敷地内は、見渡す限りは生徒の姿もなかった。
それでも、影山くんと一緒にいる以上、今回は自分ひとりの責任にはならないと頭を切り替える。
影山さんに迷惑がかかると目くじらを立てていた後輩くんたちが想像の中でわめき始める。
強行突破とばかりに私を引き連れて校舎に向かう影山くんに呼びかけた。
「ねっ、やっぱりまずいって」
「何がまずいんだ」
「もしばれたら怒られるよ」
前を歩く影山くんがちらりと振り返って繰り返した。
「誰に?」
「だから、ここの先生に」
「冬休みだ」
「職員室にいるって、部活あるなら部室にも」
「今、いなきゃバレねえよ。時間ないっつったのだろ」
「それはっ、そうだけど」
「、上履きは?」
「ない」
「じゃあ、「待って」
到着した3年生の下駄箱は、影山くんのクラスなんだろう。
冬休みとあって、ほとんどの靴箱は空っぽみたいだった。
「体育館履き、あるから」
鞄から取り出してみせると、影山くんが目を丸くした。
「準備いいな」
「……誰かさんがしょっちゅう体育館に連れ込むから、Tシャツも持ってきてるよ」
「誰だソイツ」
それ、影山くんが聞く?
バレーの練習に付き合わせてくれる張本人の影山くんが『誰だよ』と純粋に疑問を持つ横で、誰の名札も入っていない靴箱の空きを見つけて靴を入れさせてもらった。
どこの学校もある程度似たような構造だと思うものの、あとで一人でも戻ってこられるように下駄箱の位置をもう一度確認した。
廊下の向かいから、誰か来た。
「! なんで俺の後ろに隠れる」
「いや、だって人がっ」
向かいから走ってきたジャージの男子は、とくに私たちを気に留める様子もなく、颯爽と昇降口を抜けて行った。
たぶん運動部だ。走るフォームがきれいだった。
「今の人、同じクラスだったりしないよね?」
「ああ」
「よかった……」
影山くんと同じクラスの人なら、ぜったいにおかしいって思われる。
いや、同じ学年でも気づかれそうだ。
「……、いつまでこうしてんだ」
「ごごめん!!」
今度は、1年生っぽい人が欠伸をしながら階段を下りてきた。
離したはずの影山くんのコートをまた掴んでしまった。
あわてて離して、影山くんから距離を置くべく後ろに下がった。
「ごめん!」
悪気はない、とアピールしてみても、ああ、影山くんの視線が痛い。
ぜったい怒ってる。
俯いたまま、影山くんの眼差しだけは肌で強く感じていた。
「」
「か、隠れやすい背中だったから悪気はなくて……!!」
「こっち来い」
また腕を掴まれた。
今度はさっきより優しく引かれた。
空き教室を通り抜け、窓から校舎の外に出る。
言われるがまま進んでいくと、この行き方なら他の人にそう会うことはないと教えてくれた。
生垣やら乗り越えるべき障害物はいくつかあったけど、それでも今はありがたい。
「こんな道、よく知ってるね」
口にしてから、影山くんが誰かを避けたいときがあって見つけたんじゃないかと思い至った。
いや、考えすぎだ。
芸術鑑賞の時にも見かけた二人が浮かぶ。
いくらチームメイトと上手くいってなくても、廊下ですれ違うくらいなんてことないだろう。
あの決勝に辿り着くまで、ちゃんと一緒にやってきてるんだし。
“コート上の王様っ。それで全部わかるよ”
あの人に言われたことまで思い出してきた。
つい逃げたけど、あの時、もっと話聞いとけばよかったかな。
「わっ!」
段差に躓きかけて、なんとか踏みとどまった。
影山くんが、すごい形相でこっちをにらんでいた。
身体、固まってしまう。
「」
「ごめんなさい!」
「なんで謝んだよ」
「う、うるさくして怒らせたかなって……」
「誰が怒ってる?」
「影山、飛雄くんが」
おととい、下の名前で呼ぶって決めたのも忘れてまた苗字で呼びかけると、わかりやすく影山くんが不機嫌になったから、フルネームで呼びかける羽目になった。
とびおくん、飛雄くん、とびおくん。
その飛雄くんはため息を一つついた。
「怒ってねえよ」
「……ほんとに?」
「それより、が前歩け」
「ぇ」
促されるまま、影山くんの前に引っ張られてしまう。
思わず振り返る。
「あの」
「なんだよ」
「道、わかんないよ、私」
「まっすぐ行け、その先、左」
「う、うん……」
「まだなんかあんのか?」
歩き出そうとしない私に、確かに不機嫌さは滲ませずに飛雄くんはそう言った。
「なんで、私が前なのかなって」
道を知っている人が、先導するのが道理だ。
状況を飲み込めずにいると、飛雄くんはきっぱりと答えた。
「なんかできるだろ、後ろにいたら」
なん、か?
「早くしろ、勉強すんだろ」
「する、……行く」
もう転んだりしない。絶対しないようにする。
よくわかんないけど、たぶん、これは、助けられちゃいけないと思う。直感だった。
歩くことだけに集中したおかげで、安全に目的地へつくことができた。
「あの、かっ、げや、ま、飛雄くん」
「なんだ」
「いや、やっぱりなんでもない」
影山くんが案内してくれたのは、食堂だった。
なるほど、ここなら下手に校内の教室にいるよりも目立たないだろう。
先生が見回りに来ることもないし、他の生徒がいたとしてもこれだけの広さがあれば、隅っこのテーブルを陣取っていても、そもそも気にも留められないはずだ。
だったら、最初からここに連れてきてくれたら、と突っ込みたくなったけど、それは野暮というもので、言葉は飲み込んだ。
「、顔が面白いな」
「え、それ、褒めてる?」
「そのままの意味だ」
「そのままのイミ!?」
どういうことか聞きたくなったけど、きっといつものポーカーフェイスが出来ていないせいだ。
残念ながら自分でも認識しているくらい、最近は気がゆるんでいる。昨日のこともある。
あ、ダメだ、手首のプロミスリングを意識してしまった。
「今度は何してる」
「ほっぺた鍛えようかなって」
「そんなんで鍛えられんのか?」
「わからないけど」
「そうかよ」
自分の目を疑った。
あの影山くんが、自分の頬を指先で引っ張っている。
「な、にやってんの?」
「鍛えられんだろ」
「わかんないって、言ったし、ほんとなにやってんの、変だよ、か、……飛雄くん」
そう言っても、まだ飛雄くんは続けてる。
「変だって、ほんと」
なんだかおかしくて、つい噴き出してしまう。
あ、怒るかな。
一瞬身構えたけど、そんなそぶりはなかった。
影山くんは自分の頬から手を外して、私の見間違えじゃなければ、わずかに笑みをこぼした。
前に見た、バレー教室に行った時みたいな笑顔。
夢、みたい。
夢じゃない。
「あのっ、飛雄くん!」
自分で思うよりずっと声が大きかった。
咳払いして気持ちを落ち着かせてから続けた。
「一緒にがんばろっ、絶対高校入ろうっ」
「?おお」
湧き上がる高揚感。
私たち、ちゃんと“友達”になれてる。
すごい。
なんだか、近づけてる。
だんだんと心を開いてもらった気分だ。
影山くんの笑顔、バレーじゃなくても見れた。
バレーの先生に見せれるものなら見せたかった。
うれしくて、難問ばかりの問題集も気持ち新たに開くことが出来た。
*
「暑くないのか?」
しばらくしてから、コートを脱いだ飛雄くんに声をかけられた。
食堂とあって、火が使われている調理場からは暖かな空気は流れてくるものの、外気もよく入り込んでくるから足元は冷えている。
まして私たちの座る場所は食堂のはじっこだから、暖房の風も届きはしなかった。
「むしろ寒いくらい」
男子は、いや、特に体育会系の部活をしている人は寒さに強いんだろう。
「制服違うのバレるからもともと脱げないけど。なに?」
空いている席にかけたコートをわざわざ差し出してきたから、何事かと思った。
「着るか」
「ぇ、いいよ」
「寒いんだろ」
「そうは言ったけど」
あれ、おかしい、同じ日本語をしゃべっているはずなのにこの状況を理解できない。
強引に押し付けられた相手のコートを元の椅子にかけ直した。
「あの、自分のコート着てるから」
「見りゃわかる」
「だよね! コート2枚は着れないからさ」
こんなやり取りを察したのか(いやそんなはずはないんだけど)、空調の風向きが動いて、ほんのりとあたたかい空気がこのテーブルにも送られてきた。
「ほら、あったかくなってきたっ、大丈夫」
「そうか」
「あの、ありがとっ」
「なんもしてねえよ」
「気にしてくれたから」
よくわからない流れだったけど、お礼を述べると、まんざらでもなさそうな表情だったから、よしとした。
next.