ハニーチ

スロウ・エール 174




高らかに『きた』と宣言する日向くんを前に、やっぱり勉強しすぎて、幻を見ている気がした。

でも、違う。

日向くんがちゃんと立っている。

今日は制服じゃなかった。

私が制服で、日向くんが私服。
見慣れたマフラーをきちんと頭の後ろで結んでいた。


「なんで、いるの?」

さん、塾っていってたから」

「でも」


だからって、ここにいる理由にならない。

日向くんの家からここまで少しも近くない。

塾のこともちゃんと話したことないし、ああ、ダメだ、頭が全然回ってない。

回ってないなりに、ひとつ気づいた。



「もしかしてずっとここにいた!?」

「そうだけど」

「寒かったよね、連絡くれたらよかったのに」


こんなことなら講師の先生からプリントをもらったとき、さっさと出ればよかった。

つい、いくつか質問して、外に出るころには、他の人たちはみんな帰っていた。

もし風邪でも引かせちゃったら、「!!」


「びっくりした?」

「……した」


日向くんがしたり顔で、何かを私の頬から離して、手に握らせてくれた。

あったかい。


「秘密兵器あるから、だいじょーぶ!」

「ひみつ、へーき……」


握らせてもらったホッカイロ。

両手で包むと、この気温をなんとかするべく熱を発していた。


「日向くん、手貸して」

さん? へ!?」


ぽかん、と訳が分かっていない日向くんの右手をホッカイロと一緒に握ると、やっぱり予想していた通りだった。


「冷たいよ。秘密兵器、効果ない」

「こっこれは、その、ポケットに入れ忘れてて、左はちゃんとあったかいよ」

「どのくらい待ってた?」

「そ、そんな待ってない」


日向くんはバツの悪そうに顔をそらしたけど、この手の冷え方、ぜったい少しじゃないのは明白だ。
たとえちょっとの時間でも、この寒空の下で待ってたら風邪ひく。


「会いたかったから」


なされるがままだった日向くんの右手が、ぎゅ っと私の手を握り返した。


さんに、会いたかった。

年賀状……出さなきゃいけないのあったし、前にこのビルだって聞いたことあったから。
講習あるなら、この時間だって。

声、きいたら、もう、とまんなかった。

 ……ごめん」


ご、めん。

日向くんと私、それぞれの手に挟まって、ホッカイロがぽかぽかと指先を温め続けていた。


さん、怒ってる?」

「怒ってはない、……心配、してる」


日向くんが、私のせいで風邪引いたらって。

それだけじゃない。


「びっくりも、した」

「ごっごめん!」

「ううん……」


違う、そうじゃない。

困ってるんでも、怒ってるんでもなくて。


ぎゅ、と手を握って、ゆっくり降ろした。

いつもより近くで、日向くんを見つめる。

昨日の続きみたいだった。


「日向くん……、

 今日、電話した時の私、どう思った?」


ばれてしまったんだろうか。

隠していたこと、見透かされて。


さん元気だなって”

“なんか、楽しそうっ”


誰にも気づかれてないと思っていた、無意識に、胸の奥にしまい込んだこと。

引っかかり続ける何か。

自分から出てきたことなのに、いつまでも心の一部に溶け切らない違和感。


かっこのつかない、自分。

日向くんに、全部。



「か、かわいいって思ったっ」



勉強漬けの頭が、すぐに動いてくれなかった。


さん、電話の時ちょっとだけ声高くなるからっ。

いや、しゃべってて低いわけじゃないんだけど、今日は、いつもより高くて、その感じも、おれ、すきでっ。

電話待ってようって思ったんだけど、勉強してても、外出ても、やっぱり気になってさ。
ちょーど年賀状あるって聞いたから、自転車で来た。

だからっ、

さんすきだっ」


強い語調で言い切られて、じっと日向くんの瞳を見つめてしまった。

まじりっけなしの、スキ。

日向くんの方が恥ずかしそうにまたそっぽを向いた。


「つっつい、すきって!」


今も言ってる、けど、そうはツッコめなかった。

代わりに、日向くんの右手があったまるように、その手の甲をやさしく撫でてみた。
この気恥ずかしさも、熱になって温められたらいいのに。


「あっ、ありがと。来てくれて、うれしい」

「お……怒ってない?」

「怒ってはない、風邪引かないかなって、ほら、去年」

「そっか、さん熱出たもんな。

 あ、おれよりさんのほうが心配! ホッカイロあげるっ」

「待ってっ、これ、日向くんのっ」

「もういっこあるっ、ちゃんと使うっ、さん心配させないからっ」


急に手を振りほどかれて、ぽつん、と置いてけぼりになった心地がした。

日向くんは寄りかからせた自転車に駆け寄って、どこからかパッケージに入ったままのホッカイロを取り出し、ほらっ、て掲げた。
すぐに包装をやぶいて、中身を振った。


さん?」


ごちゃごちゃと、感情が入り混じる。

もっと、真っ直ぐに、ストレートに迷いなく、私も、日向くんみたいに、ちゃんと。


さん、手っ!」


自転車のスタンドを蹴っ飛ばし、もうまたがるかと思っていた日向くんが片手を差し伸べてくれた。


「手……?」

「もっかい! ちゃんとつなごうっ。

 いつものところまで送る」


いつものところ、というのはバス停、までは理解できた。


「いや、日向くん自転車が」

「片手で押すっ」

「それ、けっこうきついと思、う」


躊躇う私にかまわず、日向くんが自転車を押しながら近づいてきて、そのまま私の右手をつかみ取った。

温度差、日向くんの指先は冷たかった。

少しでも温もりを分けたくて力をこめると、日向くんが顔を綻ばせた。


「行こっ」

「う、ん……」


ビルの入り口から誰か出てきたけど、塾のひとではなかった。



「日向くんさ」

「なにっ?」

「こんな遅くに家出てきて、家の人、大丈夫?」

「年賀状出すって言ってあるっ、近くにあるポストは朝しか取りに来ないから」

「そっかぁ」


そういえば、郵便局も近かったっけ、と納得しかけたところで、浮かぶ疑問。


「いまの時間に出しても、明日の朝でも変わらないんじゃ」


考えてみれば、年末年始のこの季節、郵便物の収集の時間も限られている。

日向くんがわざわざ自転車に乗って持ってきたところで、届く日数に変わりがあるとは思えない。

そのまま口にして様子を窺うと、日向くんがぎくりと一瞬だけ肩を揺らした。


さん、するどい」

「日向くん、無茶する……」


バスを使っても、なかなか大変な道のりであることは、日向くんの家に行った経験からわかっていた。


「鍛えたかったのもあるっ」


もう十分すごいのに。

そう思ったのがわかっているのか、日向くんは楽しそうに続けた。


「ほら、来年の春から烏野だから、そしたら、やっとバレーできるっ。ひとりじゃないから、いっぱい、バレーやれる、その前にできることやろうって」


それで、鍛える、つまり体力をつけるために自転車で家からここまで。


「今日は学校行ってないし、余裕だっ」

「すごいね」

「過去問やるよりはっ、あ、でもちゃんと言ってた分はやった!」


あんまりにも得意げに言うから褒め言葉を重ねると、日向くんがますます嬉しそうに続けた。


「打倒王様だからさ!

“勝つ”ためにやれることやるって決めたっ」


不意打ちの単語、ここで出会うとは思わなかった。

繋ぐ指から力が抜けかけた。

日向くんがしっかり握っていてくれた。



「そしたらさっ、いっぱい試合できる……、

 コートに立っていられる。

 さんにも、見ててもらえるっ」



日向くんの熱が、指先から伝わってくる。



「楽しみなんだ、すごく!!!」



おひさまに照らされた心地がした。


さん、ど、どうかした?」

「あ、ごめん」


つい、引き寄せていた。

前を見据える日向くんの横顔、いつもなら眺めていられるだけで十分なのに、昨日のこともあって物足らなかったみたい。


「ごめん、ちょっと、よくばりに」

さん、待ってて」


日向くんが手を離し、自転車を停めた。

その一連の所作が流れるようにスムーズで、抱きしめられるまで見入っていた。


「えっ、な、どっ」


なんで、どうしたの。

言葉全部が突っかかる。


「こうしたくて、たまんなくなった」


バス停まで、もうちょっと。

日向君の肩越しに見える景色、なんにも入ってこない。

落ちつかない。
ドキドキする。
くすぐったい。
はずかしい。

出来るならもうちょっとこのままでいたい。

ぜんぶ見透かされている心地がして、日向くんに、ほんの少しだけ寄りかかった。

日向くんの肩にきっと力が入った。


next.