あとは、のんびり電車に揺られているだけ。
そう思っていたのに、現実はいつだって私を退屈させたくないらしい。
「、移動する?」
友人の小声に、真横に立っている人を気にしつつ、移動まではしなくてもと、さらに小さな囁きで応じた。
現在、乗っている電車は停車中。
目的地よりぜんぜん手前の駅のホームでちっとも動かない。
理由は独特なしゃべり方の駅員さんいわく、目的の駅で乗客同士のトラブルが云々かんぬん。
詳しくはわからないけど、事が収集され次第出発する、だそうだ。
都会ではよくあることだそうで、時間にも余裕があるし、友人の教えに倣い、私たちは電車が動き出すのを待っているつもりだった。
となりに、この人が来るまでは。
「いいから放っておいてくれ!」
びくっと反応してしまったのは私もだし、隣の友人もだ。
ちょうど私たちが座っていたのが、電車の出入り口真横で、その入り口の手すり前に背の高い男の人がずーんと立っている。
ずーん、という表現は、身長の高さだけじゃなくて、なんというか雰囲気。
一言で言うなら、とてつもなく『暗い』。
友人が私の服をちょいと引っ張って、ほんとに平気?と聞いてくる。
そう、余りにも負のオーラというか、この男の人が落ちこんでいるせいで、この車両のこの付近だけ、異様に気分の落ちた感じになっている。
しかも、存在感もやたらあるため、元より人が少なかった車両も、さっきの電車トラブルをきっかけに他の乗客たちが下りていき、とうとう私たちと、この男の人と、その友達?の人たちだけが残る格好となった。
都内は色んな電車が走っているから、いまの駅で降りて、別路線で移動することもできる。
ただ、しばらくしたら電車は動き出すのはわかっている。
なにより、今ここで電車を降りたら、この人に『あなたのせいで電車を降りることにしました』というのが伝わってしまいそうだ。
通りすがりの相手とはいえ、今から距離を置くほどでもないんじゃ、というのが私の気持ちだった。
とはいえ、隣からは『もう降りればよくない?』と言わんばかりの雰囲気も伝わってくる。
現在、左右からの圧に挟まれてどうしたものか悩ましい。
顔を上げれば、この負のオーラを放つ人の友達?の皆さんが、時折、この人の様子を窺いながら、作戦会議でもしているようだった。
今日の試合がどうの、放っておけばいい。でも、明日もあるんだし。
……いったい、何の話だろう。
というか、雰囲気からして何かのスポーツをしてそうではある。
横に佇むこの人も(ほぼ、電車にもたれて顔はよく見えないけど)、体つきがよく、パンチでも繰り出したらノックアウトされそうだ。
あれ、連れの人たちのカバン、バレーボールクラブって書いてある。
ちらり、失礼がないように気を付けつつ、男の人のジャージを盗み見る。
学校名までは読み取れないけど、なぜだろう、どこかで見覚えが……
突然、立ち上がった私に、友人が驚く。
邪魔にならないように網棚に置いていた荷物を下ろすと、何事だと尋ねられた。
「ちょっと、ね」
目当てのものを取りだして、よいしょ、また荷物を元の位置に押し上げる。
横から視線を感じた気もするけど、別段変なことをしているわけじゃないのでかまわず元の座席に腰を下ろす。
広げたのは、例の雑誌。
「なに、。マネージャーモード?」
「そんなんじゃないけど」
月刊バリボー、コーヒーの匂いが掠めたものの、丈夫な紙でできているため、きちんと中身は読める。
ぺらり、ぺらり、ページを進めていく。
そう、ここだ。
ネクストジェネレーションズ、次世代の注目選手たち。
「俺だ」
不意に頭上から声が降ってくる。
見上げれば、負のオーラを放っていた、かと思われた男の人。
視線は私じゃなく、広げた雑誌のページ。
東京代表、梟谷高校。
次世代大注目のスパイカー。
「それっ、俺だよな!?!」
「た、たぶん」
「借りていい?」
「ど、ぞ」
「サンキュー!!」
ご指名を受けた雑誌を相手に手渡す。
さっきまでの暗い雰囲気はどこへやら、グン、とこの車両全体を明るく照らさんばかりの勢いで(ついでに言えば、大きな声を響かせて)、ほら言っただろって、俺が雑誌に載るってと、その証明とばかりに私の雑誌をそれぞれに見せていた。
こんな風に使われる未来があるなら、雑誌をもう少しきちんと乾かし、綺麗な状態にしておければよかった。
相手の人が大きな一歩で戻ってきた。
「!」
「ありがとな!」
「いえ……」
満足したらしい相手が、月刊バリボーを差し出した。
開かれたページ。
白鳥沢の牛島選手とはまた異なるスパイクシーンが映っている。
見違えたようにキラキラとした爽やかさまで放つ相手は、手すりにもたれるのをもうやめて、しっかりと両足で立っている。
それだけで、迫力と魅力がずっと増してみえた。
全国クラスの選手が真ん前にいる奇跡。
すごい。
「ねえ、なっちゃん」
「ん?」
「ペンある?」
「ペン? 待って」
友人が持っていたのはボールペン。
水性のインクじゃないだけいい。
すっかり話しかけやすい雰囲気に変わった相手に視線を送ると、すぐ気づいてもらえた。
「なに?」
「あの……、よかったら、ここにサインを」
「サインっ!!」
予想以上に大きな反応にやっぱり驚いてしまう。
「ダメなら全然!」
「いいっ、サインって、いい」
「……ぇ、と」
「いる? こいつのサイン」
「どうせなら俺らのもいっしょに」
「この子は俺のサインが欲しいって言ってんだろ、しっしっ!」
友達?というか同じチームのひとかな。その人たちが気さくに近づいてきてくれたかと思うと、追い払うそぶりをしてから記事のその人はペンを受け取った。
書きやすいように紙面を相手に寄せると、ここでいいかと確認される。
大きく頷くと、しっかりとした筆圧で文字が書かれた。
木兎光太郎。
次の大会でも要チェック!といったあおり文と共に、自信に満ちあふれた一瞬が写真に収められていた。
この記事に載っている選手は現実にいる。
静かな興奮で、胸がいっぱいになる。
「ありがとうございますっ」
「いいって!! サインくらいいつでも、あっ、記念写真撮っても「いいって、もう行こうぜ、なっ?」
何やらお仲間の人たちが電車を降りていく。
もしかすると、この人の気分?が切り替わるのを待ってから移動するつもりだったのかもしれない。
元より写真撮影をお願いするつもりはなかったので、皆さんを会釈で見送った。
と思いきや、一人だけ、足を止めて振り返った。
黒髪の人。
「ありがとう」
唐突なお礼に、うまく返事できない私に向けて、その人は続けた。
「おかげで助かったよ」
その人はほんの少しだけ微笑むと軽く頭を下げ、同じ動作を返した。
車内アナウンスがあと5分程度で出発すると知らせてくれた。
「ボールペン、ありがと」
「あの人、そんなすごいの?」
もう見えなくなった相手の様子を窺おうと友人が身を乗り出しつつ質問した。
発車ベルが鳴る。
「すごいよ」
書いてもらったサインを惚れ惚れとながめ、改めて雑誌記事に目を通した。
「梟谷学園って、バレーの強豪校だから」
「ここに載ってるの、さっきの人?」
「そう!」
「すっご! え、運命?」
「運命だよ!」
不思議な巡り合わせに興奮している内に、電車が走り出す。
ゆっくり、ゆっくり、その内、加速、すべてを置き去りにして電車は次の目的地へと走る。
「私、バレーに縁があるみたい」
雑誌を抱きしめてふざけてみる。
友人もそれに乗って、マネージャーモードだって笑った。
みえた看板、未来はすぐそこに。
next.