「その人、おれとおんなじだね」
日向くんが屈託なく笑みをこぼす。
「さんのトスが好きだから」
手元のプロフィール帳にまた視線を移す。
好きなもの、のトス。
鉛筆で書かれたそれは、書いた人物を思い起こさせるには十分だ。
ずいぶん前のことなのに、最後に会った時のことも、交わした言葉も、自然と頭に浮かんだ。
忘れていたわけではないからおかしくはない。在ることはちゃんとわかっていた。
この間、祖父の家で押し入れの奥から段ボールを引っ張り出したときと同じだ。
頭の奥の、奥の、そのまた奥に入れておいた記憶の箱をのぞき込んだ気分だ。
「さんと仲よかったの?」
「うん」
「スパイク打ったり?」
「わかるの?」
「トス好きって書いてあったし」
「あ、そっか」
「その人、エース?」
小学生の時はやたら輝いて聞こえたフレーズだ。
その響きが懐かしい。
そう、この人はエースだった。
チームの中心だった。
「エースに好かれるさんのトスすげえ…!!」
「いや私はぜんぜん…!すごいのは打ってくれる方で」
宮城の、とある地域の、小学生が集まるバレーチーム、なんて局所的な世界の中で私のトスが偶然選ばれただけだ。
本当に、たまたまだった。
「こうやってさんのトスのこと書いてるってことはさ、さんがすごいってことだよ」
自分に向けられた、圧倒的な好意。
言葉に迷った。
日向くんが返事を待っているのがよくわかっていた。
「たしかに、そうだよね……そう」
言葉を続けられなくて、ゆっくりと息をついた。
たった1枚のプロフィール帳、卒業アルバムの元あったページに戻して、気持ちを切り替えるように勢いよく閉じた。
「日向くんはさ、全部好きでしょ、トス」
私のトス“も”好きで、他の誰かがあげるトスでも放ったボールでも、日向くんはいつだって歓迎していた。
日向くんはこちらの言わんとしていることに気づくわけもなく、トス全般が好きという部分を肯定した。
「私がすごいとかじゃなくて、ただ……」
なにを、言うつもりなんだ。
「なんでもないっ。これ、本当は専用のバインダーがあるからそれと一緒にしておかないといけないんだ、うっかりしてた」
どこにしまったか帰ったら探さなくちゃ。
口で言いながら、プロフィール帳自体どこにあるかはわからなかった。きっと探しもしない。
なぜか早口で、日向くんから逃げようとしていた。
なにかを追求されたわけでもないのに。
「さんはさ」
前に聞かれたときのことを思い出して身構えた。
「なにやりたい?」
「えっ? き、今日?」
我ながらずいぶんと間抜けな反応だった。
日向くんは首を横に振って、両手を床についてもたれた。
「前に言ってたじゃん。バレーやんないのは他のことしたいからだって。何したいのかなって」
「……」
「おれに、話せないなら仕方ないけど」
「いや、その、そういうんじゃなくて」
特別やりたいこと、そう問われてぱっと応えられるだけの答えを持ち合わせていなかっただけだ。
受験勉強、部活動、塾、読書、その他のいろんなこと。
浮かぶだけ浮かんで、でもどれも熱量を持ってはいなかった。
トクベツな、何か。
日向くんみたいに、バレーに焦がれる気持ち。
「家庭科部は?」
「好き……だけど、ねえ」
高校に入っても続けるかは疑問だった。いや、きっとしないんだろうな。
全部同じだった。これが家庭科部以外でも、自分で思いつくものすべてが平等な価値を持っていた。
そこからいろんな質問を受けた。
まるでプロフィール帳に書くみたいに、日向くんがポンポンと質問してくれるから答えて、同じように日向君に聞いて、それを繰り返した。
それら全部を答えても自分のやりたいことは出てこなかった。
「な、なんかごめん」
自分が情けなくなってくる。
「謝ることじゃないよ」
「でも」
かっこわるかった。
自分というものがないことはずっと自覚はしていたけど、日向くんを好きでいる資格がないんじゃないかって考えてしまう。
それは、もちろん言わなかった。
「これから見つかるよ、きっと」
「そう、だといいんだけど」
「ぜったいっ」
前に従兄にもこんな風に励まされたっけ。
日向くんが急にお兄ちゃんらしく見えた。
「もし見つかったらさ、応援するから」
「応援?」
「そう!!」
日向くんが力を込めて勢いよく身体を起こすから、その動きの方にも若干びっくりした。
「さんがいつもしてくれるみたいに、おれもさん応援したい」
「あ、ありがとう」
「まだなんにもしてないよ」
「いや、その気持ちだけで十分で」
「もうお断りされてる?」
「さ、されてないよ!」
「なら、約束!」
日向くんがひょいと小指を差し出したから、同じように自分の指を引っかけた。
「ゆーびきーりげんまん!」
前にもこうやって針を飲ませる約束をしたなと思いながら、こんな風に話しただけで気持ちが軽くなる自分の単純さに笑いがこみ上げてきた。
日向くんが不思議そうにこっちを見た。
「なんかおかしい?」
「ううん、なんでもない」
「なに?」
「なんでもないから」
「教えてよ」
「ほんと、なんにも」
ないんだって、そう続けようと顔を上げたとき、日向くんとの距離が思いの外近くて声も出せなかった。
日向くん、全然目をそらさない。
つい顔をそらした。
私ばっかり動揺している。
「そ! ろそろ、アップルパイ食べる?」
「いいね!」
「じゃあ……」
早速、箱から取り出そうとした手を日向くんに止められる。
そうか、ここで食べるのが嫌なんだっけ。
「ううんっ」
「違うの?」
「部屋で食べてもいいけど、もっといいところで食べよう」
「いいところ?」
「これ開けていい?」
もっといいところに移動するのにアップルパイの入った箱を開けるのか。
そう思ったら、食べる分だけ持って行こう、という話らしい。
特に希望はないので日向くんの指示に従った。
最初から小分けになっているアップルパイなので日向くんは2つだけ取り出して袋に入れ直した。
日向くんの後ろについて行く。
天気がいいから外で食べようってことなのかな。
靴を履き替えて、外に出る。
もしかして日向君の家に来るまで案内してくれた紅葉を見ながらってことかな。
日向くんの目指す先を推理しながらついて行くと、日向くんがひょいと足をかけた。
え、まさか。
日向くんが身軽に進んでいく。空に。
「さん、そこから足かければすぐだよ」
「いや……!」
すぐ、ではない。
日向くんはいいけど、待って、これ、本当に登るの?
大きな木が目の前に佇んでいた。
日向くんはもうかなり上だ。
「あ、手伝う?」
そのレベルじゃ、ない。
いや、わかっていた。日向君の家に行くってことで、今日はスカートじゃなくてズボンにしたし、靴だって動きやすいのを選んだ。
いける、きっと、いける!
「だ、いじょーぶ、自分で行ける」
「わかった、上で待ってるからっ」
え、日向くん、まだ上がるの。……上がるの!?
心の叫びを言葉にはせず(というかする余裕もなく)、日向くんが辿った道のりをなんとか思い出して足をかけ、手をかけて、登った。
木なんてどれくらい登ってないだろう。記憶の片隅にもない。
救いはこの木はしっかりしていて、枝も太く、体重をどれだけかけても折れはしなそうなこと。
「さん、ほら!」
最後はつい差し出された右手に自分のを重ねた。
引っ張られるままに登り切って、日向君を真似て腰を下ろした。
絶対に下は見ないようにしていた。
降りれるんだろうか。いや、考えちゃダメだ。
「あっち!」
日向君は部屋にいる時と同じように変わらず言った。
示された方角には山が見えた。
「あの向こうに烏野があって、こっちは雪が丘」
ガイドに従うまま、頭をあっちからこっちに動かした。
今、私たちが通う雪が丘中学がこの山の向こう、その反対側が烏野高校。
じゃあ、きっと白鳥沢はこの方角だ。
影山君が通う北一はどこだろう。なぜか自然と気になった。
「ここから眺めるとさ」
「うん」
「ぜったい行くぞ!って気持ちになるんだ」
「う、うん」
「なに?」
「いや、そんな風に足揺らさないほうが!」
「これ?」
「日向くん、ねえ……!」
「ん?」
「わかってるよね!?」
ブランコじゃないんだから。日向くんが足それぞれを動かすと1本の木は当然一緒に揺れる羽目になった。
話しぶりからして日向君は登りなれているんだろう。
だからって今日初めて登る人間のことを忘れないでもらいたい。
『揺らさないで』と想いを込めて日向くんの服を引っ張ると、日向くんが笑った。
「こわい?」
「そりゃ!」
「でもさんはここにいる」
日向君の声がやわらかい。
「来てくれた」
来て、
しまった。
日向くんの服をつかんだまま、山の方を見た。ううん、山の向こうの高校を見ているんだ。
来年の春を思う。
日向くんがいるから、今ここにいる。
風が吹いた。ほんのちょっとだけ、冬を感じさせる冷たい風。
「た、食べようよ、アップルパイ」
「そうだった!」
二人で並んで食べるパイはサクサクと音がして、こぼれた欠片はやっぱり落ち葉みたいだった。
next.