ハニーチ

スロウ・エール 12



空まで手が届くんじゃないか。
そんなはずはないのに足取り軽く家に帰った。
浮かれているなと自分で半分冷静に感じながら、もう半分ははしゃいでいた。
帰宅後にストラップを何度も確認して、両手で大事に握りしめた。
鞄に付けようかと思ったけど、万一なくしでもしたらと思うと付けられなかった。

翌週になっても、この浮かれ具合はなかなか去ったりはせずに、友人たちに最近どうしたのなんて聞かれた。
日向君と水族館に行ったんだよ、とは言わない。私だけの秘密だった。
日向君も別段誰かに話していることもなさそうだし、夏に近づく学校ではすぐに時間が過ぎ去った。


「日向く……」


「まだ、もう一回!お願いだからさ、な!」


夏休み前のテストが終わって、後は消化試合のように答案が返ってきて見直しをするばかりだった昼休み、声をかけようとした言葉はこれ以上出て行かなかった。


「また一人バレー?」


一緒にいることが多い友人はバカにするわけでもなく、呆れる訳でもなく、単なる事実として感想を述べた。
静かにうなずいた。
まだ、バレー部員はいない。バレー愛好会のままだ。
日向君は一人でも練習を続けていた。


「あ、さん!それに夏目」

「日向、いい加減、バスケ部にでもサッカー部でもなんでも入ればいいのに。日向、足早いじゃん」

「は、入らないって!おれはバレー部っ」

「ほんとよくやるなー」

「な、なっちゃん。ほら、行こう」

「あ、さん、手、出して」


日向君に言われるがまま手のひらを差し出す。
手のひらに乗せられたのは、まるい何かだった。
友人も不思議そうに覗き込む。


「なにそれ」

「……スーパーボール?」


それも、バレーボールの形をしたスーパーボールだった。
日向君は得意げに笑った。


「あげる。昨日、祭りで取ったんだ」

「あ、ありがとう!」

「ふーん、よかったねー」


意味ありげにほくそ笑む友人の脇に肘を当てた。

そのまま日向君は駆けて行った。
バレーの練習の続きをするんだろう、今日もこんなに暑いのに。
今日、保冷剤でも持ってこうかな。それと、濡れタオル。


、マネージャーやれば?」

「マネージャー?」

「だってかいがいしく尽くしてるじゃん」


誰に、とは確認しない。
友人の視線はさっき日向君が駆けて行った方向だった。
私は首を横に振った。


「マネージャーより選手が入らないとイミないよ」

「T君と二人きりでいいじゃん」


友人の軽口を聞き流しながら、前に想像してみたことを再び思い描いてみる。
日向君のいるバレー部で、自分がマネージャーをする姿。
バレーができる日向君を想像すると嬉しくて、マネージャーをする自分には違和感を覚えた。
確かに日向君に恋してる。かといって、日向君の世界に踏み込んでいくことには共感しなかった。
きっと、こうして友人と過ごしたり、家庭科部をするなり、他のことに自分の世界を見出しているんだろう。

恋する自分に嫌悪することもなくはない。今は、これがいいと思った。


*


そうこうする内に、夏休みが始まって、林間学校があって、夏期講習があって、親戚の家に集まったり、友人たちとプールに行ったり部活をしたり、いろんなことがあった。
時折おりで日向君と触れ合う機会はあった。去年よりずっと、日向君に近づけた気がしてそれが嬉しかった。
日向君は一人でもいつもどこかで練習をしていた。
私も、前よりボールを触る機会が増えた。当てのないトスをあげて、このボールに応えてくれる日向君を想像してみた。
それは素敵なことのように思えて、同時にひどく残酷に思えた。一度も日向君にはトスをあげようなんて言えていない。
トスあげてよ、と声をかけられた1年生のころを思い出す。
あの頃、まだボールと触れ合えていたとしても頷けなかっただろうな。
ぐるぐると余計なことを考え始めた時、背後から音がした。


「またトスか……」


ふりかえると真っ赤なトマトを洗い終えた祖父が立っていた。

練習を始めた当初こそ、レシーブも怠るなといつも言っていたけど(今もだけど)最近はどこか呆れた様子だった。
私がバレーをしたい訳じゃないことを少しは理解し始めたようだった。


「食うか」

「!食べるっ」


差し出されたトマトを受け取ってかじりついた。
もう夕方だっていうのに、こんなに空は明るい。あれは、一番星かな。

二人で庭を眺めて座った。


「おじいちゃん、おいしい」

「そうか」

「とってもおいしい」

「そうか」


話を聞いているようで聞いてなさそうな祖父に構わず話しかけた。
高校のこともだ。もう中学2年、来年は受験がある。


「烏野?」

「そう、受けようと思ってる」


日向君のこととは関係なく、通いやすさを考えて前からそう思っていた。
祖父の様子を伺うと、来るなとも、歓迎しているとも、どっちでもとれるような難しい表情をしていた。


「!!」


急に急き込んだおじいちゃんの背中を撫でる。



「だ、だい、大丈夫?」

「んっ、大丈夫だ……はあ」

「身体、冷えたんじゃないの?へーき?」

「大丈夫だ」

「でも……」


祖父は立ち上がるとそのまま畑の方に行ってしまった。

仕方なく残ったトマトを食べ切り、区切りもついたのでボールを片付けた。


「あら、ちゃん。女の子らしくなったわねえ」

「ええ!」


祖父の家からの帰り道、近所のおばさんに声をかけられた。


「顔も少しすっきりして可愛くなったねえ、どうしたの?」

「ど、どうもしないです」

「そう?彼氏でも出来たのかと思ったわ」

「できてないですっ」


楽しそうに話すおばさんと世間話をして、まだドキドキと煩い胸を撫でて家に向かった。
恋心を自覚する度にほんの少しだけ後ろめたさが湧き起こる。
日向君を応援したい。
この感情は純度100%なんだって、誰に言われるともなしに思ってしまう。



*



秋が来て、文化祭のシーズンになった。
それと、席替えもだ。
文化祭が終わるとちょうど席替えがあるから、日向君が隣の席なのは最後だ。
だから、今できることをしようとクラスの出し物では張り切った。
もちろん家庭科部の方もだ。毎年喫茶店をやっているから、そのエプロンと商品、お菓子作りには精を出した。
クラスの出し物はくじ引きに負けて、単なる展示だったけど、周辺の七不思議を調べてまとめるのは楽しかった。日向君と同じグループだったのもある。

いつのまにか季節が巡っても、相変わらず日向君は一人でバレーをしていた。


「あ、さんっ」


転がってきたボールを拾い上げた。
駆け寄ってきた日向君は半袖で、私は対照的に長袖だった。


「明後日、本番だね」

「だね」

「日向君の家族、文化祭来る?」

「来るって言ってた。さんは?」

「うちは来るけど展示見てすぐ帰るみたい」

「せっかく家庭科部の喫茶あるのにもったいない!」

「エプロンも展示も親は見飽きてるから。そーだ」

「なに?」


差し出したのはクッキーセットのタダ券だ。



「ぜひ食べに来てください」

「おおお……っ、ありがとー!」


毎回こんな風に喜んでもらえるなんて嬉しいなあ。
ふとチャイムが響いた。
もう暗くなってきた空を二人で見上げた。
サッカーグラウンドから、ちょうどミニゲームを終えるホイッスルが聞こえた。

私たちは二人と、バレーボール一つ。

くしゅっ、日向君がくしゃみをした。


「半袖だと寒いんじゃない、って私が練習止めちゃったからか」

「いや別に。こんくらい大丈夫!」

「上のジャージ、ある?」

「そこにあるっ」


ふと思いついて浮かんだ言葉、手に持ったままのボールと、宙ぶらりんの気持ち。


「日向君」


ボール、出そうか。


勇気を用意する一瞬だった。


「日向、とうとう女子バレー部かー!」

「!ちげーって!!」

も頑張れよー」

「だから、さんはバレーと関係ないって!」


サッカー部の人たちが私たちのそばを道具を片付けに通った。
その中に紛れていた関向君と目が合って、何となく俯いた。
日向君も関向君を見つけたらしい。


「あ!!コージー部活終わり?おわりっ?」

「終わったけどもう下校時間だっつの」

「ちょっとだけトス出してよ、お願い!」

「またー?」

「1回だけでもさ!」

「絶対1回じゃねーだろ」

「1回だって、お願い!!あ、さんボールありがとう、チケットも」


「う、うん」


バレーボールを放って、私から日向君に移った。
そのまま関向君の腕を日向君は引っ張って行って、半ば強引にバレーの練習を始めた。
しばらく二人を眺めていたけど、渡したかったものも渡せたからグラウンドを後にした。

体育館の横を通ったら、女子バレー部が練習しているのが見えた。
ボールの弾む音、掛け声、靴の擦れる音。
懐かしさと込み上げる複雑な感情を置いていくように早歩きした。
すっかり文化祭に染まった校内を歩いて、下駄箱に向かう。

廊下に張ったバレー部募集のポスターもちらりと視界に入った。


「……どうしたら、よかったんだろ」


未だに1年も2年も入ってこないバレー部、大会に出るならもうチャンスは少しだ。

ぎゅ、と拳を握りしめて走った。


そうこうする内に、文化祭が来て、席替えになった。
同じクラスのままだけど少し遠い。

もう少ししたら私たちは3年生だ。
あっという間に、卒業になっちゃう。



next.