ハニーチ

スロウ・エール 165






1、



2、



3。





冴子さんから教えてもらった3秒は、あっという間に過ぎさった。

衝動的に閉じた瞼が重い。

日向くんが身じろぎ一つしてないのは、肩に触れていたからよくわかった。


引かれた、かな。

目を開く。


日向くんは、目をぱちくりさせた。

なにか言いたげに唇をわずかに動かして、でも、沈黙を保って、やわらかな眼差しに移ろった。

この距離、この近さ。

いつもボールを追う瞳は、今だけ私を映す。

その奥に、拒絶じゃなく、喜びを見いだすのは、自惚れじゃないと思いたい。


笑顔を見せるべきなのか、もっと近づいた方がいいのか。

今、わかった。

あの3秒間は、相手じゃなく、自分の覚悟を踏み切る時間だったんだ。


途端、この至近距離で緊張してきた。


肩に触れた手を外す。

日向くんが、私の両腕をつかんだ。



さん」


「ご、ごめん、訳わかんないことして」


「今のっ」


「ごめんっ、ほんと……ごめん」



たぶん、感づかれた。

自分で近づいておいて、日向くんと一歩進みそうになった途端、こわくなった。


日向くんの手から力が抜けていく。

私を尊重してくれている。

今のまま変わらずにいたい、その想いを大事にしてくれている。


ああ、でも、もっと近づきたいって思ったのも、ほんとうだ。


日向くんが想ってくれているように、
わたしだって。

そう伝えたかったから、自分から目を閉じた。


勢いを、勇気のまま、握りしめろ。


すぐそこ、もうあとちょっと。


日向くんのコートのボタン、襟元。


視線を上げていく。


きっと、目が合うたびに自覚する。


あたたかな笑顔。





さんが、したいって、

そう思った時、教えて。


言うの難しかったら、もっかい目閉じて。


その時に、

おれは、さんに、……したい」




言い切ってから、日向くんは腕を掴むのをやめて、さっきまでと同じように手を握ってくれた。

そのまま、肩に寄りかかられた。

日向くんの髪がほっぺたをくすぐった。



「おもたいっ?」

「かっ軽くはない、かな」

さん正直!」

「冗談だよ、私も寄りかかるっ」


そう言って、なぜかベンチでお互いにもたれかかることになった。

白い息が立ち上る。

どちらのものかわからなかった。



「さっき、おれ、息、止まった」


「え?」


さん、近かった。

……そんときだけじゃない。
今日、何回もあった。

さっきも、その前も、会ったときからずっと、わけ、わかんなくなる」



白くしろい熱が、とけていく。



さんといると、いつも、ずっと、そうだ」



日向くんは私から手を離して、立ち上がった。



「深呼吸する!」



高らかな宣言通り、大きく伸びをしたのち、日向くんは深く呼吸を繰り返した。


吸って、

吐いて、

吸って、

吐く。


真似して深呼吸すると、冬の空気の中に呼吸がまぎれていく。

それでも、内側に宿るこの熱情は燻ぶったまま、機会を伺っている。


消せるわけない。

自分じゃないダレカに囁かれた心地がした。



「日向くん」



立ち上がると、日向くんは伸びする腕を下ろして、こっちを向いた。

前だけを見た。

かつて選手として立った体育館が、真っ黒なシルエットとして目に映った。



「日向くん、さっき……

私が、日向くんだけ見てるわけじゃないって言ったけど、そんなことない。

どこにいたって、いつも、見てた」




冬の夜空は真っ暗で、想いの込める告白も吸い込まれそうだ。



「これから先、

日向くん、烏野に入って、バレーして。

きっと、小さな巨人のひとみたく、
いつか春高まで出て」



あの広い、夢の舞台。

スポットライトと観衆の注目すべてが集まる、とびっきりのコート。


話をしながら、選手として立つ日向くんがもう目に浮かんでいた。



「どこにいたって、私、日向くんのこと応援してる。
日向くんのこと、ずっとみてる。

それだけは、約束できる。

ううん、……絶対、そうしてる」



先のことはわからないと断言を避けるけど、このことだけは確信していた。

いつになるかわからない未来。

それでも、日向くんはコートに立つだろう。

誰と、どんな相手と、どんな試合をするかわからないけど、日向くんが望むならたどり着ける。


「ぜったい?」

「うん、絶対」

「……そんとき、さんなにしてんの?」

「わ、たしは、よくわかんないけど」

「おれのそばにいる?」



視線を感じる方は、日向くんのいる側だ。

ふと隣を見やると、それは正解で、すぐ顔を背けて答えた。



「そ、そばにいるんだったらいいなって思うよ「絶対じゃないの?」


今日、手を握られた中で、一番力が強かった。


引っ張られるかと思ったけど、それはなかった。



「見ててくれんのはうれしいけど、どこにいたって、て言い方……

すぐそばで応援してるって、言ってほしい」


「うん、……あの、うん」


日向くんがコートに立つ姿は余韻のように頭に浮かぶのに、なぜか自分の姿は想像できなかった。

ぽつりと聞こえた。

さん、ほんと、正直だよな。



「あのさっ、ぎゅわって、なった。

ぎゅって、していい?」


「う、ん」



頷くのとほぼ同時に腕に収められていた。

やさしくて、離れがたくなるあたたかさ。

日向くんの声がとても近かった。


「早く、バレーしたい」


切なさが、こみあげた。


「できるよ。もう、私たち高校生だもん」


「そう、だよな。烏野に入って、バレーする。あとちょっと!」


「もう、本当にあと少し」


今年も、あと6日でおしまい。

新しい年が来て、大変な受験を乗り越えれば、春が来る。

日向くんの腕に力が込められた。



「どんな気分だろ。コート入って、最後まで、ちゃんと、6人のバレー」



それは問いかけのようでも、独り言のようにも聞こえたから、返事はしなかった。

そろそろ本格的に夜が更けてきた。



「日向くん、帰る?」

「帰らないと、まずい、よな」

「そうだね」

「うーーー、なんかっ、あっという間!」

「だね」

さんは、もう帰れそう?」

「もう、大丈夫」


駄々をこねてベンチに座ったのは私が先だ。

二人離れて顔を見合わせると、今度は日向くんの方が帰りたくなさそうだった。


「帰るのやめる?」

「やめていいのっ?」

「ここまで付き合ってもらったから、今度は私が」

「いやっ、さんは女の子だからっ、そこは、ちゃんと違うっ。

おっし、帰る!」


日向くんはベンチに置きっぱなしの缶を掴んで、ゴミ箱を目指した。

くるっと振り返って、手を差し伸べてくれた。



さんのは?」

「あっ、まだ残ってて、待って」


ぬるくなったココアを飲み干そうとすると、勢い余ってむせてしまった。
ゆっくりでいいと日向くんが待ってくれたけど、そうも言っていられない時間だった。

急いで片づけて、今度こそ荷物を手にした。


「帰ろうっ」

「帰ろっ」


お互い自分に言い聞かせているみたいだった。

日向くんが、途中、公園の地図の前で立ち止まった。


「なに見てるの?」

「いや、なんでもないっ」


それでも、好きな人の視線の先がどこに向いていたか、なんてすぐわかる。



「あれ、体育館だよ。もう、なくなっちゃうの」



地図ではなく、現実に見える建物の影を指差した。

日向くんがぎくりと肩を動かしたのももちろんわかった。


「そ、そうなんだ」

「ごめん、私がつい見ちゃってたから、だよね」

「あ!いやっ、別にそんなんじゃ!」

「あそこでね、昔、大事な試合をしたことがあって、だから……」


それだけで、気になったわけじゃない。


「もう一回、あそこでバレーしたいって、最近思うんだ」

「バレー?」

「……バレー」



ふとした思いつき。

あの決勝戦をやり直せるとは思っていない。

ただ、あの時に置き去りにした気持ちを振り返ってみたかった。



「日向くん、あの、帰る前に一個だけお願いしていい?」

「なに?」

「プロミスリング、やっぱり、いま結びたくて」

「いいよ!おれやる!」


ポケットから出した日向くんからのプレゼントは、ほんの少しだけあたたかかった。

日向くんが私がしたときと同じように手首に組紐をかけて結んでくれた。


「これでどう?」

「ありがと、いい感じ」

「よかった。 なに、お願いしたの?」

「あの体育館でバレーできますように」



本当は、もっと他の、有意義なことを願うべきかとも思う。

でも、しょうがない。

どうしたって引き寄せられてしまう。

心の向かう先は、自分で決めているようで、本当は、自分の想像もつかないような大きな流れに乗るだけに思えた。



「もしバレーするとき、日向くんも来てくれる?」

「行くっ、絶対っ。おれ、さんのトス好きだ」

「日向くん、嫌いなトスないでしょ?」

「な、ないけど! さんのはまた別っ」

「そうかな、あ、信号変わる。走ろっ!」

「おーっ」



ちかちか光る信号機、手首でプレゼントのミサンガが揺れる。

待ち合わせ場所のツリーはまだ光っていた。



さん、忘れ物っ」

「へっ」

「そんで封印っ」


また繋がった私たちの両手は、日向くんのコートのポケットに収まった。



「今日、楽しかったっ」

「私も楽しかった」

「次、いつ会うっ?」

「もう次?」

「だって、もう帰るじゃん……」

「帰るけど、って、ほんとに帰らないと怒られるって」

「じゃあ、帰ったら電話、「メールするっ、電話ぜったい切れない」

「えーーっ」

「はい、日向くん、帰るっ」

さん!」

「行くよー」

「メリークリスマスっ」


日向くんが身を寄せて笑った。

同じように口にすると、日向くんも嬉しそうに付け加えた。最高の、クリスマス。

離れがたい分かれ道、遅く帰って身支度してから、さっそくスノードームの置き場所を部屋に作ったその時、電話が鳴った。

ディスプレイには、『着信:日向翔陽』の文字。

呆れつつも出ないという選択肢はなく通話ボタンを押し、二人のクリスマスはほんの少しだけ続いた。


next.