ハニーチ

スロウ・エール 132




家に到着してからも、母親の話は、相手を私に変えて続いた。

おじいちゃんは話題に事欠かない。
お医者さんたちと年末に飲みたいお酒について盛り上がっていたらしく、かなり目くじらを立てていた。


「あの、さ」


ふと、母親に聞いてみようと声をかけたものの、続かない。



わたし、

思いつくまま、やってもいいと思う?

勝手に動いて迷惑かけたりしない?

またバレーやってどう思ってる?おじいちゃんも何か言ってた?


車内で浮かんでいた疑問、でも“考えず”言葉になんてできなくて、結局『なんでもない』と口を閉ざした。

母親は荷物を片しながら、私に続きを話すよう促した。
言いかけたことが気になるらしい。


「あ……、ほら!

今度、料理教えてほしいなって。今日ね、けーちゃんに言われたの。料理くらい自分で作れるようになった方がいいって」


母親は料理と言い出したことに驚いてはいたけど、テストが終わってからならと約束してくれた。

本当に聞きたかったことは、心の片隅に置いておく。

それに、来週はテストだ。
模範生のごとく荷物を抱えて自分の部屋に戻った。

押し入れの中で思い出した過去が頭の中でぐるぐるしていたけど、……考えない。

逃げるんじゃない。
そこに在ることは、もう自覚した。


「探してたの、見つかったの?」


ドアの向こうから母親に聞かれた。


「あったよ、大丈夫」


部屋の外にまで聞こえるように声を出した。
自分にも教えてあげているみたいだった。

探し物は、『物』じゃなくて、すでにちゃんと私の中にあった。

バレーボール、

私にとって他の人よりきっと身近な存在で、他の人が思うよりはちょっとだけ特別なスポーツ。


中学に入った時に、サヨナラできたと思ってた。

違った。

じゃなきゃ従兄に指摘されてあんなに動揺したりしない。

押し入れの中で思い出した時は苦しかったけど、でも、ちゃんと他にも色々あった、あったはず。


前を向こう。変わりたい。

ちゃんと、自分の気持ち、わかりたい。


机の引き出しからストラップを取り出した。

日向くんがくれた、ピンク色のイルカが小さく揺れる。



「がんばる……、やってみる」



そう宣言し、また大事にしまう。

日向くんを想うと、自分が自分の気持ちをちゃんとわかってるって実感できる。

私は、日向くんのそばにいてもいいと思える自分で在りたい。










「はい、これ」


翌朝、教室にいつものように席に着くと、前に座る友人から冊子を手渡された。


「そっか、日直か、今日」


黒板の右端に書かれた日付と曜日、その下にチョークで書かれた苗字が二つ並ぶ。

日向、

隣の席の日向くんはまだいない。


「もしかして、彼奴はバレーしてる?」

「テスト前だからどうだろ」


まずは日誌を開く。

筆箱からペンを取り出して、まだ真っ白な一ページに今日の日付を書いた。





「うわっ、ごめん、さん!今日、日直って忘れてた!」

「いいよ、別に」


ホームルームが始まる前、日向くんは、クラスの男子を連れ立って戻ってきた。
手にはボール、上着も手持ちだ。しかも若干汗がにじんでる。

友人が呆れた様子で日向くんの方を見た。


「この寒い中、バレー?」

「へへっ、テスト前はいっぱい空いている場所がある!」

「勉強しなよ」

「うっ、わ、わかってるって。あ、さん、残りの日誌、おれ書くよっ」


ちょうど先生が入ってきた。

日誌はまだ時間割を埋めただけで、そこまで大変ではない。
どうせ二人で書く必要があるものだ。


「あ、じゃあ、号令いい?」

「わかった! きりーつっ」


「日向、みんな席についてから号令な」

「は、ハイ!」


チャイムがまさに今鳴って、日向くんの早すぎた号令のおかげで、クラスに笑いが広がった。

さすがに恥ずかしそうに肩をすくめる日向くんが、さっきよりは小声で号令をかける。

一斉に動く椅子と床の擦れる音に合わせて、こらえきれずつい笑ってしまった。




「じゃあさ、おれが黒板全部消す!」


1時間目が終わってすぐ、そう宣言したかと思えば日向くんは素早く黒板前に移動した。

まだ書いている人いるんじゃ、と思ったその時、『日向まだ消すな!』と同級生からストップがかかり、黒板消しを持つ手が止まった。


「今日、やけにはりきってない?」


友人が私の机の方に椅子を寄せて日向くんのことを言った。

なんとなく予想はついている。


「あのね、たぶんだけど、朝の練習が楽しかったんだと思う」


いつでも練習相手募集中の日向くんのことだ。
断られることは当たり前で、一人で練習することもしょっちゅうある。

でも、今日は4人ぐらいで戻ってきていた。


「テスト前でみんな身体を動かしたかったと思われる」

「なるほどね。も混ざればよかったじゃん」

「やってもいいけど、次の小テストの準備やってなくて……」

「あったね、そんなの。やんないと!」


慌ててノートを引っ張り出す友人の向こうで、今度こそと日向くんが黒板消しをそろりと動かし始めていた。



さん、いいよ、おれやるよ!」

「でも、二人でやった方が早いから」


なんだかんだ午前中は日向くんに黒板消しを任せてしまったから、午後くらいは、と5限終わりに黒板消しを手にした。
実際、この先生は丁寧に黒板を書くから、黒板の上から下まで綺麗な文字で埋まっていた。


「わかった、じゃあおれはこっち消すねっ」

「うん、私は右からで」


ふと左から風が来たなと思うと、日向くんが黒板消しを滑らせてジャンプしていた。

こちらの視線に気づいた日向くんが動きを止めた。


「どうかした?」

「あ、いや、なんか、ダイナミックな消し方だなって」

「もっと早くできるよ!」

「いっいいよ、ゆっくりで」

「二刀流もできるっ」

「普通でお願いします!」


負けないように私も早く消そうと、黒板消しを動かす。
というか、早すぎて日向くんがこっちに迫ってきていた。

は、半分以上消されてしまう。

せめて3分の1は私が消さないと。

慌てて動かした黒板消し、あんまり消えないなと思うと、よく見れば黒い部分がなくて、かなりチョークで白くなっていた。

これ消したらクリーナーかけよう。

そう思った矢先、勢いよく日向くんの黒板消しが上から滑ってきて、私のとぶつかった。

チョークの粉が一斉に舞い飛んだ。


「ごごごめん、さん!!」

「い、いいよ!!」


大丈夫、と応えるより先に、空中のチョークを避けようと左手であおいだ。
クリーナーをかけてなかったせいで、そりゃもうひどい有様だ。

ついせき込む。


「大丈夫!?」

「う、うんっ」

「本当にごめん、すげー粉かけた!」

「あ、私より日向くん、髪が」

「おれはいいよ、さんセーターがっ」

「あ、こすると!」


セーターにチョークが染みこんじゃう。

という言葉は飲み込んだ。

頭が真っ白。

物理的に、ではなく、精神的に。


日向くんの手、あ、の。



さん? ……!!」


日向くんも一生懸命チョークの粉を払おうとした自分の手が今どこに触れているか把握したらしい。

次の瞬間、一気に日向くんが後ずさった。

教卓に背中からぶつかった。

教卓が盛大な音を立てて落下した。

1番前の机の方に倒れた。

さいわい、その席の主は廊下にいたから誰もぶつからなくて、日向くんが慌てて元に戻した。

私は、といえば、片方の手を胸元に当て、頭の中で落ちつけを繰り返しながら、もう一方の手で残りの文字を消した。



「さっきはごめん!」


6限は移動教室で、自分たちの教室に戻るタイミングだった。

友人は係だったから一人歩いていると、隣に日向くんがやってきた。

ちょっとだけ気まずくて、でも気にする方がよくないと思って、筆箱とノートを抱え直して気合いを入れた。


「だ、大丈夫だよ」

「おっおれ、チョーク払いたかっただけでっ」

「わかってるからっ、き、気にしないで」

「う、うん……、……ごめん」

「いいよ、本当。それに、けっこう綺麗になったよ、セーター。ほらっ」


わざと袖を握って、日向くんの前に立ってみせた。


「ねっ、もうチョーク消えたでしょ?」

「……」

「なっちゃんがね、かなり手伝ってくれたから。前になっちゃんもクリーナーかけてるときにやっちゃったんだって、だからコツ教えてくれて……、日向くん?」


返事も反応もない。

日向くんは手の甲を口元にあてて横を向いていた。

何かあるかと思って、同じ方向を見てみても何にもない。
横を同級生が通り過ぎて、私達を抜かしていく。

後ろから遅れて友人がやってきた。


「何やってんの、二人とも」

「な、なんでもないっ。おれ、先行く!」

「う、うん」


日向くんが一気に駆け出していく。

ついその背中を見つめてしまったが、同じく急がないといけない。

早歩きで教室に向かいながら、友人に何があったか聞かれても答えようがなかった。






「じゃあね、翔ちゃん、さん」

「ばいばーい」

「イズミン、さっきありがとな!」

「ううん!」


塾があるという泉くんは教室の掃除が終わると早々に帰っていった。

金曜日の放課後、テスト前ということもあり、みんないなくなるのも早かった。


、帰る?」

「私、図書室」

「そっか、じゃあまた明日。じゃなかった、次、月曜!」

「うん、またね」

「日向もー」

「おう、じゃあな、夏目」


日向くんが書いてくれるというから、日誌は日向くんの机の上だ。

なんとなく向かいの泉君の席を借りて、前からその内容を覗く。

ふと気づいて紙面を指差す。


「日向くん、現代文の『代』の字の点が足りないよ」

「あ、ホントだ!」

「それ直して、コメント書いたら職員室だね」


何書こうかな、と、自分の机の上にある筆箱を横着して椅子に座ったまま持ってきた。


「さっき、さ」


本当、ごめん。


筆箱からペンを選びながら首を横に振った。


「いいってば」

「チョーク、だけじゃなくて……」


日向くんの手が、私の胸元に当たってしまったことだろうか。

言いづらそうにするから、明るく努めた。


「だっ大丈夫だよ! この話題、もうおしまい!
日向くん、帰りの会も号令もやってくれたからすごく助かったし、それに、」


紙の上の日向くんの鉛筆がこれ以上動かなかったから、合わせて私も黙ってしまった。


「そっそれに……、えぇっと」

さん、耳貸して」

「えっ?」

「早く」


言われるがまま片方の耳を日向くんの方に近づける。
日向くんの顔が近づいて片手が添えられた。



さん、可愛い。

す……っごく、かわいい。


すき」



膝の上に置いていた筆箱が真っ逆さまに落ちて、中身のペンが床に散らばった。
そのおかげで、意識はなんとか保てた。

日向くんが笑顔にみせる。


「さっきから言いたくて。 さん、聞いてくれてありがとう!! 拾うっ」


日向くんは次々にペンや転がった消しゴムを集めてくれたけど、私の方はまだまだ動けなかった。



next.