「それは?」
「あ、さっきの人が落としたみたいで……」
手元にあるのは、使い馴染みのある生徒手帳。
そうだ。
「まだ近くにいるかもしれないので、これ、届けてきます!」
そこまでしなくてもと用務員さんは言ってくれたけど、不審者と間違えたのは私だ。できることなら直接謝りたい。
持ち主の人も、春休みに生徒手帳がないと何かと不便なはずだ。
力説すると、用務員さんはうんうんと相槌を打って穏やかな調子で続けた。
「まあ、もし会えなかったら、事務室おいで。預かるよ」
「ありがとうございます!!」
頭を一つ下げて走り出す。
あの高校生の人はどこだろう。
辺りを見回しても、人影はない。
ひたすら走る。
時間はそんなに経ってないし、あの存在感、見つかる可能性は十分あるはずだ。
「!」
体育館。
視線を感じて振り返った先には、先ほど少しだけ話したジャージの人が立っていた。
距離はそれなりにあるから顔はよくわからないけど、黒いジャージと背丈は同じ。
あの人……、この生徒手帳を落とした人と知り合いなのかな。クラスメイトとか。
こちらの視線に気づいたのか、それとも単に興味を失ったのか、その人は身体の向きを変えて体育館へ入っていった。
黒いジャージだから、烏野バレー部、かな。
って、考えてる間に、あの人が帰っちゃう。
女子生徒数人が楽しそうに話しながら校舎に消えていく以外、生徒の姿がなかった。
あれだけ身長のある人がいればすぐ気づけるはずで、いないってことはもう帰ってしまったんだろう。
走るのも相当早かったし、……せめて、従兄のお店まで行ってから引き返そう。
とぼとぼと坂を下りながら、生徒手帳をじっと見る。
名前が書いてあった。
東峰旭。
なんて読むんだろう。
下の名前は“あさひ”だろうけど、苗字は、ひがしみね?
でも、なんであの人、体育館をコソコソのぞこうとしてたのか。
烏野の人なら堂々と見学すればいいのに。
悪いことでもして中の様子を伺おうとしてた、とか?
「ねーねー、すみませーん」
「はい?」
突然、横から声をかけられ、びっくりした。
二人。同年代っぽい男子。
どちらもこの生徒手帳の持ち主ではない。
ジャージ姿だけど、見かけない色で、他校の校章がカバンに印字されていた。
肩にかけてる荷物はテニスラケットだから、練習試合でもしにきたんだろう。
二人はお互いにひじをぶつけあって、どこか面白がっている感じで続けた。
「烏野の子?」
そうだけど、4月じゃないから正式には違う、のかな。
律義に、答え方に悩んだときだ。
「よかった、ら……、ひ!!」
「へ? あのっ」
話しかけてきた他校の二人が、坂を全速力で上がっていく。
ふと人の気配がして振り返る。
悲鳴を上げかけたのは、我ながら失礼にもほどがあった。
「すみません、すみません!! 2回も失礼なことを……!」
谷地さんと同じくらい、それ以上に頭を下げる。
謝罪を受ける相手はひどく恐縮した様子だった。
「い、いいよ。いきなり後ろに人が立ってれば、誰でも驚く」
「でも、あの、さっきも、体育館で、そーだ!」
このまま謝り倒していたら、返しそびれる。
生徒手帳の持ち主であるその人に、拾ったそれを差し出した。
「あ、それっ、……ありがとう」
ポケットをまさぐったその人は自分の持ち物だと悟り、生徒手帳を受け取った。
中の写真を確認しておだやかに微笑む。
こんな優しそうな人を不審人物と間違えるなんて、自分の間抜けさに申し訳なさが募る。
かさねて謝ると、相手の方も大きく手を横に振った。
「気にしないでいいよ、あんまり自慢にならないけど、よくあることだから」
「そ、……なん、ですか?」
「職務質問されたこともあるし、……前にも授業参観があった日、かな。父兄に間違われて、俺はそのとき2年だったんだけど、1年の教室に連れてかれて」
おどおどと説明してくれるその人が、授業参観をする教室に連れられて行く様子を想像する。
つい噴き出してしまった。
「す、すみません!」
「いいよ、散々笑われてる」
その人は、ズーンとどこか暗い雰囲気で付け加えた。
「あ、でも! 父兄なら……、その、怪しい人じゃなくて、大人っぽいってことだからイイことなんじゃ!」
「そう、かな」
「そ、うです」
一瞬だけ空いた間は、お互いにそうなんだろうかと疑問に思ったからに違いない。
その人は、フッと肩の力を抜いて表情を和らげた。
「そう言ってくれるなら、そうかもしれないな」
つられてホッと息をつくと、その人は続けた。
「新一年生?」
私のことだ。
「はい、今日、制服の採寸があって」
「そっか、もうそんな時期か」
新入生は知らないだろうけど、と前置きして教えてくれた。
春休み中は、部活関連で他校の生徒も行き来するから、変なのに絡まれることもあるから気を付けて、とのことだ。
「隙があるってこと、ですね」
たしかに落とし物に気を取られて周囲への注意がおろそかになっていた。
「これからは気を付けます!」
「いや、隙というか、女子はやっぱり……。うちのマネージャーもよくこの時期は声かけられそうだったから、用心はした方がいいんじゃないかな」
「マネージャー?」
聞き返すと、相手の人は目を泳がせたように見えた。
「何部なんですか?」
追求というより、単なる質問。
ふと浮かんだ興味。
その人は、なぜか少しだけ答えづらそうな表情になったのち、静かに続けた。
「バレー部……」
「バレー部!」
ってことは、烏野男子バレー部の先輩ってことになる。
「あの、先輩!」
「えっ、先輩?」
「話聞かせてもらえませんか? そうだ、さっきのお詫びもしたいし、ちょっと来てくださいっ」
「え、あ、ち、ちょっと!」
連れ込んだのは、坂ノ下商店。
中にはおばさんがいて、従兄の姿はなかった。
「あの、えっと」
「座っててください! おばさーんっ」
ちょうどいいものを見つけて、必要なお代はきちんと支払い、ドン、と先輩の座る席に品を置く。
続いて、勝手知ったる従兄の家にひと声かけて上がり込むと、ドドン、と二つ、湯飲みを並べた。
「どーぞ!」
「これは?」
「お礼とお詫びに、みたらし団子!」
たまにしか店頭に並ばない、向こうのお店のお団子は、あればラッキーって商品だ。
従兄が外に出ていたという話だし、一度戻ってきた時に仕入れたに違いない。
「おいしいんです、とっても! お茶も入れてきたし、話も聞きたいです、先輩!」
「先輩……、そっか、君が春から烏野に入るなら、俺は先輩になるのか」
その人はどこか照れた様子で頬っぺたを指でひっかいたのち、お言葉に甘えてとお団子の串を1本手に取った。
私もまた自分の分を一本手に取る。
いただきます。
いただきます。
自分のと相手の一言がずれたテンポで重なって、それぞれのペースで食べ始めた。
お団子の味はいつもの通り、おいしい。
「名前は?」
もぐもぐと味わっていると先輩に聞かれた。
「です」
「さんか。俺は東峰旭、今度3年になる」
「あずまね先輩!」
読み方をおぼえようと繰り返すと、先輩はお団子をまた一つ食べてから言った。
「あんまりそう呼ばれないから、変な感じがするな」
「何て呼ばれるんですか?」
「さん付けで下の名前を」
なぜか、言葉の続きはない。
不思議に思って見つめていると、先輩は私の視線を受けて笑みを作った。けど、何か言いたげなだけで黙っている。
代わりに私が言った。
「旭さん?」
そう呼ぶと、先輩の瞳の奥が揺らいだようにもみえた。
あずまね、あさひ。
「旭さんって、きっと呼ばれてるんですね」
バレー部って言ってた。
今度3年生になるって。
「後輩の人たちから、いつも」
「そう!」
力強い、というより、私の言葉を切るように強い語調で相槌を打つと同時、旭さんの足がテーブルに当たって、まだ口をつけていない湯飲みからお茶がこぼれた。
旭さんが謝って、大丈夫ですと台拭きを取りに行った。
本当になんでもないことだ。
私は少しだけ中身の減ったお茶を注いでこようとしたけど、旭さんには『行かなくていいよ』と止められた。
ひと段落ついて座り直し、相手に告げた。
「すみません」
私が謝ると、先輩は目を丸くした。
「旭さんなんて、馴れ馴れしかったですね、ごめんなさい」
「いやっ、そういうんじゃなくて……、さんが呼びたいなら旭さんでいいよ、ほんとうに大丈夫だから、ただ……」
言葉を待つ。
旭さんが湯飲みを手にしたまま、しばらく黙った。
今度は待つことだけにした。
旭さんは、なにを考えているんだろう。
「……なんでも、ないよ」
旭さんはお茶を飲んでから、そう言った。
「さん、ごちそうさま。片付けるよ」
「あ、私がやるので」
「いいよ、向こうに運べばいい?」
旭さんが軽々お皿や湯飲みを運んでくれる。
今にも帰りそうな雰囲気に、まだ話が聞けてないって顔をしてしまったらしい。
旭さんが申し訳なさそうに眉を下げた。
「バレー部のことは、俺に聞かない方がいい。
……ごめん」
お団子はおいしかった。ごちそうさま。
店番をしているおばさんにも頭を下げて、旭さんはお店を出ていった。
「、なんだ、来てたのか。そうだ、おばさんに持ってってもらいたいもんが」
「けーちゃん」
「ん?」
ごめんって。
なんで、あんな苦しそうな、寂しそうな顔……、旭さん。
「?」
「なんでもない」
切り替えよう。
「けーちゃん、持ってくものってなにっ?」
「おー、ちょっと待ってろ」
店の奥に入っていく従兄、さっきまで座っていた椅子、2脚。
next.