ハニーチ

スロウ・エール 171








後ろから声がした。

私がはたいた時のまま、飛雄くんが廊下に立っていて、すぐ長い脚で追いつかれ、見下ろされた。

もう、怖くはなかった。


「なんでしょうか、飛雄くん」

「今、なんで、はたいた」


飛雄くんが、『に何ができるんだ』って言ったからです。

答えたところで、この気持ちをわかってもらえない気がしたから、話題を変えた。


「痛かったならごめん」

「痛くはねえ」

「それは、よかった」

「でも、なんでしたんだ」


食い下がらない。めずらしい。


「なんでもないよ」

「本当か?」

「ほんと」


うそ、だけど、別に知らなくていい。

そっぽを向いて廊下の窓ガラスに映る飛雄くんの様子を窺ってみると、飛雄くんは小首をかしげるだけだった。


「それよりさ、案内!」

「おお」


ゆっくりと歩き出す私たち。

廊下を擦れる靴ゴムの音。

少しだけ早く、一歩前を歩いてみる。
間違ってたら声をかけてくれるはずだ。

振り返ると目が合った。変わらない表情。

飛雄くんらしい。


友達、だからね。


きっと、必要があれば、分かり合える日が来るだろう。
それは、この話題じゃなくていいし、相手が私じゃなくてもいい。


“影山のこと、何にも知らないんだな”


どっちでもよかった。









、ここだ」


飛雄くんが教室の一つに足を踏み入れて、電気をつけた。


「お、お邪魔します」

「おぉ」


先生の許可はあっても、部外者という意識が抜けきらない。
頭ひとつ下げて一歩踏み入れたこの場所は、教室であって私の知る『教室』じゃなかった。

当たり前だ。同じ中3の教室でも、他校。
飛雄くんが私のクラスに来ても同じことになる。ううん、私だって同じ学校でもとなりのクラスに入った時はこんな気分になる。

重ねてきた時間によって、居場所が作られる。

ここが、飛雄くんがこれまで過ごしてきた場所。



「あっ!」


窓の方に思わず駆け寄った。

やっぱりそうだ。


「ねえ、ここ! この席、飛雄くんのでしょ?」


飛雄くんが『なんでわかるんだ』とまた不思議そうに呟くから、やった、と密かに両手を握った。

不本意だけど、前に来た時の金田一くんのおかげだ。

補講を受けてるっていう教室、たぶん位置的にここだと思った。

予想、当たった。


ってことは。



「あれ、部室棟だっ」


前に来た時、後輩くんに会えたのはあの辺だから、推理通りなら部室棟はそこ。

お昼のチャイムが鳴った。
北一のジャージを着ている人たちが何人か出てきた。
たぶん正解。

帰り道に通ったのが柵の向こう、となると、バレーボールが飛び出してきた体育館は、あの建物。


、なんで知ってる?」

「なにが?」

「部室棟、俺の席も」


隣に並ばれると、さすがに迫力はあるけど、なんだか今日は大丈夫だ。


「それはね、私がエスパーだからです」

「えすぱー?」


あれ、エスパーという言葉自体知らないのか。

飛雄くんならあり得る。


「えーっと、エスパーっていうのは超能力者のことで、超能力者ってわかる?」

「わかると思うか?」

「よく自信満々に言えるね」


黙ってればかっこいいのに、ほんと影山飛雄っていう人は期待を裏切らない。

烏野の試験に出てこない知識を増やしても仕方ないので、気を取り直して黒板の横にある掲示スペースに移動した。

保健だより、12月の学年便り。
季節の挨拶とともに、年明けの行事が書かれていた。

1月、2月、3月。
受験に向けての自由登校期間、卒業式の日付。

どこも、同じみたい。




「なに?」


続きが出てこない。


「え、ほんとになに? 気になるよ」


影山くんは、そばにあった机の上に腰を下ろして腕を組み、さっきの私みたくそっぽを向いた。

なんでもない、の一言。

自分がしておいてなんだけど、気になる。


「教えてよ、ねーってば」

「……」

「ねーー?」


目についた、丸く切られた画用紙、真ん中に画びょう、サインペンの文字が周囲に並ぶ。

ひとさし指を画用紙に当てた。


「教えてくんないと、この掃除当番表ぐるぐるにするよ?」


人質代わりだった。

飛雄くんはこっちを向いて目を凝らした。


「……すればいいだろ」

「したら、掃除当番わからなくなるよ?困るよ?」

「困んねーよ」

「年明けの掃除場所わからなくなってもしらないから」


えい、とばかりに1班、2班、3班と書かれた画用紙部分をくるくると宣言通りに回して見せた。

結局、飛雄くんは何を言わんとしていたかわからなかったけど、まあいいや。

何周か回してから、覚えていた通りの掃除当番の位置に戻した時、飛雄くんがそばに近寄ってきていた。

大丈夫だと示すように笑った。


「安心して、ちゃんと元に戻した」


いくらなんでも、人様の教室に勝手に潜り込んでおいて、掃除当番を本気でめちゃくちゃにする気はない。

飛雄くんの席からして、今年最後の掃除場所は昇降口だ。
今日、先生たちや在校生を避けて通ってきた道は、もしかして掃除の時間に飛雄くんが発見したんだろうか。

それにしても、この季節の外掃除は寒そうだ。

あ、でも、週明けに掃除当番表は回すって書いてあるから。


「よかったね、次は音楽室だよ」

いたらこんな感じなんだな」

「えっ、な、なにが?」


なにが、いたら、こんな感じって。

飛雄くんが見たことない柔らかな表情を見せてくれたから、言葉に詰まった。


教室の後ろの方で物音がした。

音の主は、北一の制服を着た女の子だ。きっとこのクラスの人だ。

飛雄くんもそっちを向いたせいか、その子は何故か謝罪を口にして、そそくさと教卓に近い席に駆け寄った。

びっくりさせた。
謝るならこっちの方なのに。

声をかけるべきか迷って、どうしようと目を泳がせたとき、その子は机からノートでも取り出して両腕で抱えてからこっちを向いた。


「影山くんっ。 副担がすごい喜んでたよ」


視線だけ動かして飛雄くんの横顔をみた。

眉一つ動かない。いつも通り。


「勉強がんばってるんだって、すごいじゃん!」

「……あぁ」

「これで高校生になれんね、よかったね!」


クラスメイトにまで心配される成績……。

かつて見せてもらった100点満点中の10点満点みたいな答案が思い浮かんで、そりゃそうかと呆れつつ納得した。


「青城の推薦蹴ったって時はほんと何考えてんのかと思っ……」


青城。

青葉城西高校。


空気が一瞬にして凍ったことに彼女も気づいた。



「ごっごごめん、しゃべりすぎた。も、行く。えぇっと、その、影山くんも、あの、その、よ、よいお年を!」


その子は飛雄くんと、すぐそばにいた私にも目配せしてから笑顔を作ってみせた。

飛雄くんは何も言わない。


「よいお年を!!」


教室を出る手前、咄嗟に声をかけると、緊張と反省でいっぱいの彼女の表情がやわらいだ気がした。

彼女が廊下を走っていく音が静かな校舎に響き渡った。


「……」
「……」


影山さんを、烏野に、そそのかした彼女。

後輩くんたちに食って掛かられた時のことがよぎる。

飛雄くんは何も言わないけど、本当はバレー部だけじゃなくて、この教室でも、このクラス以外でも、いろんな人たちがみえないところで影山くんを気にしていたんじゃないか。
いや、現在進行形で、きっと。


「なんだ?」


だから、なんだって訳じゃない。


「……なんでもない」

「?」

「ありがと、教室みせてくれて」

「おう」


お昼を食べよう。悩むのも進むのも、なんにしたってエネルギーを補給してからだ。



next.