ハニーチ

スロウ・エール 149




日向くん、何をがんばるんだろう。

すぐわかるなら、受験関連ではなさそうだ。

想像つかないけど、日向くんが『待ってて』って言うならいくらでも待つ。

話も済んだし、もう行こうとした時だった。



さん」



呼び留められる、射貫かれる。


私は、日向くんのこういう真剣な眼差しに弱いらしい。

動きと呼吸が一瞬だけとまる。

こっちの心境など知るはずもない日向くんが悩まし気に言葉を紡いだ。



さん、あの! 時々だけど、その……なんていうか」

「う、うん」

「そういう……確認しなくていい」


さっき、一緒に出掛けるのが嫌になったんじゃないかと聞いたことを言っていた。



「おれは、さんとどっか行ったり、こうやってしゃべったりすんの、全部すきだから。

イヤだって思うこと、これから先ずっと……、一生ない」



“一生”

その言葉の持つ意味を瞬時に理解できたのに、生きている間じゅう、ずっと好きなまま変わらずにいられるんだろうか、とつい考えてしまった。

言葉にしなかったつもりなのに、しっくり来てなかったのは伝わっていたらしい。
日向くんは勢いよく続けた。


「本当だって! さん、嫌じゃないかっておれに聞くけど、……さんこそ、嫌な時……あるんじゃ」

「な、ないよ。いつも、その、言ってる」


こないだも、その前も、同じように答えた。

日向くんにされて嫌なことはなんにもない。



ふと気づく。


嫌じゃないと応えてもらっているのに、ふとした瞬間に同じことを確認してしまう。

お互いにそうだった。

日向くんも私も、ほんとうの心の底からは相手の言葉を信じきってないんじゃないかって。


言葉にしていないのに沈黙が答えのようでもあった。


どうしよう。

次に言うべき正解が浮かばなくて迷ったところ、日向くん越しに先生が一人見えた。



「あ……、日向くん、私、ちょっと行ってくるね」

「どこっ?」

「ほら、あそこ。先生、たぶん困ってるから」


ちょっと先、大荷物を抱えた男の先生が、教室の前で立ち尽くしていた。

英会話の先生、たしか今年は1年生に教えていたはず。

走ってそばにいくと、両手が埋まっていた先生は少しびっくりしていた。
言葉をかける代わりに引き戸を動かすと、晴れやかな笑顔と共にとても流ちょうな発音のサンキューをもらった。

内心、私もありがとうをつぶやく。
あのままでいたら、日向くんに迷惑をかけてたかもしれない。

何も知らない先生は、どさっと作業台に紙袋を置くと、入っておいでと英語で声をかけてくれた。

日向くんが気になったけど、誘われるがまま、中に入ってみる。

紙袋からいくつもクリスマスグッズが出てきた。

ペットボトルと同じくらいの高さのクリスマスツリー、そりに乗ったサンタとトナカイの置物。
このサンタの人形、ちょっと先生に似ているかも。

紙袋から他のを手にした。すべて緑の葉っぱで、それを束ねたもの。


「これ、なんですか?」


すぐに先生は笑って返した。

"In English."

英語で、かあ。

さすがは英会話の先生、こんな時まで指導に余念がない。

ちょっと考えて英語で聞き返すと、結局、知らない英単語を教えてもらった。

ミストゥ…… ミスド?

それはドーナッツ屋さんだ。


さん……?」

「あ、日向くん」


先生が、『君も入っておいで』と顔を綻ばせた。


「か、かみぃ……?」

「日向くん、"Come"と"in"! 中に入りなって」

「そ、そーいうことか! お邪魔します!」


日向くんが物珍し気に部屋の中を見回した。

壁には英語で書かれた世界地図、ABCの単語表が飾られ、クリスマス以外の小物が棚ごとに並んでいた。


「こんな部屋、おれ知らなかった」

「私も」


二人で話すと、何を話してるんだいとまた英語で言われた。


さん、せ、先生、いま何て言ったの?」

「私たちが日本語だったから、何話してたの?って」

「そ、そっか!」


また、先生が笑って繰り返した。

何を話してるんだいって。


日向くんは完全にフリーズしていたから、自分の中の英単語と文法を駆使してしゃべってみた。

日向くんが先生と私を交互に見る。


この部屋には色んなものがありますね。

授業で使うものを置いているんだよ。

今日これらを使ったんですか。

そうだよ、クリスマスの文化を説明したんだ。これは特にみんな興味を持ったね。


先生がさっき私が手にした植物を持ってみせた。

ミストゥ、さっきも聞いた英単語。

日向くんが私に耳打ちした。


さん、ミス……なんとかってなに?」

「ごめん、私もわからなくて」


先生が日向くんに話しかけた。なんだいって。

固まる日向くん。


チラッ、と目が合った。


「日向くん、なんかしゃべって!」

「お、おおれ、英語ムリ!」


つい口を挟んだ。


ミストゥってなんですか?


英語の発音に自信があるわけじゃないけど、私もこの植物の正体を知りたかった。

先生は、君じゃなくてこっちの君に聞いたんだけどなあ、と日向くんに笑いかけてから説明してくれた。


これは欧米ではクリスマスを象徴する植物として知られているんだよ。
聞いたことないかな、この植物に関する風習を。

風習?


"Let’s kiss under the mistletoe."


先生は楽し気に言った。


レッツ、キス、アンダー、ザ、ミストゥ。

ミストゥの下でキスをしよう。

クリスマスの、風習。

キス?


「あーーー……」


意味、わかった。

本で読んだことがある。ヤドリギの下でキス。

たしかこの植物の飾りつけの下にいる人にはキスできる、という話だ。

こんなの授業で話したのか、先生。



さん、わかった?」

「まあ……」

「すげえ!! どういう意味?」

「いやっ、その、日向くんは知らなくていいと思う」

「なんでっ?」

「ほら、ここは日本だから!」

「日本だとやんないんですかっ?」


先生が、英語で話してごらんと日向くんに返した。

日向くんが再び固まる横で、ミストゥと英語で発音される植物を紙袋に戻した。

予鈴が鳴った。


先生が教室に戻った方がいいと両手を合わせた。
さっきはありがとう、ともう一度口にして、私が戻した植物をわざわざ引っ張り出した。

お礼にあげるよ、と笑う。


「No!!」


先生が高らかに笑った。もしサンタさんが笑うならこんな感じだと思う。

君はいる?とよりにもよって日向くんに差し出したから、間に割って入った。


「No! We don't need this!」


はっはっは、先生は楽しそうだった。絶対からかわれている。


「日向くん行こう」

「う、うん」


さよなら、英語でそう告げて廊下に出た瞬間、中から聞こえてきた。


「モシホシカッタライツデモイッテクダサイ」


もし欲しかったらいつでも言ってください。


「日本語! さん、先生、さいご日本語しゃべったよ!!」

「たしか日本に住んで20年って最初の授業で言ってたよ……」

「そうなんだ、すげー!」


教室に急ぎながら、日向くんが階段を一個飛ばしで上がった。ずり落ちたカバンを肩にかけ直して私を待つ。


さんもすごかった!」

「私?」

「英語ペラペラだった!外国人みたいだった!」

「ぜんぜん! 同じ言い方しかできなかったし」


後半なんて、ノーしか言ってない。
シンプルに“いらない”を表現するには、それしか浮かばなかった。

日向くんは感心した様子で指を折った。


「おれがわかった単語、少ないよ。クリスマスはわかった、みすとーもよくわかんないけどあの緑の葉っぱってのはわかったし」

「……そうだね」

「とらでぃしょんってなんだっけ?」

「伝統かな、今日の授業で話したって」

「へー、色々あったもんな!」


一瞬、日向くんの唇を見てしまったことを恥じたい。


さん?」

「なんでもない、なんでも!」


先生が変なこと言うからだ。

教室に入ろうとした時だった。


「今度さ、楽しみにしてる!」


振り返ると、日向くんがやっぱりきらきらしてて、つい固まってしまった。

さっきのちょっとしたやりとりなんて、もう都合よく忘れてる。



「え、と……、3時だよね?」

「待ち合わせ? そうだよ!」

「だよね。……忘れないようにしなきゃ、な!!」


ドアまだ開けてないのに開けた気でいた。

扉にぶつけてしまった上履きの先が、ジンジンと痛む。


さん大丈夫!?」

「う、ん、前見てなくて」

「お、おれ開けるよ!ほら!!」


教室の中は昼休みの騒々しさがまだ続いていて、私たちのやり取りに誰も気づくことはなかった。

25日、あの先生もきっと待ち遠しくしているんだろうクリスマス当日。

私もがんばらなくちゃ。



next.