ハニーチ

スロウ・エール 170




ひとりじゃ、自分の背中は押せないから。


そばに、だれか、一人でも。











「大丈夫か?」


影山くんの問いかけに、間を置いてから頷いた。



「な、なんとか。 変わった先生だね」

「……わるい」

「謝ることじゃないよ。うれしかったし」



強烈では、あったけど。

心の中で付け加えて、影山くんが職員室に戻ってきたときのことを思い返す。

といっても、記憶に残っているのは、副担任の先生の力強い握手と今に泣くんじゃないかっていう迫力と感謝の言葉だ。

先生を手伝う道中で、影山くんが私のことを話したらしい。

学年主任の先生も言っていたが、『あの』影山くんと一緒に勉強してくれる生徒がいるなんて!と感激したらしかった。

職員室に戻ってくるや否や、副担任の先生は私の手を熱く握ってお礼を言ってくれた。

何言われたっけ……、記憶が飛ぶくらい、ともかくお礼を言われた。

いい先生、だとは思う。
なんか、ドラマとか漫画の中に出てきそうな熱さがあった。

そんな人でも悩むことあるんだ、なんて少し失礼なことまで考えてしまった。
みえるものが、その人のすべてなはずないのに。



『友達ってね、増えないでしょ?

あっ、学生時代の友達って意味ね。

そりゃ、今のクラスじゃなくて、高校でも、大学だっていいんだけど、社会人でもね。


でも、今って”いま”しかないから、誰かとちゃんと仲よくなってくれたらってずっと心配してて。


さんが影山くんと勉強してるって聞いてうれしくて、ありがとうね』





さっきまでいた職員室を振り返る。

扉はすでに閉まっていた。

中から聞こえてくるプリンターの印刷音、きっとドアの小窓から見えるシルエットは、影山くんの副担任の先生に違いなかった。


ありがとう、か。


握られた手のひらを天井に掲げてみる。
隣の影山くんは、何をしているんだ、といった顔でこっちを見ていた。

手を下ろした。



「ねえ、影山くんの教室どこ? 行ってみたい」


「……」


「え、なに?」



また、何かやらかしたんだろうか。

じーっと顔を見られている。



「な、何か付いてる?」

「……行ってどうすんだ」

「ど、どうするって……」


今って”いま”しかないから。


「いつもどんなところで勉強してるか、気になっただけ」

「……」



とはいえ、時間も時間だ。

もうすぐ昼だし、もともとの約束は午前中だけ。

影山くんの方でバレーの練習もあるだろう。



「やっぱり、「こっちだ」


急に踵を返したかと思うと、食堂じゃない方向に進み出す。



「あの、影山くん、案内してくれるの?」

「……ああ」



でも、その声は怒っているように聞こえる。

横に並んで様子を伺うと、それが気のせいじゃないのもわかった。



「いっ、いいよ、無理しなくて」

「無理してねー」

「だって、すごく、怖い顔してる」



影山くんがピタ、と立ち止まった。



がっ」

「う、うんっ」

「……」



続きを、待った。


「……、……なんでもねえよ」

「いや、なんかあるよね!」


くるり、と身体の向きを変えてごまかそうとしたって、そんなの納得できない。

影山くんの前に回り込むと、影山くんはなんとも言えない焦ったような、怖いような、ともかく顔を引きつらせた。

怖さもあったけど、慣れである。
慣れってすごい。



「私が、なに?」

「……」

「言ってよ、気になる」

「……」

「行かせない」



影山くんが私の横をすり抜けようとしたけど、すかさず通せんぼした。

観念したらしい影山くんが、ぼそ、と呟いた。

聞こえなかった。


「ごめん、もう一回!」

が、名前」

「名前? 私の? ……私の名前はだけど」

「知ってる」

「だ、よね……」



さすがにプリントにもフルネームを書いたし、これで忘れられたら始末に負えない。

だったら、誰の名前の話を。



「あっ、飛雄!」

「!!」

「あーー、そういうこと」



やっと、意味わかった。

呼び方だ。


飛雄くんって呼ぶはずが、また影山くんに戻っていた。

先生がいる前だから、下の名前で呼ぶのは気が引けていた。

この間も言われていたのに。
うっかりしていた。

どう呼ばれようが気にしないって思って。



「そんなに、下の名前のほうがいい?」

の、好きにしたらいいだろ。
……大体、コロコロ変えんな」

「いやっ、TPOってあるし」

「なんだよ、それ」

「てぃーぴーおー! 時と場所と場合っ。

 呼び方のせいで、迷惑かけたら……」



クラスの男子に、日向くんのことでからかわれたことを思い出す。



「迷惑ってなんだ」

「例えば、誰かがなにか言ってくるかも」


今日だって金田一くんに聞かれていたら、もっと面倒なことになっていた。


「俺がそう呼べっつってんのに、他のやつのこと考える必要あんのか?」


真っ直ぐ、ストレート。

はじめて、影山くんの気持ちをちゃんとぶつけてもらった気がする。



「どうなんだよ」


「へっ」


「迷惑とかどうでもいい、はどうしたいんだ」


「……わた、しは」



こんな影山くん、見たことがなくて、あっけにとられてしまう。



「ど、どっちでもいい」


「ああ!?」


「いやだからっ、別に、影山くんでも、飛雄くんでもこだわりはなくて。

ただ、トラブルが起きない方がいいなって」


「じゃあ名前でいいだろ!!!」


「!」


「なんか、あっても、なんとかする。今日も……、……だから」


「う、うん、飛雄くん! そうしよう!ごめん、私が悪かったです!」



影山くんの眼差しは、刃物みたいだ。

言葉も、態度も、なにもかも。

ぐっさり、刺さる。


でも、なんで、呼び方にこだわりが……?

純粋な疑問、聞かずにいられなかった。

尋ねると、影山くんはまた沈黙を保った。

迷惑をかけているのは、今ここにいない空想の誰かじゃなく、自分の方だ。


「い、いいよ、もう!」


が」



影山くんが、すごく言葉を選んでいるのは伝わってきた。




「と、ともだちだって、……言ったの、だろーが。

俺だけだと、……変だろーがッ」


「そ、そうだね!」


そうかな?

疑問は浮かんでも、影山、いや飛雄くんの勢いに飲まれて頷いていた。


「わかった」


自分で言っていてよくわかっていなかったけど、ともかく、名前で呼べばいいんだということは理解した。

この妙な会話に混乱していた。



「ほっほら、飛雄くん、教室案内して。お昼も近いしさ」

「……おう」

「その、飛雄くんさ、あの」


とくに意味もなく名前を呼んでしまった。

次になんて言おうか迷って、ちゃんと言えなかったことを言おうと思った。



「何かあったときは、いっしょになんとかしよう」



なんとかするって言ってくれたけど、さ。



「友達って、そういうものだから」

「……どういうもんだ?」

「助け合うってことっ」

「?おお」


絶対、ピンときてないな。

そう思ったら、『に何が出来るんだ』と悪気もなさそうに呟いたから、さすがに肩をぺしっとはたいた。
誰にずっと勉強教わってるんだ、影山飛雄。



next.