ハニーチ

スロウ・エール 153




影山くんに触れられた二の腕を撫でる。
私のことは同じ人間としか認識してないからできることだろう。
同じ学校の女子にも同じ態度を取っているんだろうか。変な誤解でも招いてないといいけど。

さっき受けた眼差しのことは忘れて、影山くんが他人に興味を持つことはあるんだろうかと思案しながら、隣の様子をうかがった。

影山くんは視線に気づいている感じがしたけど何も言わなかった。
タイマーが鳴るのを待った。


「……うん」


白鳥沢に挑戦するなら解けて当然のレベルの問題すら、やっぱり影山くんの学力と見合っていなかった。

嘆いても仕方ない。
基礎に立ち戻るべく、教科書を引っ張り出した。

あ、でも、この教科は北川第一と雪ヶ丘中学では違う教科書だっけ。

影山くんに話すと、教科書を出してくれた。違う出版社の教科書は本屋さんで見かけたことがある。


「きれいだね、教科書」

「そうか?」

「男子ってけっこう乱暴に使ったりするから」


日向くんの教科書を想像していた。


「96ページだから……」


ここだ。


「ここ、方程式を使うんだよ。

解説見た方がわかりやすいんじゃないかな。



そう、そう。


で、だから、さっきの問題も同じように当てはめればよくて。


うん、このXは、こっちと同じでしょ?


……そう! 正解!


できたね、すごい。すごいよ、前は説明してもわかってなかったんだから……成長を感じる。


バレーも、だけど、何でもそうだと思う。

できるまでやったらいいよ、できるよ絶対。ぜったい。



……疑ってる?」


急に黙ってじーっと見つめてきたから、同じように見つめ返した。

そんなに穴が開くほど私のことを見たところで、なんにも出てきたりしない。


「もしかしてかわいくて見惚れてたとか?」

「……」

「なんて……、あの、ツッコんで」


いや、私が悪かった。影山くんがツッコミなんて高度なことできるはずがない。
我ながらバカな冗談を言った。

時計を見ると、もうかなり時間が経っていた。


「か、帰ろっか」


そのうち、先生たちのクリスマスパーティーもお開きになるだろう。
最後に顔だけ出そうかな。




「ん?」

「ビデオ、いるか」

「え、……なんの?」

の試合、全部」


どういう話の流れかと思えば、先生が全部観終わったら私にいるかどうか確認しておいてくれと頼んでいたらしい。
先生の家もかなり色んなものであふれているのは知っていたから、処分に困っているんだろう。


「捨て……」


たらいいよ。


そう思うのに、まっすぐ向かってくる影山くんに言いきることがなぜか難しかった。

それに、過去の自分に興味がないわけでもなかった。


「いいよ、次に会う時に渡してくれれば」

「今日じゃダメか?」

「今日!?この時間に、今から?

えっと、どこにあるの?」

「家」

「家って……」



今度でいい気がした。

自分の昔のバレーなんか見たって勉強の役に立つわけでもない。

ない、のに、影山くんがそう言いだしてくれた事実が、今日を逃さない方がいいという、なんともいえない第六感を働かせた。



「……いいよ、行っていいなら」

「いいって言ってんだろ」

「あの、ふつうはね」


そう言いかけたけど、影山くんに『ふつう』の一般常識を持ち出したところで、何の意味もなさそうだと結論づいた。

さっさと受け取って、さっさと帰ろう。

明日はなんてったってクリスマスだ。
明日は遊ぶ分、帰ってから勉強しないと。

影山くんは片付けが早かったから、置いていかれないように荷物をまとめた。待ってはいてくれた。


「行くぞ」

「うん」


半歩先を行っていたけど、影山くんは今日はさきに歩き出すことはなかった。














いつもと違うバスの路線、車内は人が少なかった。

外の風景を最初は眺めていたものの、真っ暗でよくわからない。
窓ガラスにくっついていると、白く曇ってきた。


、なにやってんだ」

「メリークリスマスって書いてみた」

「?」

「英語でね!
中からじゃなくて外から見た時にわかるように。鏡文字って言うのかな。やってみる?」



返事をする間もなく、私の前を影山くんの腕がにゅっと伸びていった。

何て書くのかと思った。


「TOBIO……」

「なんだよ」

「呼んだわけじゃない」


ローマ字で書くと、『B』以外は、表から見ても裏から見ても同じ左右対称なアルファベットだ。

なんというか便利な名前である。


「いつか日本代表になったら国際試合でサインするときに便利かもね」


筆記体で同じように影山くんの名前を窓ガラスに書いてみた。


「何て書いたんだ」

「同じだよ、“とびお”って」

「そうか」


窓ガラスから離れて影山くんが席に座り直した。




「ん?」

「なんで影山くんなんだ」

「なんでって」

「最初は名前で呼んでただろ」

「いま気づいたの!?」


けっこう前から飛雄くんではなく影山くんと呼んでいる。

深い意味はない。
なんとなく下の名前で呼び合う仲でもないと思っていただけだ。

最初は先生が飛雄、飛雄って呼ぶからならっていたけど、そんな真剣に聞かれると答えづらい。


「飛雄くんの方がいい?」

「……どっちでもいい」


の、わりに、どっちでもいいって顔してないよね!?


「わ、わかったっ。せっかくだし、うん、仲良く……」


なってきたかはわからないけど。


「飛雄くんって呼ぶことにするよ。ね、飛雄くん!」

「なんだよ」

「呼んだだけ!」


名前で呼んでほしかったんじゃないの?
なんで怖い顔するのか、さっぱりわからない。
影山飛雄という人は、理解の範疇を超えている。

混乱している内に降りるバス停に着いたらしい。
止まるボタンが一斉に光って、さっき窓ガラスに書いた文字はうっすらと消えかかっていた。










影山くんの家は、なんとなく影山くんの醸し出す雰囲気に似ていた。

家に明かりがない。


「家の人、出かけてるの?」

「ああ」

「お、お邪魔します」


影山くんに続いて玄関に入ると、誰もいないせいもあって一段と寒く感じられた。


「部屋にある」

「こっち?」

「そこ。先入ってろ」

「うん……」


家の人がいないのに上がり込んでいいんだろうか。

礼儀知らずもいいところだが、影山くんが居間らしい部屋に入っていくのを待ってるのも変だ。
言われるがままに入った部屋は、とても影山くんらしい部屋だった。

バレーボールがあって、トレーニング用具があって、壁に制服がかかっている。
同じく、こっちの壁には手書きのトレーニングのメニューが貼ってある。相変わらず個性的な字だ。

もしかしたら、その辺に『使っていないダンベル』が転がっているかもしれない。

紙袋が目についた。

プライバシー的にどうだろうと思いつつ、そっと見下ろすと、たぶんバレーの先生がくれたであろうカセットがいくつも入っていた。

その一つを手にした時だった。


「これ、やる」

「なに?」

「オレンジ」

「おれんじ……、ジュースだね。飲んでいいってこと?」


影山くんはこくりと頷くと、引き出しから同じような紙袋を引っ張り出した。

手元のオレンジジュースのパックを見る。

果汁100パーセントのオレンジジュース。


しゃがんだ体勢のまま影山くんは言った。


「好きっつってただろ」

「え?」

「オレンジ」


私の好きなものなんか、いつ話したっけ。

そう問いかけすと、また短く返された。ハロウィン。


「ハロウィン?」

「なんか食いもんくれた時にが言った」

「オレンジが、すきって?」

「ああ。……好きじゃないのか」


立ち上がられるとやっぱり背が大きくて、すごく、バレーボールに向いているということが肌で感じられた。


「好き、だよ。ありがとう」

「ならいい。待ってろ、全部出す」

「うん……」


手持無沙汰でもう一度ジュースのパックを眺めた。

影山くんが、ジュースをくれた。

もてなされた。影山くんに。あの、影山くんに。


「なにボーっとしてんだ」


声をかけられて、ようやく我に返る。

10月にちょっと話したことを覚えていてくれて、こうやって家に連れてきてくれて、ジュースをくれて。


本当に、ただ、意外だった。



next.