ハニーチ

スロウ・エール 144





このままくっついてたら、茹でだこになっちゃう。


そう思っても、日向くんの腕からはなれようという気が起きなかった。

鼓動の速さが伝わらないように必死で、でも、つい、日向くんのコートに気持ち程度にしがみついていた。
同じように抱きしめ返せたらと思うけど、そんな勇気はなかった。

今、きっと真っ赤だ。
寒さもあるけど、そうじゃない。気持ちがあふれてたまらない。

ばれたくなくて離れた時、日向くんからすぐ顔を背けた。

ちらっと見えた日向くんも同じに見えた。

安心した。

一人じゃないなら、この気持ちは通じ合っている。






「あ、あの、日向くん!」


自転車のところに戻って、ようやく帰ろうとした時に、思い付きは飛び出した。


「よかったら、なんだけど!」


自分でもなんでそんなことを言い出したかわからない。


「わ、私に運転させてもらえないかな?」

さんが?」

「あ、ダメなら全然!」

「いいよ、あ、高さ変える?」


日向くんがすんなりと受け入れてくれて、自転車のサドルの高さを調整しようと金具に手をかけた。


「いいよ、日向くん乗るとき直さなきゃだし」

「わかった、ふつうの自転車だけど乗ってっ」

「あ、ありがと」

「荷物、かごから出す?」

「いいよ、重たいんだし」

「運転しづらいよ?」

「やってみる!」


自転車止めを蹴ってみると、確かに前のかごに入った荷物のせいで、しっかりと握っていたはずのハンドルが急に言うことを聞かなくなった。

日向くんが腕をぐっと伸ばしてハンドルの片方を握ってくれた。私の手ごと。

おかげで、自転車の方は無事だった。



「ねっ?」


ねっ じゃなくて……


言いたいことがたくさんありすぎて、ただ、頷くしかできなかった。


「おれのはおれが持つから、さん先に行ってていーよ」


あ、あれ。


「そっそうじゃなくって!」

「んっ?」


もう日向くんは自分の荷物を肩にかけようとしていた。


「その、ふ、二人で乗りたいなって。行きは日向くんが乗せてくれたから、帰りはって……」


ハンドルすら危うい私が言っても説得力に欠けるけど、下り坂だったら日向くん程の体力がなくてもいけるんじゃないか。

日向くんの荷物が、自転車の前かごに戻された。


「おもしろそう!」


日向くんの瞳が輝いてみえる。

自転車にまたがって、日向くんがさっきの私の場所に座る。


さん、いけそう?」

「た、たぶん」


前かごの荷物と後ろの日向くんとで、むしろ重量のバランスはとれた気がした。

ただ、ペダルが想像よりずっと重い。


「おれ降りる?」

「待って、もうちょっといけば」


その先は下り、そっちまで行ければ自力で漕ぐ必要はない。

最初の一歩さえ踏み込めれば、よろよろとなんとか前に進みだす。もうちょっと、あと少し。


「あっ!」


自転車が急に漕ぎやすくなったのは、日向くんが後ろから降りたからだ。

それじゃ意味ないよ。

そう言おうと思って振り返ったはずなのに、日向くんは楽しそうに後ろについたままで、不思議に思ったのも束の間だ。


さん、いくよ!」

「え、えっ!!待っ、ひな!!」


荷台を両手でしっかりと掴んでいるかと思えば、一気に日向くんが自転車を押す。
足を置いているペダルが高速で回りだす。なんで、こんな早く、すごい、すごい!!


さん、前!」

「うわっ!」


後ろに気取られすぎた。

重たい荷物のせいでふらついたハンドルを握り直して自転車をまっすぐにコントロールする。


「っ!!」


日向くんが自転車に飛び乗る衝撃にまたハンドルが揺れた。

自転車止めに足をかけて、立ったまま乗っている日向くんは私の両肩を掴んでいた。

もう坂道、何もせずとも自転車は速度を上げる。


さん、肩借りてる!」

「う、うん!!」


バランスをとるのに必死だった。

前を向け、

前に進め、

さっき眺めたきらめきの中を、真っ暗な道路だけ見据えて走っていく。


雨が顔に当たった。

風が全身にぶつかっていく。

怖いぐらいに加速して、ブレーキを握るとぎぃぎぃと自転車が喚いた。


さん、この先、ちょっとだけ上り坂あるから、ブレーキいらないっ」


この速度がこわい。

運転しているのは自分なのに振り落とされそうで、自分じゃどうにもできない速さに躊躇する。


「いける、だいじょーぶ!」


なんで、

日向くんのひとことで、

 “だいじょうぶ”って思えるんだ。



「わ、わかった!」


ブレーキにかけた指を外す。

どんどん上がるスピードに身を任せ、さらに己の力で加速させる。

がたがたがた、コンクリートが欠けている部分で自転車が大きく上下した。ハンドルはしっかりと握った。
下り坂の勢いをそのままにペダルを力いっぱい踏みこんだ。

勢いをつけて、もっと、もっとその先に辿り着け。



「やっほーーーー!」


日向くんが声を弾ませた。
前も聞いた。

楽しい。



「ゃ、やっほーーー!」


同じように声を上げる。
後ろから笑い声が聞こえる。


やっほー、


やっほーー、


聞こえますかっ。


宛てのない呼びかけ。


日常の中を、2人でただ一直線に駆け抜ける。


前にみえた坂道を、下りの勢いで登りきった。


てっぺんからまた下り、

怖くない。


空、飛べないかな。

そう思ったとき、小石を車輪が踏んだらしい。
大きく自転車が跳ね、日向くんが私の肩を強く握った。

















「楽しかったね、さん!」

「うん、……怒られたけど」


偶然通りかかったパトカーからご丁寧に呼びかけられてしまった。そこの自転車、二人乗りは危険なのでやめなさい。
思い出してもはずかしい。
言われてみれば二人乗りって交通ルール違反だ。

今は日向くんがいつものように自転車を押して、いつもと同じバス停を目指していた。


「スピードあって気持ちよかったっ。さんどうだった? あ、気分悪い?」

「きっ気分は大丈夫。ただ、すごい経験したなぁって頭がぼーっとして」

「わかる」


日向くんはぽつりと続けた。






「女の子の後ろに乗ったの、はじめてだ」





はじ めて。

その響きに足がとまった。




さん?」



なんだろ、なんていうか。



「なんか、うれしくて」

「うれしい?」

「あ、その、はじめての事って特別だと思って…… そのトクベツを、私はいつも日向くんからしてもらってて」


えっと、上手く言えてない。

日向くんに伝えたいのは。



「日向くんに“はじめて”のことしてあげられてうれしい」


日向くんを好きになってからずっと、たくさんもらってばかりいる。


「あっ、いい経験だったかわからないけどね!? やったことないことやれるって楽しいかなって。あ、私だけが楽しかったかもだけど」

「た、楽しかった!!」


日向くんがはっきりと言い切った。


「おれも、本当……楽しかった」

「な、ならよかった」


私だけうれしくなったんじゃなくて。



「そ、それに……

おれだって、いつもさんから……


「えっ?」

「な、なんでもない!!なんでも!さんかわいいなって思った!」

「こ、声、小さく……!」

「ごごめん!」


「「……」」



気分は高揚していた。

沈黙は保った。

いまこの瞬間を留めておけるように、少しでもこの時が続きますようにと。


バス停はすぐそこだった。
誰も並んでいなかったが、もう少ししたら次のバスが来る。



「……」

「……」



沈黙はなんの助けにもならない。

ばいばい、言わなくちゃ。

日向くんが自転車にいつものように跨った。


「じゃあ、おれ行く……「あ、日向くん!」


思わず駆け寄った。

日向くんが私を見つめてる。なんだろうって思ってるはず。
そりゃそうだ、私もそう思う。



「で、


……電話、しようね」



抱きつけないけど、手を握った。

自転車のハンドルを握る、日向くんの左手。
ぎゅっと、ぎゅう、と。

バスが来た、ヘッドライトが私たちの間に差し込んでくる。

手を離した。



「ばいばい、日向くん。あとで!」


これ以上そばにいたら引き留めてしまいそうだったから、日向くんの返事は待たなかった。


「……、……さん、また後で!!」


ぜったい、あとで!!


不思議な日本語だなって思いながら日向くんの方を振り返って、もう一度手を振った。



next.