ハニーチ

スロウ・エール 169



おぼえられて、しまった。


髪先のとんがった後頭部、北川第一とバレーボール部がプリントされたジャージ姿の金田一くんは振り返ることなく、上の階へと姿を消した。

しがみついた彼の腕は、とてもしっかりしていた。バレー選手の腕だった。

揉め事と思わせないためにやってしまったけど、よく考えれば、知らない男子の腕をいきなりつかむなんてどうかしてる。

振り払われなかったのはラッキーだ。
相手も見ず知らずの他校の人間がそんなことするとは予測できず、思考停止したに違いない。

先生の前でもっと大ごとになる可能性だってあった。

今さら自分の行いと状況が飲み込めてきて、身体が硬直してきた。



「……にやってんスか」



後輩くんの一言で、ハッと我に返った。

あ、そうだ。


「雪平くん、ごめんっ」

「なにがです?」

「いや、あの、金田一くんに私のこと聞かれて巻き込んじゃって迷惑を」

「そんなの……」

「あ、待って」


影山くんが勉強していたテーブルに向かうから、後輩くんには短く挨拶だけして、影山くんの背中を追っかける。


「さっき! ありがとっ」


追いついて横から顔を覗き込むと、目が合って、すぐ視線が外された。


「来てくれて、よかった」


返事がないまま、職員室に向かうためだろう、影山くんが荷物をまとめ始めたから、それにならった。

筆箱に赤ペンも何もかも入れ終えて鞄に詰める。

片付け終えた影山くんが荷物を肩にかけて待っていてくれた。

とても、難しい顔をして。


「……どうしたの?」

「何がだよ」

「その、すごく、怖い顔してる」

「してねーよ」


……してる。

鏡を渡してあげたかったけど、大人しく影山くんの後ろに付いて歩いた。

途中、雪平くんがまだ立ち尽くしていたから手でも振ってみたけど、面倒くさそうに顔をそらし、向こうに行ってしまった。

やっぱり怒らせたかな。……怒らせただろうな。
影山くん信者だし、金田一くんだって部の先輩、どっちにもやらかした私に苛立っているに違いない。

そういえば、体育館の鍵がどうのって言ってたから、部活に急いだ可能性もある。

年の暮れ、冬休みの体育館。

3年生のいた場所はもう彼ら1、2年に譲られ、次の年が始まりだしているはずだ。











「失礼します」


影山くんは、職員室の引き戸を開け、躊躇いなく中に声をかけた。

私より身長も肩幅のある影山くんの後ろにいると、室内の様子はよく見えなかった。プリンターが規則正しく動いているのは聞こえた。

暖かな空気が廊下へと流れてくる。

入りなさい、とさっきの男の先生の声が聞こえて、同じく頭を下げて影山くんに続いて足を踏み入れた。

ここが、北川第一の職員室。

生徒が休みでも先生たちは働いている、とは聞いたことがあるけど、それでもやっぱり先生たちの人数は少なく思われた。

学年主任っぽい、という第一印象が正解かはわからなかったけれど、この先生の机はたくさんの書類が山積みになっていて、他の机よりも立場が上にありそうな位置だった。

先生は一枚のプリントを差し出して、他校の生徒を入れる場合は前もって担任や顧問の先生に提出が必要だと教えてくれた。


「えぇっと、鉛筆どこやったかな」


先生の机の上にあるペン立てには、ちょうどボールペンと赤ペンしかなかった。


「自分のあります」

「そうか、あ、影山、そこの椅子と机、使っていいぞ。大丈夫だ、今日はいない」

「……」


影山くんの苦手な先生の机だったのかな。

少しだけ緊張した面持ちを見せた影山くんは、促されるまま、キャスター付きの椅子を引いて座った。


「君も生徒手帳ある?」

「あ、はい!」

「そんな慌てなくていいよ」

「いやっ」


それでも気持ちはあせってしまう。


「あのっ、これです」

「はい、ありがと」


先生は受け取った生徒手帳を開いて、顔写真と私とを見比べてからすぐ生徒手帳を返してくれた。

本人確認かな。




「なに?」


今度はプリントと向き合っていた影山くんに呼ばれるがまま、椅子の背もたれを掴んだ。



の苗字ってなんだ」


「ぇ」


「名前もどういう字だ」


「……自分で書くよ。鉛筆かりていい?」


「おう」


「……」



気を、落としてどうする。

影山くんが私の苗字を知らないのだって、私だってバレーの先生が呼ぶまで知らなかったし、お互い漢字だって教えあったわけでもないし。

……でも、私は影山飛雄ってフルネーム、ちゃんと書けるけどね。いいけどね。


「はい」


鉛筆できちんとと、ついでに所属学校名と学年と人数も埋めてから鉛筆を影山くんに返して、机から身体を起こした。



もう一度、影山くんに名前を呼ばれて振り返ろうとしたとき、大きな物音がプリンターのそばで聞こえた。

すみませんの連呼、若い女の先生がこっちにもあっちにも頭を下げた。

私たちの相手をしてくれていた学年主任(と勝手に思っている)先生が手助けに向かう。


「あ、いま、呼んだよね。どっか間違ってた?」

「……そんなんじゃねえ」


だったら、なんで顔してるの!?


聞きたかったけど、男の先生が影山くんを今度は手招きして何かを説明していた。

はっきり聞き取れたわけじゃないけど、さっき盛大に何かを落とした先生の手伝いを頼んだらしかった。

私も行ったほうがいいかな。

そう思った時、影山くんは何かの束を抱えて、女の先生と一緒に職員室を出て行ってしまった。

学年主任の先生が戻ってくる。


「あのっ」

「ん?」

「私も、お手伝い」

「いい、いい。すぐ終わるから。座ってなさい」


勧められるがまま、影山くんが座っていた席に腰を下ろした。

プリントの記入欄は全部埋まっていた。

先生に渡すと、ふんふん、と話を聞いてくれた時と同じく頷いて受け取ってくれた。


「……」


なんとなく、気まずい。

早く影山くん戻ってこないかな。


いくら北一の生徒じゃなても職員室は職員室。

学生としては、敵地にいる気分だ。



「さっきの先生ね」


いきなり話しかけられてびくついてしまうと、男の先生は笑って続けた。


「影山のクラスの副担任なんだよ」

「そ、……なんですか」

「来年、影山たちの学年と一緒にやめちゃうんだけど」


新任の先生かと思ったのに。


「ずっと、影山のことは気にしててね」


それは、どこか遠くを見るようで、これまでのことを振り返るような、穏やかで感慨深げな声色と表情だった。



「君みたく、一緒に勉強してくれる子がいたって知ったら喜ぶよ」



聞きたいことが浮かんで、喉元でとまる。

金田一くんのあの眼差しと、怒りさえ滲んだ言葉を思い出す。


“影山のこと、何にも知らないんだな”


今日、見せてくれた、ちょっとした、見間違いかもしれないけど、微笑み。

コートを差し出してくれたこと。

ビデオのために連れて言ってくれた影山くんの家、部屋。

一緒に食べたカレーのこと。

同じコートに共に立った2対2。

慕ってくれている後輩2人へのあの頑なな態度。

映画館での、寝顔。


いつものあの場所でノートに向かう姿。


そして、バレーをするときの、ぜんぶ。



「あの」



私のなかの影山くんをすべて集めたって、この学校での影山くんのことは知ることはできない。

なんでだか、近づきたかった。
知りたくなった。


あの試合がよぎる。

北川第一と光仙学園の決勝戦、だれも繋げようとしなかったトス。


圧倒的な、勝ちだけにこだわったボールの行く末に、なんでだか感傷的な気持ちになるのは、同じセッターだったからか。

それとも。



「どうしてっ、


 ……副担任の先生、やめちゃうんですか」



口から出たのは、本心からの質問じゃなかった。



「他の仕事を目指すんだってね」

「先生、じゃ、なかったんですね」

「向いてるとは思うんだけど、やりたいことを追いかけるべきだって、背中を押したよ」


先生はぽつりと漏らした。


「私もやってみたかったんだけどね」

「ぇ」

「若い時、同じように悩んだことがあって、そのときは誰にも相談しなかったんだ」


今現在を後悔しているようには聞こえなかったけど、だから、その先生を応援したのかなと納得もしてしまった。

男の先生は続けた。

君たち学生はいくらでも可能性を秘めている。
もっとやりたいことを思い切ってやりなさい。

すてきな美辞麗句。
教科書に載ってそうな、まっとうな響き。



「……先生だって、

 やりたいことやった方がいいです」


「ん?」

「私たちだけじゃなくて、先生も、大人のひとも、これからだって」


膝の上で、なぜだか拳をぎゅっと作っていた。ぎゅっ と。

先生が、さっきまでと変わらぬ口調で言った。



「人の背中は押しやすいんだけどなあ」



そんなの、決まってる。



「背中は」


「ん?」


「自分の背中はっ、自分で押せないです。

 だって、背中です」



言ってから、なんでこんな変な主張をしているんだろうと思ったけれど、先生は『確かにそうだ』と笑って、同じタイミングで影山くんと副担任の先生が戻ってきた。

なんでだか、いま、影山くんが来てくれてやっぱりほっとした。



next.