ハニーチ

スロウ・エール 131





「ほんと、変わらねーな」


撫でてくれていた従兄の手が離れた。

ティッシュの山を片づけつつ、なにが、と尋ねると、従兄のほうはテーブルの上の新聞を開き直した。


、しょっちゅう泣いてたろ。試合に負けただの、上手くトス上げられなかっただの」

「まあ……」

「あー、じーさんに下手くそって言われてわんわん騒いでたこともあったな」

「!わ、忘れてよ、そんなの」

「でっかくなったってのに中身は同じだな」

「そんなの、けーちゃんだってそうじゃん」

「そうか?」

「ぜんぜん、変わんない」


少し意地悪なところも、優しいところも、
ぜんぶ、一緒。


そうやって助けられながらバレーを続けてきた。
小学生までだった。

もっと言うなら、スパイカーのあの子が1学年上だったから5年生の終わりの時点で、これまでと同じ熱量でバレーをすることはなくなった。

その時に辞めてもよかったけど、舞がいないからやめたって周りに思われたくなかった。

続けたバレーは楽しくもあった。

続けていくんだと信じていた。

バレーから離れることは想像以上に簡単だった。



「どうやったら自分の気持ちってわかる?」


従兄が新聞をめくる手を一瞬止めた。


「私、本当は自分がバレーやりたいの?」

「俺に聞くな」

「だって、言い出したの、けーちゃんじゃん」


本当は自分がバレーしたいんじゃねーか?

そう問われなければ、こんなに動揺なんかしなかった。



「この世の中で自分以外に本当の気持ちがわかるやつなんざいねえよ」



至極、まっとうな意見。



「……わかんないから困ってるのに」

「じゃあ、迷宮入りだな」

「ひどい」

「ひどかねえ」


朝に目が覚めて一番にボールを手にしていた。

上手くなれるならなんだってやりたかった。
誰とでもバレーをやれることが心地よかった。

ボールを受ける感覚、一瞬、すべてがとまったかのように思えた。

宙に浮かせた刹那、すぐ下に回って次へ繋ごうと手を伸ばして見えるあの光景。

相手の欲する場所にボールを届けて、ネットの向こう側に繋げられたときの快感。
点と点が結ばれた奇跡。

全部好きだった。
あのコートの中にすべてがあった。

この気持ちが自分から消えるなんて思いもしなかった。
でも、なくなった。

残酷なほど呆気なく、あっさりと手放せた。

本当に、私はバレーを大切にしていたのか、急にわからなくなった。



「……ちゃんと、自分のことわかりたい」



従兄が一瞬手を伸ばしてまた元に戻した。

何をしようとしたかすぐにピンときた。


「吸っていいよ、タバコ」

「!……そういうのはわかんだな」

「だって」

「なんで自分のこと……」

「私だって! ……わかんないよ」


なりたくて、こんな自分になった訳じゃない。

変えられるなら、変わりたい。

日向くんを好きになったその時からずっと、今もそう思い続けている。



、動いてみろ」

「え?」

の思うまま考えないでただ動く。頭の中に答えはない。

行動しろ。

やめてたバレーやり始めたならやり切ってみろ。思いついたことも全部やってみろ」

「ぜ、全部?」

「そうだ、簡単だ」

「どこが!?」

「さっき泣いたのと同じじゃねーか」

「ち、ちがうよ、全然」


涙は身体が勝手に流してるだけだ。

行動は違う。
ちゃんと考えて、一つずつ順番立てて、計画しないと、何一つうまくいかない。

何を言っているんだ。従兄に笑われた。


「本当に頭ばっか使うな、は」

「……」

「ほら、冷めちまう前に今は口動かせ。もう少ししたら病院だ」


従兄はそう言って読みかけの新聞に視線を落とした。

ふたたび箸をとる。

相手が言っていることはよくわからなかったけど、言われた通り、今は空腹を満たすことにした。

作りたてで熱すぎた野菜炒めも多少は食べやすくなっていた。


「けーちゃん、これ、ちょっとしょっぱい」

「こんぐらい普通だろ」

「ふつうじゃないよ、塩多い」


本当は味なんてよくて、ただ、従兄が言った通り、試しに感じたまま口にしただけだった。

塩味がきついのだって私にすぐ食べさせようと急いで作ったからで、ちゃんとわかっていて甘えた。
その証拠に、お皿に乗ったおかずはもう数口でなくなる。


「今度、自分で作ってみろ。ちょっとは、やってんのか?」

「お手伝い?」

「料理だよ」

「お菓子は作るよ」

「お菓子じゃなくて、ちゃんとした飯作れ」

「めし、かー」

「皿、水の中な」

「はーい、ごちそうさまでしたっ」


作ってもらったんだし、と従兄の食器とともに自分のも洗い出したら、従兄が新聞から顔を上げてそのままでいいと言ってくれた。
でも、全部洗ってしまった。

冬の冷たい水が今は心地よかった。


「これ、どこしまえばいい?」

「いいって、そこ置いとけ」

「ここ?」

「おい、荒らすな」

「荒らしてないよ、親切に片づけてるのにっ」

がやるとこっちがわかんなくなんだよ。それより、あっちやっとけ」


指差されたのは、さっき身を隠していた押し入れと段ボール箱。

中途半端に開けっ放しで、ハサミもそのままだ。

今度は部屋の明かりをつけて、中の物をごそごそと取り出しては確認した。
古いアルバムもあったけど開きはしなかった。
この中は全部バレーの写真だけだ。
遠い記憶を思い出すには、今はちょっと、まだ弱っていた。

従兄が外出する準備に上着を羽織っていた。


「欲しいの、あったか?」

「ん……、まあ」


元々何かを強烈に探していたわけじゃない。

覗くこと自体が目的だった。過去、バレーをしていた証し。

今日を機に家に持って帰ろうかと思ったけど、母を迎えに行く時間も近づいていたから、元あった押し入れのスペースに戻しておいた。
さっきまでの逃げ場所はすっかり消え去った。

そうこうする内に従兄の母親こと親戚のおばさんが帰ってきた。
久しぶりだねと定番の話をしているうちに電話がかかってきて、従兄に車に乗るよう促された。
電話は母からで、迎えに来てほしいそうだ。


「忘れ物すんなよ」

「はーい」


おばさんからはお菓子をもらって、一段と可愛くなったと褒められた。
うれしくて話が弾みそうになると、従兄に名前を呼ばれた。言外に早くしろと急かされていたから、仕方なく靴を履いた。


「けーちゃん、せっかちはモテないよ」

「うるせっ」

「あ、待って。手提げ忘れた!」

「あんだけ忘れ物すんなっつったのに」


従兄のぼやきには反応せず、さっき出た玄関に入って靴を並び直しもせず中に押し入った。

おばさんには忘れ物をしただけだと答えて、今脱いだばかりの靴に足先を入れる。


ふと、思い出す。


チャイムも鳴らさず、何にも考えず無防備に従兄の家に来ていた頃を。

そういえば、こんな感じだった。

自分の家かのように、何の気負いも遠慮もなく、なんにも考えずに部屋に上がっていた。


そっか、こんな感じだった。

ちゃんと……、思い出せた。
過去とひょっこり顔を合わせた気分だった。

車に飛び乗ると、運転席の従兄がこっちを向いた。


「今度こそ忘れものないな?」

「だいじょーぶ……」

「なら行くぞ」

「たぶん」

「あってもまた今度だ」


従兄が車を走らせる。

何台か車は見かけたけど、辺りは暗くて心なしか道路はすいていた。

おなかは満たされて静かであたたかな車内だと眠たくなってくる。

まどろむ意識の中で口に残るしょっぱさを思い起こした。


「今度、私も作ってみようかなあ」

「何をだ?」

「めし。けーちゃん言ってたじゃん。ちゃんとした飯作れって」


作るなら何がいいんだろう。


「やっぱり肉じゃがかな」

「肉じゃが? 、食いたいのか?」

「ちがくて、まず作れるようになる料理。でも、肉じゃがってそうだ、男の人が作ってくれたらうれしい料理だった」


雑誌のアンケートにそんなことが書いてあった気がする。

そう呟くと、そりゃおふくろの味だろと突っ込まれた。


「そうなの?」

「知らねーけど」

「おふくろの味って難しいのかな」

「そんなまずく作れるもんでもないけどな」

「けーちゃん、なんか作ってほしいのある?」

「食えりゃ何でもいいぜ」

「……失敗すると思ってる」

の不器用さは知ってるからな」

「けーちゃん、失礼だよ」


口をとがらせても、すぐ茶化された。
ほんの昔、目玉焼きを焦がしたことをまだ覚えているらしい。

ムッとしつつ背もたれに身を預けた。すぐ記憶を塗り替えてやる、と密かに誓う。

まだ笑っている従兄越しに病院が見えてきた。


も彼氏でもできりゃ変わるかもな」

「……」

「まだ早いか」

「……いるし、…………彼氏くらい」

「ん?」

「なんでもない」


車が駐車場に入っていく。

他の車も人も出入りしていたが、駐車場の空きはあった。


……さっき、なんつった」

「なにが?」

「な、なにがって」

「何か言ったっけ?」

「……いや、なんでもねえ。、まだ中学生だしな」

「変なけーちゃん。私降りるね」

「お、おぉ」


荷物をそのままに、自分の失言にヒヤッとした。

こういうの、秘密にしておいた方がいい。
ぜったい面倒なことになる。

従兄が出てこないうちに病院に急ぐと、呼ぶまでもなく母親が中から出てきた。
車に乗ってしまえば、後は検査のことだけだ。

家に着くまで従兄とさっきの話題で話すことはなかった。



next.