ハニーチ

スロウ・エール 134





怒ってない 集中!


日向くんの教科書の隅っこに走り書きすると、どちらともなしに目配せして椅子に座り直した。

よし、と小声で日向くんが呟く。
すぐに鉛筆を走らせる振動が同じ長机から伝わってきた。

本人に見られてしまった消しゴム、おまじないとしては意味はないけど、これからも使うのでケースを元に戻し、同じようにシャーペンを握った。









ちょい、ちょいと腕に何か当たるなと思ったら、隣から人差し指がつっついてきていた。
それは日向くんで、その人差し指は続いて図書室にある時計を示した。

もう少しでチャイムが鳴る。


さん、まだやってく?」


声量は抑えられていても、隣だからすぐ聞き取れる。

この質問が出るということは、日向くんは帰るつもりなんだろう。

あと1問だけ解いた方が区切りがいい気はしたけど、一緒に帰りたかったから首を横に振った。



さん、すげえ集中してた!」


下駄箱に向かう途中で日向くんが言う。

自覚はなかった。


「おれ何度もさんの方見てたけど、ぜんっぜんこっち向いてもらえなかったっ」

「そ、それなら声かけてくれていいのに」

さんから気づいてほしかった!」


勢いよく日向くんが外履きを地面に落とす。

私の方はもう少しだけ地面に近づけてから外履きを置いた。


「じゃあなー」


ちょうど他のクラスの男子が昇降口から見えて日向くんが手を振った。
外はもう真っ暗で、切れかかった外灯が急にピン、と灯った。


さん行こう」


吹き込んでくる風が冷たい。

日向くんに続いて外に出た途端、北風が一気に向かってきた。


「さ、寒いっ」

「12月だから!」

「まだ1月も2月もあるしね」


きっと今よりもっと寒くなる。
しゃべっているだけで息が白くなる。また風が吹いて葉も落ち切った木々がゆさゆさと震えた。


さん、なんで後ろに?」

「日向くんを風よけにしてみたっ」


本当はたまたまだったけど、そう言ってみると、日向くんが私の前にならないように横に移動するから、なんとなくわざと背中を追っかけた。

すると、日向くんは私を置いていかない程度の速さで早歩きしたから、私もそれに続いた。


「先生、さよならー」
「さよならー」

日向くんに続いて先生の横を通り過ぎ、挨拶する。

妙な追いかけっこをしている私たちに、もはや先生の方も慣れっこのようだ。



さん!」

「わかった、いってらっしゃい!」


日向くんがダッシュする。
自転車置き場はあっち、私はここで待つ。
いつの間にか、そんな習慣が出来ていた。

はーーっと両手に息を吹きかけてこすり合わせる。

冬だ。

来週のテストが終わればもう冬休みも始まる。

そしたら、クリスマスだ。


さん、お待たせっ」


日向くんが自転車を押しながら戻ってきた。


「日向くん、マフラーした方が」

「あ、忘れてた!」

「こんな寒いのに」

さん待ってるから早く来たかったっ」

「待つのに」

「おれが早く来たいからっ」


日向くんが自転車止めを蹴って、カバンをまさぐった。

今、一気にマフラーをぐるぐると巻いていく日向くん。
その巻き方が乱暴で、結局もう一度巻き直すことになっていた。

急いでくれてるって、ちゃんとわかって、その優しさが嬉しいけど、日向くんがあったかい方がもっとうれしいのに。
そう思いつつ、そうは伝えなかった。


「日向くん、手袋は?」

「あるよっ」


手袋をつけられてしまう前に、日向君の片手をつかまえた。私の方から。

日向くんがびしっと固まった。


「手、冷たくなってる。ハンドル握ってるからだね」

「う、うん」

「はやく手袋した方がいいよ。風邪ひかないように」

「……さんの手は?」


私達のそばを違う学年の集団が騒ぎながら歩いて行ったから、しばし黙った。

また静かになる、通学路。


「私はポケットに入れとく。あったかいから大丈夫」

「そっ、そっか!」

「そう!」

「そうだよなっ」


日向くんの両手がしっかりと手袋で守られていった。

順番に並んだ外灯も寒そうだ。
二人で歩きだす。


すき、すき。


さっき言えなかった、たったの二文字。


カラカラと日向くんの自転車のタイヤが音を立てる。

今週の土日は会う予定はなかった。
先週が会いすぎだった。次に会う時は週明けのテストの時。


さん」


急に日向くんが立ち止まるから、一緒に止まった。

何を言われるかと思った。

時々、日向くんはこんな顔をする。

真剣さがにじむ、誠実な眼差し。



「あ、あのさっ」


返事を待つ。

その間にもまた北風が通り抜けた。


「……、……はっ早くテスト終わるといいなっ」

「そ、だね」

「そ、それだけ」

「ほんと?」


問いかけると日向君の肩が飛び上がった。



「本当に、それだけ?」



聞きたい、ような、聞かないほうがよかったような。

コートのポケットに入れた両手に気づけば力が入っていた。

少しだけ沈黙してから、それだけだと日向くんは言った。


今週末、会う約束はしなかった。



「明日、電話、していい?」


バス停に一緒に立っていてくれるとき、もうその話題は出ないと思っていた。

テスト前だから、そう返事する前に、日向くんは後でメールすると言い捨てて自転車にまたがった。


日向くんが見えなくなってからすぐバスが来た。

あたたかな車内のおかげで眠気が押し寄せてくる。
頭のどこかで電話する・しないの選択肢が揺れていた。









結局、電話していいかって聞かれたら、いいよって返してしまうよなって自分の弱さに呆れた。

あの後輩くんたちは来てくれるんだろうか。
影山くんはどんな反応をするんだろう。

朝からバスに揺られながら、そんなことをつらつら思い浮かべるうちにいつものスポーツセンターに到着した。



「あれー」


聞いたことのある声、

影山くんが来る前に勉強をしていると、冴子さんが向かいの席に座った。


じゃん、また深刻な顔してどうした?」


まったくそんなつもりはなかったけど、冴子さん曰く遠目でわかるくらい思い悩んでいたらしい。
傍から見てわかるくらい悩んでるってどうなんだ。

なんでもないふりを通そうとしたけど、冴子さんがぽん、ぽんと話を聞いてくれるから、その優しさに甘えて今日これから起こるかもしれない不安をしゃべってしまった。

今日、やろうとしていることは、影山くんにもその後輩達にも余計なお世話かもしれない。

怒鳴られるとは思う。

もっと関係が悪くなるかもしれない。

関係をつないでくれた先生にも迷惑をかけるかも。

話を聞いてくれていた冴子さんは足を組み直して言った。


「よくわかんないけどさー、って自分じゃどうにもできないことで悩んでるよね」


もっともな指摘に言葉に詰まる。


「ほっときゃいいじゃん、自分に関係ないんだし。そっちで仲良くしろっての」

「まぁ、そう、なんですけど」


影山くんのことが頭に浮かぶ。


「三人が向き合うきっかけになったらいいなって。

間違ってるかもしれないけど……どうしてもほっとけなくて」





冴子さんが向かいの席から身を乗り出して、私のほっぺたを軽くつまんだ。



「だったら、そんな暗い顔しない! 自分が自分を信じなくてどうする」

「で、ですね」

「先回りして自分守んな」


冴子さんの指先が離れた。


「あーなったらどうしようってはずっと考えてるけど、それって走る前に転ぶこと心配してるのとおんなじだからね」



走る前に、転ぶ。



「そりゃ、転んだら痛いけどさ、は走りたいんでしょ、どーんと構えてなよ」


前に話してくれた時のように、冴子さんは自分の左胸をこぶしで叩いた。

気持ち、

自分のこころの在りか。

こくりと頷くと、冴子さんは笑った。



「そうそ、走ってみな! 誰か巻き込んで転んでもそんときはそんときっ」

「でっでも、自分だけ痛いならいいんですけど巻き込むのは……!」

「相手のことはいいって、気にしすぎ!
転んだってへっちゃらなやつかもしんないじゃん、むしろ転んでよかったって思うかも」


その発想は自分の中にはなかった。


「それに、揉めたら助太刀するよ」


ウィンクまでされて、本当に冴子さんが助けてくれる姿を想像してしまったら、つい噴き出してしまった。
一緒に笑ってるうちに、冴子さんの仲間の人たちも来たようだ。

冴子さんが立ち上がる。


「あ、あの、ありがとうございました!」

「いいよ、勝手に聞いただけだし。、迷惑だった?」

「ぜんぜん!!」

「きっとそうなるよ、そいつらも。もっと自信もってさ、笑顔でね」


冴子さん自身がまぶしい笑顔で、私もそうなりたいって口角を上げた。



next.