ハニーチ

スロウ・エール 114






日向くんのおかげで1曲歌いきれると、後は楽しくなってあっという間だった。

残り10分を知らせる電話を取った。


『延長されますか?』


さすがにもう帰らないといけない。
短く断って受話器を置くと、日向くんの声がマイク越しに響いた。


「ふ、ふつうに歌ってしまった……!」

「?歌うのがカラオケだよ」

「そっそうだけど!」

「あ、始まった」


ほら、と促すと、日向くんも続きを歌った。

残り10分とはいえ、今の歌のサビは最後まで歌いきれる。

手拍子をしながら、曲の履歴を眺めた。
思ったよりは歌えたかも。

部屋に入った当初よりもリラックスしてタブレットに指を滑らせている内に、『止めていいよ』って日向くんが言うから、停止ボタンをタップした。
まだ次のリクエストを入れてない。


「日向くん、歌いたいのあるなら入れていいよ」


私はこの間の塾の子たちのも含めてけっこう歌ったから満足だ。
日向くんが歌うのを聞けたのもうれしい。

タブレットを差し出しても、日向くんは受け取らず、マイクをオフにしてテーブルに置くだけだった。

次の曲がないカラオケマシンは、新曲を携えたアーティストのインタビューに切り替わる。


『今回の曲のポイントをお聞かせください』


画面の小窓に、新曲のミュージックビデオが表示されるから、そっちを見た時だった。


「あ、あのさあ!」


日向くんの方に振り返ると、使い古されたソファーがギシッと大げさに音を立てた。
あと9分は切っている。

目が合うと、日向くんは氷で薄まった炭酸水をあおった。


「飲み物、入れてこようか?」

「いっいいよ」

「私のも冷めちゃったし」


声が出るように、と選んだ暖かい飲み物も、さすがに1時間近くたてばぬるくなっている。

時間もないし、入れてくるなら今だ。


さんっ!」


『では、さっそく新曲のタイトルをお願いします』


「ここにいて」


アーティストの人が言った、肝心の曲名が耳からすっぽり抜け落ちた。

浮かせたスカートを、ソファーへ遠慮がちに戻す。


「も、もしかして、喉かわいてた?」

「いや。日向くんの、飲み物が」

「おれは、……いいよ」

「なら、いいんだけ、ど」


マイクを握っていた日向くんの手が、私の手首をつかんでいる。

日向くんも私も歌わないから、ミュージックビデオが静かに流れだす。
廊下の向こうで流れ続けるBGMも届くくらい、ゆったりとした冬のメロディー。

明るい曲ばかり選んでいたから忘れていたけど、もう冬だった。

恋人たちのためのバラードがぴったりの季節。


「歌もさ」


日向くんがこっちを向いた。


「歌も、いいんだけど、その、二人になりたくて」


今、二人だけど、そういう二人じゃなくって。


日向くんの手が離れた、と思ったけど、するりと手の甲をすべって、私の指に届いて、指と、指とが触れ合った。

クロスする。
胸の奥がくすぐったくなる。

まるで、恋人みたい。みたいじゃなくて、そう、なんだけど。

私と違う、少し骨ばった手の甲から腕をなぞって、よく知る学ランの肩口から、ふわっとした髪から覗く耳、こっちを見つめる、真っ直ぐな瞳。
まぶしいのは、向こうの画面のせいじゃない。

俯くと、さん、と呼ばれた。


こわい?


いつもと同じ調子で聞かれるから、そんなことないって慌てた。
けど、やっぱり少しだけ、ドキッとしていた。
すぐ言った。


「こ、こわいことするの?」

「しっしないよ!しない!」

「だ、だよね。日向くん、そういう人じゃないし」


なのに、指、ぎゅ、としないでほしい。

いま、想像したこと、全部伝わっちゃいそう。

あと何分?

まだ、ソファーがギシッて言って、距離が縮まった。



「こ、ここ、カラオケだし、もう帰らないとっ。
 マイクも、メニューも、片づけな、きゃ」



日向くんが、肩にもたれかかる。

軽いわけじゃないけど、重くもない。
全体重がかかっているわけじゃなかった。遠慮がちな、この体感。

日向くんの髪が頬にあたっている。

前に触った、夏ちゃんの髪とは、また違う。
女の子の友達とも違う、甘さのない香り。

おひさま、手が届いたらこんな感じかな。

ふわっと、あったかい。



「……え?」

「ごめ、声出てた!!」


この状態でこっちを向かれると、至近距離すぎて、反対側を向いて口元を押さえた。

あったたかかったから、つい、そのまま声に出していた、ばか、わたし。


「あったかい?」

「ちが、ちがうの、冷え性で。指が、その金属を、触ると、その、熱がね」


なにを言っているんだ。混乱がさらに混乱を呼んだ。


さんも、あったまる?」

「へっ?!」

「たぶん、その、あたたかいので」


緊張した面持ち、なぜか日向くんが真正面の何にもない壁を見つめている、背筋真っ直ぐに。


「……ど、どうすれば?」


まったく状況がつかめない私は、本当に察しが悪すぎる。

日向くんがぎこちなく自分の肩を、ぽん、と示して、ようやく理解できた。


「い、いいの?」

「いいよ! お、おれも、さっき、しちゃったし。き、許可なく」

「許可は、いいんだけど」


だ、だけど。


「いいの?」

「うん、さんなら。むしろ、来てほしい」


来て、ほしい。

きてほしい。


何度も頭の中でリピートする。日本語能力も、どっかになくしてしまったみたいだ。

来てほしい、って、その、来てほしい、だよ、ね。


はあーー、長くながく深呼吸した。


「で、では!」


こんな緊張して肩に持たれたことなんてあるだろうか。


さん、あったかい?」

「わ、わかんないっ」


いや、あったかいんだけど、もうこれ、何が原因であったかいのかさっぱりわからない。


「も、もっと寄っかかっていいよ!」

「寄りかかってるよ!?」

「ぜんぜん寄りかかってないと思う」

「あ、あんまりしたら日向くん重くなるから!」

「重くないよ!」

「でっでも! あっ」


握りしめられた片手が日向くんの膝の上まで引っ張られる。

そんなんされたら、そりゃもっと近くなる。
なるに、決まってる。


「こ、これくらいじゃないと、よりかかってるって言わないっ、と、おれは思う」


ずる、い。

ずるい。


私ばっかり、こんなの、こんな、すきで。


しばらくこのままもたれていて、どれくらいくっついてたかなとまた混乱したけど、よく考えてみれば数分間の出来事だった。















「はあー」


最後の最後がいろいろ濃密すぎて、もうなにがあったかわからないくらい、頭がぼんやりしていた。
火照ったすべてに夜の冷たさがちょうどいい。

カラオケ屋さんの外はもう真っ暗で、息を吐くと、まっしろだった。


「ごめん、あった!」

「ううん」


日向くんが荷物一つを部屋に忘れてきて、戻ってきた。

ほっぺたが熱い。指先も、冷え性なんか消えてしまう。

日向くんが自転車をカラカラと押した。


「乗る?」

「ここ坂道じゃないから」


それに冬の自転車は、風が応える。


「春になったら乗せて」


そういうと日向くんが嬉しそうに頷いた。




next.