ハニーチ

スロウ・エール 175




さん」


日向くんにもたれかかった時間、数コンマ。

かすれた低音。

気持ちが切り替わる。

身体を離そうとすると察してくれたのか、日向くんの腕の力がゆるまり、自然と向き合うかたちになった。

この距離間にときめくより、暗がりでも日向くんがちゃんと見えることにほっとした。


「日向くん、ありがと」


いつも真っ直ぐに見つめてくれる日向くんにならって告げると、日向くんが顔をそらした。


「な! んで、お礼……」

「元気もらったから」

「そう?」

「そうっ」

「そ、……そっか、それならよかった! あ、でもさっ」


勢いよく視線がぶつかる。火花が散りそうだ。


「おれもさんから元気もらったからっ。

 元気っ つーか、なんだろ。

 もやもや?」



元気とは真逆の言葉に一緒に小首をかしげると、日向くんが腕を組んだ。



「難しいな。もやもやじゃなくって」

「私、マイナス要素なんじゃ」

「それはないっ!」

「けど、もやもやって」

「もやもやは、さ! こう、さんにさわってると、あ、でも触ってなくても、近いと、なんつか、こう、もやーってして」


離れてても、消えなくて。

声が聞こえたら、しゅんってなって、代わりに、ぶわって広がって、ぐわって、どうにもなんなくなって。


「会ったらさ、こぅ……なるから」


日向くんは口を挟む間もなく、けれど、なんとか教えてくれようと、たくさん言葉を選んでくれて、最後はしぼんでいった。


「“こう”って、どんな?」


無意識に自分の胸元あたりに片手を当てていた。

“この”感じだろうか。

抱きしめられた時の感覚を思い返す。

いろんな気持ちがこみ上げて、結局、ただ、ぜんぶ日向くんでいっぱいになる感じ。



「日向くん、もう一回……」



今みたく、と言いかけて、日向くんと目が合って、やめた。

伸ばしかけた手を引っ込めた。


「もういっかい、なに?」

「な、なんでもない! その、日向くんのいう『もやもや』、いい意味、だよね?」

「うん」

「そうならよかったなって」


私が元気をもらえたのに、日向くんがそうじゃなかったら意味がない。

だから、これでよかった。

まくし立てるように言葉を並べ、お話のラストを飾るように『よかった』と繰り返すと、日向くんも納得してくれたかはわからないけど頷いてはくれた。


「ほら、帰ろっ」


日向くんの背中を押して自転車の方へと向かわせる。


「帰って、ちゃんとあったかくしなきゃ」

「受験生、だもんな」


言おうと思っていたことを先回りされて、少し驚きつつ、日向くんから手を離した。


「そうだよ、私たち3年生だから」


浮ついてちゃいけない。

受験のことだけ考える。

将来の自分のために、今は頑張る時で。


「でも、会うよ、おれ」


きっと、まぬけな声が出てた。


さんに会いたいって思ったら、カンケーないっ!」


「……」


「そりゃっ、さんの勉強は邪魔しないし、おれだってちゃんとベンキョーするっ、けど!

会えるのに、会わないのは、イヤだ。

無理はっ、させらんないけど、ここ来れば会えるなら来る。

その分、やんなきゃいけないことはやる。

でもっ、会おうとすんの、やめない。

会えるかもってだけで、うれしい……から」


「……わたしも」


そう、思えるだけで、うれしい。

噛みしめた独り言は、日向くんに届いていた。


「ほんとっ!? そうならさ、それだけで……あっ、ちゃんと受験ベンキョーするよっ。
さんと一緒に高校生やりたいし、烏野でバレーするっ」

「そうだね、バレー……」


私も、日向くんのバレー、見ていたい。

思わず零してしまったくしゃみがきっかけで、バス停までの、ほんのわずかな道のりを二人でまた歩きだした。

日向くんは片手を私とつないで、もう片方だけで自転車を押した。

危ないよ。
そう言っても、日向くんは手を離さない。

慣れると簡単だよ、そう日向くんが言ったとき、ガードレールに車輪をぶつけた。

ほら、やっぱり。



「すげぇ、笑われた……」

「ごめん」

「いいよっ、さんが笑ってくれんのうれしい」


そう言って笑ってくれる日向くんがいてくれる。
同じ気持ちだった。


「日向くんがうれしいなら」

「ん?」

「いつも笑ってる」


なんて、ちょっと自惚れが過ぎたかな。

日向くんの横顔を観察するよりさきに、指先が答えを知った。


「うれしい!!」


断言、力強い感触。

たった一人、そんな風に自分を想ってくれる人がいてくれる。


今日のごちゃごちゃ全部、緊張がとける。
力が抜ける。



「日向くんは……、すごいね」




今って”いま”しかないから



やり直せないのが怖くて、がんばるしかなくて、苦しくて、ほんのちょっとのことが希望になる。

やりたいことやった方がいいって、人に言ってる場合じゃない。

日向くんって、ほんとうに、すごい。




「な、なんか、ほめられているっ、あ!!」


車輪、2度目のガードレールとの衝突。

なんだか気持ちがぽかぽかして楽しくなって、時間にしてみればあんまり経っていないけど、それ以上に心が軽くなっていた。

バスが来るまで、日向くんもいてくれた。


「日向くん、日向くん」

「ん!?」

「オリオン座」


指差した先でまたたく、夜空のリボン。


「ほんとだっ、こっから見えたんだ」

「ね、今まで気づかなかったね」


いつもはきっと、空を見上げる間もないくらい、ずっとしゃべってるから。
今夜はちょっとだけ遠くを見上げたくなった。

そんな不確かな理由は、口にしなかった。

バスに乗り込むとき、またねと挨拶すると、『いつ会う!?』って返されたからやっぱり笑ってしまった。
またメールするって手を振った。

空いている席に座って、カバンから講習の日程を取り出して眺める。


塾で言われた、試験日まであと何日。

影山くんと眺めた卒業式までのスケジュール。

勉強、勉強、勉強。


第一志望、第二志望、第三志望、すべり止め。


バレー。


目を閉じて、バスに揺られて、携帯をまた開いて文字を打ち始めた。


『もう家かな?会うんなら、』


カーソルが点滅するのを眺めながら、文字を消して、この日なら会えるから会いたい、と一気に書いて送信した。


“動きなよ”


後輩くんにぶつけてしまった言葉は、ほんとうは自分に一番言いたかったことだ。

過去には戻れない。
もどれないんだ。


家に着くまで、反省と後悔はたくさん、たくさん浮かんだ。
それでも、やりたいと思ったことをやるんだと打ち消した。


『いいよ!!!』


日向くんの返信にひとり笑って、元気をもらって。

いいよ、だけじゃ、どの日に会えるかわかんないよってまた返事して。


会える可能性に希望をもち、やる気のなかった塾のテキストを家に帰ったら真っ先に開いた。

いま、自分にできる一歩目。











翌日、しっかりと過去問に集中した。

影山くんからメールが来て、相変わらず理解力の必要とする簡易な文面に困惑した。
想像力を働かせて返信した後、『わかった』と返ってきた。
本当にわかったのかは不明だが、その後、返事はなかった。

日向くんからもメールが来た。
会える日をいつにするかの話を何度かやりとりしていたら、結局、電話がかかってきた。
お互いに予定が合わなくて、年明けに会うことにした。

たぶん、二人とも声が浮かれていたと思う。


『じゃあ、来年会うときまでお互いがんばろ!』

さん待った!』


何か決め忘れたことあったっけ、とすぐ頭の中を整理したら、日向くんが続けた。

電話なら明日も会えるんじゃ、という話だった。


さん、もしかして、いま聞こえなかった?』

『ううん……、ちゃんと、聞こえてる』

『イヤだった?』

『そうじゃ、なくて』


うれしくて固まってたとは説明しづらく、さらに無言の時間を増やしてしまった。

結局、夜に少しだけ電話することになった。

少しだけ、すこしだけだから。

誰に言い訳するともなしに、何度もその言葉を繰り返した。その分、難問だってがんばれた。

無理だろうなって思える計画も少しずつ、すこしずつ進めてみた。


そうこうするうちに、12月31日が近づいてきた。

前日の30日の夜、日向くんと話した。


『明日は電話はやめとこう』

『なんで?』

『電波つながりにくいと思う』


メールもたぶん届くのに時間がかかる。

部屋にある時計を眺めながら、賑やかになる年越しを想像した。

どっちにしろ、お互い家族と過ごすから、そんなに時間とれないだろう。


『じゃあさ、年変わる瞬間にジャンプしない?』

『えっ、ジャンプ?』


日向くんの提案に思わず聞き返すと、0時をまたぐ瞬間にジャンプすれば年越しを地球で過ごさないことになる、と力説された。


『意味分かった!?』

『わ、わかった』


わかんないけど、説明してくれた内容は理解できた。やる理由はわかってない。


『日向くん、0時まで起きてられる?』

『たぶんっ、さんは?』


同じく、たぶん起きてられる、と思う。

明日の自分が眠くて仕方なかったらわからないと答えると、電話越しで日向くんが吹き出した。


『じゃあさ、起きてたら一緒に飛ぼう、0時ちょうど!』


何が面白いかわからないけど、わくわくしたから頷いた。


『いいよ、起きてたら』

『起きてたら! 年明けに答え合わせしよう』

『答え合わせ?なんの?』

さんはおれが起きてられたか、おれはさんが起きてられたかっ』


お互いがお互いのことを予想し合うのか、なるほど。

……なるほど?


『それ、確かめる方法ある?』

『おれはさんに嘘つかないっ』


日向くんの声が元気よく弾んだ。


『わ、たしも、日向くんに嘘ついたことない』

『ほら、答え合わせばっちりだっ』


たしかに、そうだ。

二人が嘘をつかなければ、正しく答え合わせが出来る。

ふと続く疑問。


『正解したら何かいいことあるの?』


その逆もしかり、日向くんが正解したら何かした方がいいんだろうか。


『それは……』


日向くんが言いかけたところで携帯の電池が切れてしまった。
充電の時間も長くなってきたし、そろそろ新しい機種にした方がいいかも。

日向くんにお詫びのメールをして、お互いにまた電話するチャンスはこなかった。


12月31日。

いつもと同じような、違うような、バタバタと忙しく、ふとした瞬間に静まってまた慌ただしくなる今年の終わりを過ごした。

時計の針は12時に近づく。

0時、誰もいない部屋でジャンプして新年を迎えた。

日向くんはどうしてるだろう。



next.