バスに乗ってしばらくしても、日向くんのことでいっぱいだった。
ほんとうに抱きしめられたんだって自分の腕を確かめ、すきと言い足りないと囁かれたことを思い出して顔が熱くなる。
たくさん言いたいことは浮かぶのに、夜が映る窓ガラスの向こうを見ては日向くんに会いたくなる。
英熟語、バスで覚えようと思ってたのに。
申し訳程度に単語帳を出してぺらぺらめくってみたものの、ぜんぜん日本語訳が出てこない。
mature、の訳は、えっと。
暗記物は考えたってしょうがない。
降参して紙をめくる。
裏に、“成熟した”と書いてあった。
成熟、大人。
日本語訳よりも今の自分の状況が想起され、もっとずっと大人になったら、こんな気持ちも簡単に取り扱えるんだろうかとため息をついた。
好きな人にどこまでも近づきたい。
でも、こんなドキドキに耐えられる自信がない。
いつまで経ってもこのくすぐったい気持ちが消えず、必死で単語帳とにらめっこを続けた。
家に帰ると、いつもはない履きつぶされた大きな靴が玄関にあった。
「、おかえり」
奥から姿を現したのは、烏養繋心こと従兄のけーちゃんの姿があった。
「なんでいるの? まさか!」
また祖父が倒れたのかと不安がよぎると、母親が荷物の入ったビニール袋を抱えて事情を教えてくれた。
なんでも、祖父が明日病院で検査をするらしく、その手伝いをしていた母を車で送ってくれたらしい。
祖父の状態はよくはないが、倒れたわけじゃないと聞いて安心した。
従兄が荷物を抱えて母親にお礼を言うと、そのまま靴に片足を入れた。
「ゆっくりしてけばいいのに」
「まだやることあるしな。あ、明日学校終わったらウチだって覚えとけ」
「なんで?」
「一緒に夕飯だ」
「そうなの?」
従兄の発言の真偽を確かめようと母親の方を見れば、明日はバタつくからそうなったと説明された。
祖父がどんな検査を受けるか知らないし、あまり突っ込んだことを聞くと大人も心配するから、素直に頷いた。
たかが検査だ、悪いところが見つかったわけじゃない。
意識して明るいトーンで言った。
「けーちゃんち、行くの久々だっ」
「食いたいもんあるならリクエストしとけよ」
「なんでもいいよ、なんでも食べれるもん」
「人の皿に嫌いなの移してたやつがよく言うぜ」
「けーちゃん、いつの話してんの!?」
「わかったわかった、また明日な」
もう行こうとする従兄を母親が呼び留めた。
何かと思えば、私が探していたバレーの道具が従兄の家にあるかもしれない、という話だ。
考えてみれば、小さかった頃は従兄の家からバレーの練習に行くこともよくあった。
祖父の家にも同じように道具を置かせてもらっていたから、探し物が従兄の家にあってもおかしくない。
母は、これを機に荷物を整理する算段のようだ。
迷惑かと思ったけど、従兄はさして気にしていなかった。
「ちょっと今日見ときますよ。じゃあ。も」
「うん、またね、けーちゃん」
扉を押さえて従兄を見送った。
そっか、けーちゃん宅にあるかもしれないんだ。
今週末の影山くんとのバレー練習を見据えて、昔使っていた靴やらいろいろ何か使えないかと探していた。
小学校のものなんて使えない可能性が高いけど、なんとなくかつての“戦友たち”と顔合わせしたかったというのもある。
あったらいいな。
ほんの少しの期待感を持って、ローファーを脱いだ。
*
『さん?』
「う、うん」
今夜電話を本当にするか気になっていたけど、本当にかかってきたから、出ないという選択肢はなかった。
数コールもしないうちに電話に出ると、確かに日向くんの声がして、携帯のディスプレイでわかっていたけど嬉しくなった。
今日寒かったね、なんて取り留めもないことを話して、時間も時間だったから二言三言重ねると、どちらともなく沈黙した。
もう切らなきゃ。
明日になれば会える。
置時計の秒針をじっと見つめた。
「なんか……、黙っちゃうね」
『うん。話したいこといっぱいあんのに』
「明日も話せるよ」
『それは、いっつもわかってるんだけどさ。
話したい!』
矛盾した気持ちがよくわかって、つい話を続けると、次第に学校で話すみたく盛り上がった。
声が段々大きくなってきて、親に聞こえないよう口元を片手で押さえた。
お互いに話題を見つけて時間を引き延ばそうとしている気もした。
日向くんが眠いって言いだしたら、すぐ切ろう。
私から眠たいって言った方がいいかな。
おやすみがいつまで経っても喉元に控えている時、ぽつりと日向くんが言った。
『さん、すき
……って、言って、いいですか』
話題と脈絡はなかった。
予告されていたとはいえ、ストレートな言葉は不意打ちすぎて言葉を失う。
それに、答えるまでもなく、もうスキって言ってる。
『そ、そうだけど! ちゃんと確認いるかなって』
「あんまり言われると、『迷惑!?』
急に音量がアップしてビックリしたけど、そういう意味ではないと訂正した。
「あの、うれしいんだけど……」
『……だけど?』
「すごく、その、照れるなって」
『さん、いま照れてるってこと?』
そう、言ったばかりなんだけどな。
誰の目もないのに俯いた。
日向くんは嬉しそうに続けた。
『さん、照れてるっ』
どうしてそんな嬉しそうなのかわからなかったけど、日向くんは私がそんな状態なのが嬉しかったらしい。
しばらくそんなやり取りを繰り返してからやっと電話を切った。
*
翌日、いつものように学校が終わったら真っ直ぐに従兄の家に向かった。
もし烏野高校に通うようになったら、このルートを使うことになるのかな。
そんなことを考えながら、昨日ぜんぜん進まなかった英熟語を覚えている内に、目当てのバス停に到着した。
見慣れた道を思い出しつつ歩いていく。
時々、高校生とすれ違った。
烏野の人だ。あの黒いジャージはバレー部のはず。
従兄の家までつくと、勝手知ったる、とはいかず、きちんとピンポンをした。
従兄がドアを開けてくれた。
おばさんがお店を見ているらしい。
鍵がかかってないのになんでわざわざ呼び鈴を押したのか、と聞かれた。
昔は確かに何にも考えずに入っていた。
あの頃は遠慮というものをまるで知らなかった。
世界全部が私の味方のつもりだった。
今は、違う。
礼儀を覚えただけと返すと鮮やかに笑われた。
「あれ」
部屋に段ボールがいくつか出されていた。
「が使ってそうなのは、その辺だ。後はない」
「そっか、ありがと」
鞄を置いて、段ボールの前にしゃがみ込む。
「ガムテープはがしていい?」
「おお。あ、手でやんな。ハサミ持ってくる」
「いいのに」
「セッターだろ」
久しぶりに聞いたセリフだ。
「指先、大事にしろ。ほら」
お礼を言って、従兄から予想よりも大きめなハサミを受け取った。
手を動かしながら、向こうにいる従兄に言った。
「ねえ、これ、どこにあったの?」
「なんだー?」
「段ボール!どこにあったのかなって」
「すぐ後ろの押し入れ。昔よくが入ってた」
おもちゃがどこ行ったとか、服が見つからないとか、はしょっちゅう……と従兄がぶつくさ言っているのをそのままに、そっと襖を動かしてみると、ちょうどぽっかりと空間ができていた。
外に出された段ボールは、そっくりそのまま入りそうだ。
ほこりっぽさを感じつつ、段ボールを開いてみると、昔よく見た服や体操着袋や手提げが目に飛び込んできた。
表彰状もある。
一番上のを開いてみると、準優勝の文字がでかでかと立派な筆文字で書かれていた。
チーム名に、自分の名前。
同じようにくるっと巻かれた紙筒はあったけど、中身は想像できたから開かなかった。
手探りで引っ張り出すと、手のひらサイズのプラスチックの箱も出てきた。
中身はメダルだ。
みんなでもらった勲章。
「にしても、急にどうしたんだ」
「なにが?」
従兄は夕飯の準備をしていた。
「今まで見向きもしなかったバレーの道具まで引っ張り出して。例の一人バレーのやつのためか?」
「ち、ちがうよ」
従兄には前に日向くんのことを話したことがあったなと思い出した。
「おばさんも言ってたぜ、急にが昔に戻ったみたいだって」
お母さん、私には直接そんなこと言ってなかったのに。
段ボールを探る手が止まる。
「もしかして、おじいちゃんも何か言ってた?」
「あーまあな」
時折、流し台から音がした。
しばらく動けなかった。
中途半端に取り出した過去のすべてが息をひそめて、こっちを見ているようだった。
「私、変かな?」
従兄は聞こえなかったらしいから、もっと声を張り上げた。
「また別の人なんだけど、いま、一人でバレーしている人がいて、その人の練習に、付き合おうと思ってる」
従兄が何かをまな板で切っている。
規則正しい音が、とん、とん、とん、とリズミカルに届いた。
聞こえているかわからなかったけど、独り言のように話し続けた。
その人は、バレーの強い学校に行っていて、そのチームのセッターで、決勝戦まで行ったけど、最後は負けてしまったこと。
その試合は見に行っていて、その人は途中で交代させられたこと。
どういう訳か、その人と縁があって、今度練習に付き合うこと。
従兄に説明する内に、自分は何をしているんだろうと今さら戸惑った。
「けーちゃん、やっぱり、変かな。こんなことするの」
段ボールの一つ、しまわれた過去。
電気もつけず、向こうの部屋の明かりだけで中を確認してたから、箱の底が真っ暗闇に見えた。
「ねえ、けーちゃんっ」
なんでも大人に答えを求めていたころのように呼び掛けると、従兄がこっちを見た。
「、本当は自分がバレーしたいんじゃねーか?」
next.