やってしまったと思った。言わなければよかった。
もう遅い。
「私のこと、…覚えてないの?」
彼女の表情があっという間に暗くなった。
冷や汗なんて久しぶりにかいた。
何か言わなければと思っても何を言えばいいかわからない。
すがるようにこちらを見る彼女は、本当に自分が忘れさられているのかと信じがたい様子だった。こちらが何も言えずにいると、事実を理解したのか、彼女は視線を下げた。
慌てて告げた。
「見覚えは、ある」
「見覚え?」
彼女の声は若干上ずった。
もしかして冗談だったのではという期待が打ち砕かれ、次にあらわになった感情は怒りではなかった。
「私は影山君のこと、…ううん」
「……」
「影山君にとって、…その程度だったってことだね」
彼女はかなしそうにつぶやいた。
見覚えはある。名前は出てこない。どこかで会ってる。けど、彼女を引き留めて慰めるだけの言葉も記憶も持ち合わせていなかった。
いつもの明るさは消え去った。
彼女は、ひどく傷ついた表情で目の前から去った。
*
「影山が女子泣かせた!」
背後から声がした。そこに日向がいて、面倒だから部室へと早足で歩き出した。
日向の言葉に反論するよりも記憶の糸を辿った。さっきの女子の悲しそうな顔、頭から消えない。
「おい、さっきの子、追いかけなくていいのかよ」
「……」
「お前なんか余計なこと言ったんだろっ」
「……」
「仲いいならお前が謝れよ、どーせ怖い顔で余計なこと言ったんだろうし」
「何も言ってねーよ!!」
「!い、いきなりでかい声出すなよ」
何にも言えなかった。何を言えばよかったんだ。
部活に向けて服を着替える。イラついてシャツのボタンがなかなか外れなかった。クソッ。
こんなことなら、聞かなきゃよかった。思わなきゃよかった、名前で呼ぼうだなんて。
「え、つまり、噂の子のこと、影山は名前もクラスも知らなかったのか」
「…はい」
「さいていだな!」
「ああ!?」
日向が余計なことを言うから掴みかかると、菅原さんが間に割って入った。
「まーまー。でも、ここんとこよく二人で話してただろ」
後からやってきた菅原さんに日向が自分が見たことを話し、なりゆきで今日起こったことを説明したのだ。
噂の子、と称されるあの女子とは、最近よく話していた。
アイツのことは名前を誰も知らないから、部内では噂の子と勝手に呼ばれ始めた(自分も名前を知らなかったので、特にそれについて言うことはしなかった)。
出会ったきっかけは、アイツから話しかけてきたこと。
自販機の下に転がって落ちた500円玉をアイツは服が汚れるのも構わず取ってくれた。
そのときに名前を呼ばれた。影山君。こんなところで久しぶりだね。そう言われてもピンと来ない。受け取った500円から彼女に視線を移すと、名前もクラスも聞かなかったがどこか懐かしさを覚えた。少し話をして、その場は終わった。次の日、朝早くに乗った電車の中で彼女を見つけた。しばらくじっと見つめていると、確かにこんな風に文庫本を読む彼女を知っている気がした。しかし、思い出せない。ずっと見ていたら、アイツがこっちに気づいた。おはよう、影山君。挨拶されたから返した。このやり取り、何か思い出せそうなのに。名前を呼ぶことがなくても会話は続いた。それは次の日もその次の日も続いた。思い出せそうで思い出せないまま、新しい時間が積み重なった。
一緒に登校することも多くなった。そういえば、下駄箱は違うから、同じクラスではない。
「同じクラスで気づかなかったら間抜けすぎでしょ」
月島が口を挟んできたから反論したものの、先輩達がそれよりほかに覚えていることはないかと促したから思考を戻す。アイツのこと、アイツのこと…。
バレーの話はした。学校の話もしていた。部活はどこにするの、影山くんはやっぱりバレー部だよね。私は違うのにしよう。アイツがそう言っていたのを思い出す。
「影山がバレー部ってわかるなら、同じ中学じゃないか?」
「なんでですか?」
「そりゃ影山が烏野に来ればなあ。クラス一緒だったとかじゃない?」
菅原さんに言われて中学3年の時のクラスメイトを思い出す。
「……」
「おまえ、同じクラスの奴の顔覚えてないんじゃないの?」
「そーいうお前は覚えてるのかよ」
「オレは全員の名前あだ名で言える!」
「日向はそういうの得意そうだもんな」
腕を組んで考えてみても、記憶の中で彼女と同じクラスメイトはいなかった。
思い出そうにも思い出せず、部活の時間になれば部活ですべての時間が埋まる。
ふと、練習を終えた時に、行き着くように彼女の顔が頭に浮かぶ。
“私のこと、…覚えてないの?”
いつも話をするようになったから、アイツは俺を影山君と呼ぶから、どうせなら俺だって名前を知りたいと思った。
アイツ、あの女子、その指示語ではなくて、アイツ自身を記憶したかった。
だから、名前を聞いてみた。
『お前、名前は?』
その一言で空気が変わった。あの落胆した表情、それすらも今になってみれば鮮明な記憶がある。涙目のアイツをどこかで見た。どこで見たんだ。中途半端な記憶が腹立たしい。
あの目、確かに知ってる。知ってるのに。
名前を知らなくても、一緒に歩いた通学路を歩くと、話しかけてくる彼女の声はすぐに思い出せた。
“影山君、おはよう”
聞き覚えはある、のに。
明日はいるだろうか、登校の時間が同じなら話しかけてみようか。
謝って名前を聞きたい。その名前で呼びたい。
家に帰って思い立って卒業アルバムを探してみた。そもそもアルバム自体どこにしまったかわからなかった。自分の部屋には必要なものしか揃ってなかった。
*
「え、思い出す方法?」
こくりと頷く。菅原さんはジャージに着替えながら続けた。
「あの子のこと、まだ探してたのか」
こくりと頷く。眉間に皺が寄っていたのに自分では気づかなかった。
アイツを泣かせてしまった日から数日経っても、前のように彼女が現れることはなかった。
そこから1週間登校する時間を変えてみたが、アイツは見つからなかった。
更に1週間校舎内を探してみたものの、アイツを見かけることもなかった。
部屋を探しまくって引っ張り出した卒業アルバムのクラスメイトの中には、彼女はいなかった。
もう思い出すしか手段はない。
「うーん、どうしても探したいなら…、影山、顔は覚えてるんだよな、その子のこと」
「はい」
「そんで、その子は烏野なんだよな?」
「はい、間違いないです」
「そしたら今度の朝礼で、探すのはどうだ」
全校生徒が集まるグラウンド、そこには探しているその子も来るはずだ。
菅原さんがそういうと、隣で聞いていた主将が首を傾げた。
「あんな中から見つけられるか?」
「同じ学年なら5クラスだろ、見つけられなくもないんじゃないか」
「5クラスって言っても人数いるだろ」
「そうだけど、教室覗いて歩くよりは確実にいるだろうし」
「ありがとうございます、俺、探してみます」
「でもさ、影山」
「はい」
「なんでそこまで彼女にこだわるんだ?」
話を聞く限りは、ただ彼女の方から話しかけてきて、一緒に登校するようになったぐらい。
いくら思い出そうにも思い出せない。
それは、忘れていてもいいことじゃないのか。
菅原さんの質問に、自分でも疑問がわいた。
「気になる理由、あるのか?」
菅原、と主将が菅原さんを諭すように言った。どういうことかはわからない。自分自身、なんでここまで彼女を思いだそうとしているかわからない。
でも、だからこそ、思い出さねばいけない気がした。
俺の記憶の中に、確かにアイツはいるから。
*
一番グラウンドが見渡せる空き教室の窓を見つけておいた。
ここから双眼鏡を使えばアイツを探せる。
教師にばれると教頭のかつらみたくバレー部に入れないペナルティにされそうだから、グラウンドからは双眼鏡が気づけないことは確認済みだ。
朝礼は一回くらいサボっても問題ないだろう。
姿勢を低くしてグラウンドに生徒が集まるのを待つ。
ぞろぞろとグラウンドに人が増えてきた。
一年生の列は左の方だ。男子邪魔だ。日向がいた。こっちは自分のクラスだ。いない。2組、いない。4組…チッ、月島が見えた。
「あっ!!」
見つけた。やっと見つけた。
ちょうど朝礼が始まる。列の場所、アイツがいる位置、覚えた。
双眼鏡は置いて空き教室を飛び出し、全速力でグラウンドへ走った。
「影山、どこ行ってたんだよ」
クラスメイトの問いかけに適当に返して、大きく呼吸した。
4組か、4組だった。
列に並んで朝礼を聞く。右から入って左にスピーチは流れた。アイツ、アイツはどこだ。あそこだ。
久しぶりに見たアイツは、確かに前会った時と同じで烏野の制服だった。
最近ずっと会えてなかったからそれすらも幻かと思いかけていた。
早く朝礼終われ。
前の方に並んでいる彼女の背中を注視していた。
「おい!!!」
朝礼が終わり教室に生徒が戻りだすのがわかるや否や駆け出した。
列から外れて4組を目指す。
呼びかけても振り返ってきたのは関係ない生徒だけだった。
「おい!お前!!!」
なんで名前を呼べないんだ。苛立って腕を掴んだ。振り返った女子は、確かに俺が探していたアイツだった。
「!か、影山君」
「お前、なんで…」
「え、あの、列」
注目を集めているのが分かった。でも腕は離さなかった。
「ちょっと来いっ」
「え、え」
強引に腕を引っ張って校舎に向かった。
そこから下駄箱には向かわず、他の連中が来ないように校舎の影に移動した。
「か、影山君、どうしたの?」
「なんで、朝、来なくなった」
「朝?」
「前は来てただろ」
「前って…」
「朝、いつも、一緒だったじゃねーか」
「あ、うん…」
「それに先週ずっと教室にもいなかった」
「な、なんで知ってるの」
全部の教室を覗いて歩いたからだ。
そう答えられるはずもなく、聞かれて言葉が詰まった。取り繕う余裕はなかった。
「探してたからだ、…ずっと」
今になって自分の鼓動が早いことに気づいた。
コイツを前にしてもまだ名前は思い出せない。また悲しませてしまうかもと思って怯える気持ちもある。それだけなのか。自分でもわからない。
俯いて視界に入った上履きに苗字が書いてあった。
少し顔を上げると、コイツの手首にはヘアゴムがぶら下がっていた。
この名前、このヘアゴム…
「!!」
「お、思い出してくれたの」
「お、おまえ、髪…」
「かみ…?」
「髪全部切ったのか!」
「ごごめんなさい!!」
怒っているつもりはなかったのに、は怯えた様子で頭を下げた。
落ち着け、落ち着くんだ。
深呼吸をした。
思い出した。よく及川さんが呼んでいた。
「“ボンボン”ちゃん…」
「そ、その呼び方…」
「大丈夫か」
急によろけた名前の腕をしっかり掴んで引っ張った。
「ご、ごめん…。でも、その呼び方知ってるってことは、本当に思い出してくれたんだね」
「…ああ」
言いながら、たった今思い出したとは絶対に言えないと思った。
しかも思い出したきっかけは、このボンボンがついたヘアゴムだったとはなおさらだ。
我ながら思い出せないのも仕方ないんじゃないか。
中学時代、のあれだけ長かった髪がすっかり短くなっていたから。
トレードマークだったヘアゴムもなくなったら認識できなくもなる。
なんて、には言えなかった。
今、こんな風に明るさを取り戻せたのに、また表情を曇らせたくない。
が動かなくなっていることに気づいた。
「あの、腕」
慌てて彼女の腕を解放した。
「もう…名前、わかる?」
「だろ」
「うん」
「」
「うん…」
「髪、全部切ったんだな」
「うん、入学式の前の日にね」
「そうか…」
「…このゴムで思い出した?」
ぎくり、と反応したのがわかったらしい。
「そうだよね、皆にボンボンって呼ばれてたし。影山君には呼ばれたことなかったけど…思い出してくれたなら、いいや」
は自分の髪を少しだけとって髪ゴムで止めようと試みた。
しかし長さが足りないらしく、さらりと流れて落ちた。
「やっぱり、結べないや」
「……」
「もう目印なくてもわかる?」
「お、おう」
「よかった」
コイツを中学時代にも見ていたんだ。
何度も名前を呼ばれていた。
かなしい表情も、中学最後の試合で見たんだ。
今になって思い出があふれるようによみがえった。
「って、チャイム鳴ってるよ、戻らなきゃ」
「」
思わず腕を掴んでしまう。つい、こないだ立ち去られた日のことがよぎってほぼ条件反射でを引っ張っていた。
「な、なに?」
「また…朝、来るか」
「朝?」
「ああ…、お前電車の時間変えただろ」
「うん」
「…悪い」
「なんで?」
「わ、わす、忘れてたから、のこと」
「…ううん、いいよ」
「おう。あ…朝、来るか」
「朝の前から2両目?」
「ああ」
「わかった」
「おう」
中学時代の方がむしろ話していなかったのに、なんでが朝いないことがここまで気がかりなのかわからなかった。
ただ、明日はいると知れただけで確かに胸が軽くなっていた。
「」
「ボンボン呼びでもいいよ」
思わず及川さんが頭によぎった。が笑った。
「冗談だよ」
こんな笑顔を見過ごしてきたのか。
なんだか顔が熱い。
「影山君はやっぱりバレーボールだけだね、変わってない」
でも、そのバレーのすぐそばにいただろ。コートの横に立つ姿がもう浮かぶ。
言葉にはしないで、が風で揺れた前髪を払うのを見つめていた。新しい予感がした。本鈴が鳴り響いた。
end.
おまけ