ハニーチ

スロウ・エール 177





遠方から来ていた人がそろそろ、と帰ったり、遅れてやってくる人がいたり。

その場の顔触れは入れ替わりつつ、お祝いの席は続いた。

向こうでまだ祖父がお酒の入ったグラスを片手に笑っている。
体に障るから、と反対されても、お正月を理由に上手いこと丸めこんでいたのは、さすが年の功というべきか。

感心しつつ眺めていると、祖父と目が合った。

手招きされたからそばに移動すると、流しっぱなしのテレビを祖父は指差した。


「よく見とけ」

「うん」


新春なんとかスポーツ選手権、という特別番組だ。

こんなの見るなんて珍しいと思っていたけど、派手すぎるテロップで気づかなかったが、有名なバレーボール選手がサーブを打つところだった。

確か、引退している人だ。

やっぱりそうだ。

アナウンサーの人が、他人の耳にどすどす無断で上がり込んでくるようなテンションで選手の説明をしていた。


「カメラが悪いな」

「え?」

「こっからならまだ」


祖父がぽつりぽつりと感想をこぼす。
映像のアングルに文句を言っていたようだ。

たぶん酔っ払っている。

私に解説したいわけじゃなく、誰でもいいから話し相手にしたかったんだろう。
いい子らしく正座していた足を崩した。

さあ、どうなる!?

サーブを打つ直前の静寂さとは異なるアナウンサーのひと声を合図にすることもなく、テレビの中の人物は己のタイミングでバレーボールを放って床を蹴り、向こうのコートにサーブを決めた。

わっと歓声が上がり、何かの点数が追加されていた。

画面は、今放たれたジャンプサーブのスローモーション映像に切り替わる。


「きれいだね」


呟くと、祖父はこっちを向いた。


「この人のサーブ、なんだかきれい」


直近出会ったなかでは、やっぱり飛雄くんのジャンプサーブが思い浮かんだ。

同じとは言わないけれど、何回か練習に付き合うたびに、あのサーブも一連の動きが流れるようでいつまでも見ていられた。

北一での出来事がまた浮かんでくる。


「ある一定のところまでいくと」

「え?」

「人ってのはよくわからなくても、すごいってことだけは理解できるモンだ」


一流の選手は分野問わずに美しさを伴うとは、どこかのドキュメンタリーでも聞いた。

あれ。


「おじいちゃん、少しは私、バレーのことわかってるつもりだけど」


祖父は、透明な液体を口元に運んで答えなかった。上機嫌だった。


「引退して腕が鈍ってると思ったが、そうでもなかったか」

「知り合い? ねえ、この人、おじいちゃんの知ってる人?」


するりとこちらの疑問を避けていってしまうところが、猫みたいだと思った。

祖父は意味ありげに、いや自分だけが知っているという風に微笑んで、いつの間にか空っぽにしたグラスを片手に行ってしまった。

すぐそこにいた従兄の肩を叩いて、この選手の人わかる?って聞いてみたけど、テレビは全然バレーと関係ないCMに切り替わっていた。

ちゃんと名前だけでも覚えておけばよかった。


「サッカー選手だろ、ワールドカップに出てた」

「違うよ」


知りたかったのは、この人じゃない。

テレビ画面は、外国のどこかを走り抜ける自動車から、スポーツ選手らしい爽やかな男の人がカレーを食べるコマーシャルに変わっていた。


「そうだ、けーちゃん、あのさ」

「んー?」

「……」


よくよく見れば、従兄は台所で話した時よりずっと顔が赤くなっている。

空っぽの缶と瓶、一人ではないにせよ、それでも数がある。


「けーちゃん、飲みすぎ」

「どこがだよ、まだ、ぜんっぜんだ」

「……ろれつが回ってないって、こういう人を言うんだ」


はじめて、実際に目の当たりにした。


、話、まだ途中だろ」

「ううん、やっぱりやめた」

「気になんだろ」

「また今度でも」


言いかけたけど、締め切りがもう迫っていたことを思い出した。

仕方ない。

鞄から用紙とボールペンを取り出して、テーブルに広がる宴会の痕跡をどかし、プリントが濡れてしまわないように台ふきを滑らせた。

これでよし。


「ここにサインして」

「あー、いいぜ、サインな。


 ……サイン?」


ちらっと母親の居場所を確認し、この場にいないことを改めてチェックした。

従兄の手にボールペンを握らせる。


「けーちゃん、早く」

「待て、待て、待て」

「借金の連帯保証人とかじゃないから安心して」

「当たり前だっ、これ、

「そう」


体育館の使用許可申請書だ。

3月末になくなっちゃう、あの最後の試合をやった体育館。



「2月14日のこの時間しか空いてなかったの。大人のサインがいるから、けーちゃんよろしくっ」


早口で言い切ったのに、反比例して従兄の動きは止まってしまった。












「それで、昨日の電話に繋がるって訳ね。理解した」


嶋田さんは笑って、荷物を置いた。

新春モードの午後、お店の中は年末の時よりずっと静かだったが、いくら嶋田さんにいいと言われても恐縮してしまう。


「あ、あの、忙しいなら」

「いや、ちゃん来るのも聞いてたからだいじょーぶ。待ってて」


外にいようとしたら、嶋田さんが寒いから中にいなと一言くれた。
お言葉に甘えて中で待つことにする。

今日は町内会チームのバレーの日だから、このまま従兄のいる坂ノ下商店に一緒に向かう予定だ。


「お待たせ、行こっか」

「はい!」


ばっちり防寒装備した嶋田さんでも外に一歩踏み出した途端、大きなくしゃみをした。

寒いですねとお互いに言い合った。

嶋田さんがポケットに手を入れ、雲が厚く広がる空を見上げた。


「受験どう?」

「ぼ、ぼちぼちです」

「ぼちぼちか。 別に用紙出すだけなんだし、ちゃん来なくてよかったんじゃない?」


ああ、来るなって意味じゃないよ。

嶋田さんは優しい声色で続けた。


「受験で忙しい時期だから手ぇ抜けるところは抜いたほうがいいと思って」

「反対側のコート使ってる先生にも挨拶したかったので」

「ああ」

「嶋田さんにも」


従兄は14日は予定が合って名前は使えないと言われてしまい、代わりに嶋田さんにお願いすることになった。

当日は本人がいなくてもごまかせるからサインしてと主張しても、従兄は一歩も譲ってくれなかった。

いきなり新年の挨拶も抜きに、嶋田さんもこんな話をされてさぞ驚いたろう。
従兄と電話で話す内容は聞こえてなかったが、そんな想像は容易にできた。

だからこそ、目を見て直接お礼を言いたかった。

隣に向き直って勢いよく頭を下げた。


「本当にありがとうございます!!」

「いっ、いいって! 俺じゃなくて「けーちゃんにも言いました、お礼!」


昨日はサインの後も、けっこうな騒動になった。

端的に言えば、親にも体育館でバレーする計画がばれてしまい、受験生が何をやっているんだとそこそこ揉める羽目になった。

従兄が間に入ってくれなきゃ、せっかくの新年の楽しさも台無しだったのは間違いない。
試験の日程を考えればバレーをやっている場合じゃないのはわかる。

だから全部ないしょで進めるつもりだった。


「それはなー、ちゃんまだ子どもだから」


昨日、何度も何回も聞かされた事実。

嶋田さんが信号機のそばのボタンを押してくれた。


「もう中学も卒業するのに」


呟くと笑われてしまった。

青信号に切り替わると同時、いっしょに一歩を踏み出した。


「早く大人になって、

 迷惑かけなくてすむようになりたいです」


親にも、従兄にも、バレーの先生にも、ここにいる嶋田さんだって。

バレーをするための場所を借りるだけで、こんなに大ごとになる。


ただの思いつき一つのせいで。



ちゃん、ほらっ」

「わっ」

「ナイスキャッチ!」


嶋田さんからいきなり投げ渡されたのは、バレーボールだった。

いつも練習で使っているもの、使い込まれてるからすぐわかる。練習用の荷物に入れてあったんだろう。


「こっち、パスっ」

「は、はい!」


言われるがままボールを返すと、嶋田さんは歩きながら真上にまたボールを放り投げてはキャッチしていた。


「俺はさ、

 ちゃんが、また
 
 バレーしたいって思って、
 
 そのっ、手伝いできて、
 
 うれしいっ、よ、と!!」



あっぶね、と短く呟いて、嶋田さんはコンクリートの上を転がるバレーボールを追っかけ拾い上げた。

電信柱まで走った嶋田さんが私を振り返った。


「毎年イヤでも大人になるんだからさ。

 焦んない、あせんない。
 
 ほら、行こうっ」


私が来るのを待っていてくれる嶋田さん。

走って追いついて、また隣に並んで歩き出した。




next.