ハニーチ

スロウ・エール 168




影山くんの鉛筆が動く。とまる。また動く。

同じテーブルにいるから、影山くんが消しゴムを使うたびに振動が伝わってくる。

こっそり視線を上げて様子を伺ってみると、今日に限ってばっちり目が合ってしまった。

別にばれて困るわけじゃないのに、なんとなく、ばつが悪い。

影山くんにほんの少しだけど笑われた気がする。

いつもなら愛想ゼロ、こっちへの関心もゼロと決まっているのに、なんでまた。
集中してないって思われたかな。

いっそ何か言ってくれたらいいのに、影山くんはもちろん何も言わず、鉛筆を走らせていた。

受験生らしくてすばらしい。負けてられない。

そう思った時、ひざが向かいの影山くんのにぶつかった。

一瞬だけ慌てたけど、もういちいち動揺しない。影山くんの鉛筆の先が折れた気もしたけど、問題を解ききるまで私から何も言わない。

手首につけたプロミスリングが視界に入る。


置いて行かれないように、私だって。


影山くんと勉強するときに進める烏野の過去問。

どれも基本的な問題で、初心に戻れる心地がした。











「ぜんぶ解いてみた感想は?」

「……」

「わかった」


影山くんは、烏野の過去問に関しては、よっぽど運がない場合を除いて、合格点は毎回取れるようになってきた。

が、白鳥沢はもちろん別で、試しに解いてもらった過去問の答えは見事にバツと空欄で埋まった。

このなんとも表現しがたい、不機嫌そうで不満げで不服といった表情、まさしく私の知る影山くんって感じだ。

前は居心地の悪さしか感じなかったのに、今はどうってことない。

慣れというのはすごいものだなと感心しつつ、試験に向けて足がかりになりそうな練習問題をいくつかピックアップした。

何日かしたら年も明けるし、まともに学力を上げていったんじゃ合格するのに時間が足りない。

試験のヤマ張りに近い。それでもやらないよりマシだ。他に方法があるとも思えない。

……難易度が高すぎる問題にチャレンジさせたせいで、烏野まで落ちたらどうしよう。




「!」


まさかの影山くんが中卒になり、先生に謝り倒す想像までしたとき、影山くんの一言が思考に割って入った。


は、ぜんぶ意味わかんのか?」


テーブルに広げたままの白鳥沢の過去問を確かめてから頷いた。


「そりゃ、人に教えるんだし」

「すげぇな」


ぽつりとこぼされた一言に首を横に振った。


「すごくなんか……」

はなんで白鳥沢受けるんだ?」


自然な会話の流れだった。


白鳥沢学園高校 入学試験問題。

意味なんて分かっているのに印刷された文字をなぜか読み直していた。

これらを解くよりずっと簡単な質問だった。



?」



バレーが強いから、は、影山くんの答えで、正解。

何を答えたって間違いじゃない。

いま、言いよどんでしまう理由は、自分の答えに採点をつけようとしているのは。



「あ、の」



言葉が、のど元で引っかかる。

適当に答えればいいのに、それもしたくなかった。


「ちょっと、手洗ってくるね。鉛筆でこすれちゃって」


影山くんはきょとんと目を丸くしてから頷いた。

無理やりな話題転換だった。

変に思われた、きっと。偏差値高いからって言えばいいだけだったのに、ごまかした。

先生にレベルの高い高校を目指せと言われた時のことを思い出す。
12月末、年が明けたら試験だ。願書だって用意して。


早足で食堂を出たとき、視線を感じた。

よく知る、とまではいかないけど、知り合いに会えるとどこかうれしい。

見つけられた当の本人は、混乱と困惑を絵に描いたような複雑な表情をしていた。



「2対2が最後だよね、元気だった?」

さん、自分が他校って忘れてません?」


影山くんを慕う後輩くんは、呆れた様子で無視はしないでくれた。

上履きでこっそり名前を確認すると、しっかりその様子はばれていた。


「人の名前忘れすぎです」

「ご、ごめん、雪平くん」

「また練習誘いに来たんですか」

「いやっ、今日はそういうわけじゃ」

「影山さんいるなら考えなくもないですけど」

「え、いいの!?「雪平ー」


階段から降りてきた人物は、後輩くんと同じジャージを着ていた。

忘れるはずがない、北川第一男子バレーボール部のジャージ。



「体育館の鍵、ありがとうな。急だったから助かった」

「いえ、もう帰ったんですか」

「ああ、用事あるって。話してるところ悪かった、な……」


気づかれないように精一杯身を縮めたつもりだったけど、相手はそのまま立ち去ってくれなかった。


「おまえ……、なあ」


一歩後ずさったのが悪かった。かえって怪しまれた。回り込まれてしまい、つい顔を上げると、前に話しかけられたときと同じ人だった。


「やっぱり」

「……っ」

「また来たの? 王様の意味、影山に聞けた?」


避けて立ち去ろうとしたはずが、すぐ通せんぼされる。

体育館履き、かすれたサインペン、金田一の文字。

そう、そんな名前だった、この髪のつんつん立った人。大きくてなんだか怖かったけど、雪平くんにまで私のことを聞くからこのまま立ち去れなかった。


「ゆ、雪平くんは関係ないです」

「へー、名前知ってんじゃん。なに、影山から聞いた? いや、後輩の名前覚えてるわけないか」

「なんでそんな、同じ部だし」


金田一という人はわざと大きく足を上げて、私が通り抜けようとした先に一歩踏み込んだ。


「影山のこと、何にも知らないんだな」


吐き捨てられた言葉、それは、バカにしてるんじゃなくて、まるで。


がどうかしたか?」


静かな一言のはずが、この場が凍り付いた心地がした。


「か、影山」

「連れてきたのは俺だ。なんかあんなら俺に言え。


いつもなら身体が硬直する声色だったのに、今はただ、安心して息がつけた。

金田一という人の横をやっと抜けて、逃げるようについ影山くんの後ろに隠れた。

後輩くんと金田一、くんは、それぞれなんとも言えない表情で私を目で追っていた。


「ぇ」


くるりと向きを変えた影山くんが私の手首を掴んで、勉強していたテーブルの方に向かい出す。

何か言うかと思ったのに。

そう感じたのは金田一くんも同じだったらしい。


「さっきまで及川さんたち来てたんだぜ。いろいろ教えてもらった」

「……そうかよ」

「顔も出さなかったな」


さっきまで、ということは私とここで勉強していた頃だ。


「来るって、知らなかった」

「部の3年全員に連絡してたけど、あぁ、誰か入れ忘れたのかもな、お前だけ」


「教えてあげればよかったのに」


つい、こぼしてしまった。

視線が私に集まる。

こわい より、一歩、踏み出していた。

いつかの影山くんと同じジャージをまとう金田一君、その顔がこわばっていた。


「同じバレー部なら声かけてあげれば、「お前には関係ないだろ!!」


掴みかかりそうな勢いで飛び出した彼を片手で制したのも影山くんだった。



「悪い」



この人に謝るなら私のはずだった。

詫びの気持ちより、威嚇にすら聞こえる響きは、影山くんから発せられた。


たじろいだ様子の金田一くんが眉を寄せると、ハッとした様子で片腕を上げた。



「先生、ここに部外者がっ!!」


金田一くんの視線の先には、たしかに学年主任の風格のある男の先生が歩いていた。

考える暇はなかった。


「あのっ、ありがとうっ」

「はあっ!?」


金田一くんの声が裏返っていた。そりゃいきなり腕を捕まれればびっくりするだろう。振り払おうにも、声をかけた先生が近づいてくる手前、無下にも扱えないのはわかっていた。
力いっぱい腕にしがみついて、笑顔を作って見せた。影山くんも後輩君も呆気にとられている気がしたけど、迷ってる暇はない。

一番、迷惑が掛からない方法を内心必死で考えていた。

やってきた先生は何事か、と私たちを見回した。

すぐ先手を打った。


「すみません、私、他の学校なんですけど、どうしても友達と勉強したくて……」


事情を説明し、許可の取り方がわからなくて困っていたところ、ここにいる金田一君が“親切心から”先生に声をかけてくれた、という体で話を進めた。

先生も厳しい性分でないらしく、ふんふんと頷いて話を聞いてくれた。
影山くんからも自分が案内したと申し出があると、職員室で許可証を書いてくれると話もまとまった。

ここで金田一くんの腕を離した。笑顔に精いっぱいの感謝を込めて。


「本当にありがとう、金田一くん」

「……」


何か言いたげに、それでいて悔しそうに眉を寄せる金田一くんが思い切り顔をそむけた。

先生も、影山くんと一緒に来るようにと私に告げ、一足先に職員室に向かっていった。


「覚えたからな」


金田一くんはぼそ、とこぼすと、先生と同じく階段を上がっていった。



next.