた気持ちで目を閉じた。
ぬくもりの中、起きた時のことを想像する。
二人で泳いだはずのシーツの上、ベッドに残るあたたかさ。
たしかに翔陽がいた痕跡を、ひとり実感する。
しょうがない。わかっていたことだ。
ここにいるのは、つかの間の夢と同じ。
出会えば別れがあるのと一緒。
そばにいれば、離れる時が来る。
私に出来ることは、“いま”を大事にするだけだ。
かなしくなるのはやめよう。
いま、翔陽はここにいる。
まだ、いっしょにいられる。
翔陽のそばで、ほんとうに、すぐそばで眠りにつけることを、幸福におもう。
そのうち、眠気がさざ波のようにおとずれ、意識はさらわれていった。
*
事実は小説よりも奇なり、
とは、よく言ったもので。
「あ、れ……」
翔陽がいる。
なんで?
もう一度まばたきして現実を確かめた。
たしかに、いる。
翔陽が、私のそばにいる。
寝ぼけたかと思ったけど、視覚以外にも、ちゃんと、感じる。
回された腕も足も、密着する肌の感覚も、ぜんぶがここに翔陽がいることを実感させた。
夢じゃない。
翔陽は全身で、と言っていいほど、しっかりと私を抱きしめている。
足だって、その他すべて、いや、むしろくっついてないところを探す方が難しい。というか、若干くるしい。近い。あと、重い。
唇だってあと少しでくっつきそう。
髪だってふわふわと当たって正直くすぐったい。
おかしい。ランニングは?
もしかして時差ボケで早く目が覚めただけで、実のところ15分くらいしか時間は進んでないんだろうか。
そうだ。
スマホへと伸ばした手は、翔陽につかまった。
「、おはよ」
「お、おはよう」
なんだか、改めて向き合うとはずかしくなってくる。
こんな風に目覚めてすぐ顔を合わせるのは久しぶりだし、昨日のこと全部が意思とは関係なく一気に思い出された。
翔陽は、私の指と自分のを絡めた。
なぜかあせって声をかけた。
「あ、あの」
翔陽がうごくと、体重が集中してベッドがきしんだ。
「ねえっ、待って、ちょっと、……ね!」
Tシャツが引き延ばされ、衣服が変に着崩れた状態で、翔陽がやっと手を止めた。
抗議の意を込めてにらんだのに、翔陽は起き抜けの様子もなく言ってのけた。
「いい眺め」
晴れやかな笑顔。
ときめいたことが悔しい。
ベッドから落ちかけていた枕を片腕で抱きかかえた。
「なんで枕」
「翔陽が、すごく見てくるから」
「見られたくないならさ」
あ。
枕がひょい、と取り上げられた。
「俺でいいじゃん」
枕のあった位置に、翔陽がおおいかぶさった。
そうじゃ、ないんだけどな。
押しのける気持ちはないけど、どうしたものかと翔陽を眺めていた。
上機嫌な様子にふといたずら心が芽生え、身体を押し付けるように抱きしめてみた。
乱れた衣服の合間、触れ合った感覚は、どことなく生々しかった。
っ?
翔陽が動揺しているのがわかって、ほくそ笑んだ。
「ドキドキする?」
「そりゃっ、……するに、決まってる」
満足して力を抜き、中身の少ないミネラルウォーターに手を伸ばした。
なんだか喉がかわいていた。
「俺とるよ」
そう言って、翔陽は体を少しだけ起こして、ペットボトルを手にすると、まずは自分がその水で喉を鳴らした。
CMみたい。
つい、見入ってしまった。
視線に気づいた翔陽の口端から水滴がつたった。
その雫を人差し指でふれ、ぺろりとなめた。
それは、単なる水だった。
ペットボトルの中身は残り少なかった。
翔陽は、また水を少し口に含んだ。
新しいミネラルウォーター、どこ置いてたっけ。
「!」
おぼれるかと思った。
「足りた?」
悪びれもしないで聞くから、返事の代わりにはたく。
翔陽はびくりともしないで、じっと私を見つめた。なんではたいたの?って顔だった。
私は、濡れた口元を手の甲でぬぐった。
「……飲めてない」
「じゃあもう一回」
「もういい、そうじゃなっ、しょ」
ごくごく、
ごくごくと、飲み尽くすみたいな時間だった。
どこか、べっとりとなまめかしさを隠し切れない感触でもあった。
このTシャツ、もうダメかな。
少し伸びてきた襟口は、今の触れ合いで湿っていた。
「翔陽のせいで濡れた」
「、着替えは?」
「ある、その前にシャワー……、浴びすぎかな」
日本にいる時より入ってるかも。
そう呟くと、こっちの人もよくシャワーを浴びるよと翔陽は教えてくれた。
なら、いっか。
郷に入っては郷に従え、と言うし。
起き上がると、ベッドからまた軋む音がした。
そうだ。
「翔陽」
呼ばれた本人は、空っぽのペットボトルを手にして、離れたゴミ箱に狙いを定めていた。
「なに?」
「脱がせて」
「ハッ!?」
その声がやけに大きくておもしろかった。
冗談だよ。
そう続けると、あのなあって返された。
同じ感覚で続けた。
「翔陽、走ってきていいよ」
私を気にしなくていいからねって、なるべく軽く聞こえるように努めた。
女性は身支度に時間がかかるものだから、なんてすました様子で。
翔陽はこちらの意図を知ってか知らずかわからないけれど、空のペットボトルを見事にゴミ箱に命中させて言った。
「わかった、いってくる。 鍵、持ってくな」
「鍵?」
「部屋のっ、、シャワー浴びてるんだし」
「べつに、大丈夫だと思うけど」
ぽん、と頭に手を置かれた。
「ここ、外国!」
こくりと頷くと、翔陽は私を撫でた手でルームキーを手にして、本当に出ていった。
あっさりと、とても、自然に。
暗いからカーテンをあけた。
もうこんなに明るいんだ。
6月の、ブラジルの早朝。
シャワー、浴びよう。
そう思うのに窓辺から離れなかったのは、そんな予感がしたから。
ほら、やっぱり。
昨日口づけを交わした付近で、ホテルから出てきた翔陽を見つけられた。
こっちに気づくかなと少し期待したけど、翔陽はさくさくと路駐の車を避けて走っていった。
その姿が見えなくなってから、深紅のタイルで敷きつめられたバスルームに入った。
鏡はもう曇っておらず、一枚脱ぎ捨てた肌に残る痕跡をきちんと映し出していた。
next.