ハニーチ

スロウ・エール 173




コンクリートを蹴飛ばし、通学路の文字が貼られた電信柱のよこを通り過ぎる。

必死に足を動かし、今朝歩いた道を進む。


年末のぎゅっと身体を凍らせるような空気を突っ切っていく。
身体の内側がどんどん熱くなる。

沸騰する。


ふるえる。


震えている。


奥底で、わき腹を揺らす、バイブ音。


カバンの中の携帯電話。



『 今さっ、

  声、聞きたいって思わなかったっ? 』



全力疾走の後、思考停止。

もしもし、の言葉すら出てこない。


着信は日向くんからだ。

日向くんが返事を待たずに続けた。



『って、おれが、さんと話したくなったんだけどさ。

『にーちゃん、と話してるーー!』

夏っ、コラ、今は兄ちゃんが話してるんです!

ごめん、昨日、さんと会ったって夏に話したらさっ。 さん? 聞こえる?』

「ご、ごめん、音が途切れて、いま外で」


電波のせいにした。

乗用車が一台、歩行者に構わない速度ですぐ横を通り過ぎた。


『そっか、切った方がいい?』

「ううんっ、少しくらい平気」


ゆっくりと、歩き出す、朝通ってきた道を、なんでもなかったように。

電話越しに話すたび、言葉とともに、内側の温度も出ていき溶けていく。

にぶい色の空、電線がいくつも遮って、カラスが飛び立った。


『そんでさっ、さんに電話かけてみたっ。えらい?』

「うん、がんばったね」

『へへっ』

「じゃあ、これから残りの科目やるんだ」

『そう!! 眠気に負けそうだったけど、さんと話せたから元気出たっ』


日向くんが明るく声をはずませた。


「……私も、冬講習、これからで。

日向くんのおかげで頑張れそう」



一度だけ振り返ってみたけど、北川第一の校舎はずっと遠かった。



さん、塾だ。かっけえ!』


「ふつうだよ、でも」


『でも?』



この気持ちは、どこから来るんだろう。


心って不思議だ。

極端に重くなって、いま、また軽い。



「受験生だし、ふつうのことだけど。

 ……塾、がんばったら、今度は、私から」


『いいよ!!!』



何をする、とまではっきり伝えてないのに、確認するまでもなく、日向くんは言い切った。

日向くんらしくて、つい笑ってしまった。


「まだ、全部言ってないよ」

『電話かなって。ちがった?』

「ちがわない」

『ほらっ』


冬の晴れ間みたいな快活さが、電話越しでも伝わった。


『電話いい……、さんだったら、いつでも、いい。 待ってる』


「うん」


待ってて。

私がちゃんと、がんばれるように。


道路わきに駐車してあったタクシーのそばを通ると、窓ガラスに自分が映った。

いつも通りの、何の変哲もない中学生がいた。



「じゃあ、また後で。


いっしょに?


 いいよ、せーの、で。


せー、の!」



通話ボタンを押して、映し出される通話時間。

思っていたより少ししか話してなかったんだと、携帯電話を握りしめた。

くすんで重たい空、鬱々として、これからもっと冷え込みそう。
太陽が恋しい。暖房の効いている部屋に駆け込みたい。

カバンのなかに携帯をしまって、今度は手鏡を取り出した。

目元、よし。
前髪は、ちょっとだけ直して、よし。

もう、大丈夫。

だいじょうぶだ。


まだ、鼓動が早い気もする。緊張が解け切らない。

足を動かす。

振り返りも反省も、あとでぜんぶ、いくらでもやろう。














ちゃん、こっちの講習とってたっけ?」

「ううん、ちょっと人探してて」


……いた。

塾の講習が始まる前、扉の開いている教室を一つずつ覗くと、目当ての人物を発見した。

顔見知りの子には短く挨拶して分かれ、会いたかったその人に近づくと、すぐそばにいた彼も視線を上げた。
目は口ほどに物を言う、と聞くけれど、用事があるんだから仕方ない。

こっちに気づいているくせに、わざと無視する態度にかまわず、笑顔を作って話に割って入った。


「山口くん、いまいい? 月島くん、ごめんね」


月島君からは棒読みの了承がかえってきたけど、笑顔は保った。


さん。どうしたの?」

「これ」


差し出したのは、お気に入りのお店の焼き菓子だ。

ちょっと特別な贈り物は、透明な袋の中でもつやつやと光って見えた。


「お菓子? ななんで」

「こないだ、一緒に来てもらったから、そのお礼」


クリスマスの日に着る服を選ぶのに付き合ってもらったことを暗に伝えると、山口くんは照れた様子で、そわそわと頭をかいた。


「いいのに」


もう一度念押すと、お礼と共にちゃんと受け取ってもらえた。よかった。

大したものじゃない、と私が言うのは変だけど、自分がもらってうれしいもののつもりだ。


「いやっ、えっと……、上手くいった?」

「うん、プレゼントも用意した。喜んでもらえた」

「よかった。 あ、あのさ、ツッキー、さんが」

「僕は興味ないので」


清々しいくらいの態度、久しぶりに顔を合わせるけど、ほんっとに変わってない。

そうだ。


「よかったら、月島くんもどーぞ」


自分のおやつ用にいくつか持ってきている焼き菓子の一つを取り出した。

同じお店のもので、山口くんのとは違う種類だけど、こっちも胸を張ってプレゼントできる。
ソッコーで断られる準備はできていた。

……。

あれ、おかしい、あの月島くんの視線が、手にのっけたお菓子に注がれている。

お菓子が運ばれていく、月島くんの元に。

月島君の手によって。

うそ、だ。


「……ドーモ」

「ど、いたしまして」


月島くんが、私からのお菓子を受け取るなんてことがあるのか。

あの、月島くんが!


さん?」

「!ご、ごめん、ちょっと、あの、うんっ」


びっくりしてた、とはさすがに言えなかったが、なんだか挙動不審になっていた。

山口くんがちょっとだけ噴き出した。


「なに?」

「あ、や、さん元気だなって」

「……」


なにか言わなきゃ、そう思う前に思考が止まっていた。


「俺、なんか変なこと言った?」

「ぜ、ぜんぜんっ、じゃあ、ほんとありがと!」


もう講習も始まるし、山口くんにお礼もできたし、そそくさと教室を後にする。

さん、元気なんだ。そっか。

山口くんの言葉を復唱してしまった。

自分の講習を受ける教室に移動していると、向こうから、また知り合いの子が入ってきた。
今度は自分から話しかけた。
彼女は山口くんたちと同じ講習を受けるらしい。

さあ、そろそろ本当に行かないと。

手を振った時だった。


ちゃん、いいことあった?」


聞き返した自分の声が、裏返っていた。

友達は笑った。


「なんか、楽しそうっ」


返事を待たずに教室の扉に手をかける彼女を見送って、自分のほっぺたに手を当てた。

わたし、いま、げんきなんだ。


そっか。


見えているものがすべてじゃないけど、他の人にとっては、その事実が私のすべてだ。


“あんなの、ひどすぎる”


言葉の断片が浮かんで、胸の中でじんわり広がって、そのまま時間をかけて沈殿していった。
揺さぶればいくらでも浮かび上がる想い。

ふ、と、天井の空調が、気合いの入った音を立てて温風を当ててきた。

せっかく前髪、整えたのに。そう思いつつ、また歩き出した。









年内最後の冬講習とあって、受験生に向けた熱いエールを含んだ内容は、とても有意義で、頭をヒートアップさせるには十分だった。
教室も暖かな空気で満たされて、物理的にもぽかぽかすぎて、意識がぼんやりする。

がんばった、自分、えらい。


ちゃん、よいお年をー」
「またねー」

「二人とも、よいお年を」


開かれた教室の扉から、するりと冷たい空気が流れ込む。

使ったテキストとノート、それに文房具もまとめてカバンに入れる。

まだ終わってないけど、長い一日だった。


、帰る前に講師室な。解説のコピー渡すよ」

「あ、いま行きます!」


ちゃんと、受験生してる。

そんな自分に感心しつつ、塾の先生からプリントを受け取った時点で、やっぱり今日はもうおしまいにしたくなった。

だめだめ、ちゃんと復習して、白鳥沢……


『 はなんで白鳥沢受けるんだ? 』


塾のビルを出た瞬間、飛び込んでくる冬の夜。
同じ色の髪の飛雄くんの一言がよみがえった。

なんでだろうね。


なんで。



さんっ!」


夢かと思った。

日向くんが自転車をガードレールに寄りかからせて、真っ直ぐに近づいてきた。

夜だけど白昼夢かとも思った。
瞬きしても、ちゃんと現実だった。


「きたっ!」


next.