ハニーチ

スロウ・エール 178



「そういえばさ、舞ちゃん?
 あれから見かけなかったよ」


嶋田さんはボールをひょいっと宙に上げてキャッチした。

見かけたら、ちゃんの連絡先教えようと思ってたのに。

そう付け加えて、嶋田さんの手からバレーボールがもう一度空高く上がった。

舞の名前を出されると緊張するのはもう癖に近い。
相手が怖いからじゃなく、“ちゃんとしなくちゃ”っていうかつての気合い?気負い?がよみがえるから。

ちゃんとしたトスを、心から丁寧に、自分の持てる精一杯の力で差し出す。

無意識に無条件にこなしていたことを、今になって自覚する。

夢中だった。



「あ、もしかして年賀状来たりした?」

「いえっ、その、引っ越したみたいで」

「そっかー、確か、おばあちゃんが入院してたんだよな」

「えっ」

「知らなかった? 俺も詳しい事情は聞いてないけど同じ病院だったと思う」


それは、今年、いや去年祖父が倒れて運ばれた病院と同じという意味だった。

色んな人たちのさまざまな時間が交錯した夏は、この冷たい冬道で思い出すのは少し難しかった。

さすがに冷えてきた指先を合わせて息を吹きかけていると、向こうにいつものお店が見えてきた。


「お、来たか」

「よっ、今年もよろしく」


嶋田さんが、店の前に停まる車に何かを運び入れていた従兄に手を振り返した。

従兄はいつも通りの風貌に、クリスマスの日に貸してくれたマフラーを首に巻いていた。


、ちゃんとお礼言ったのか?」

「言った!」

「俺とちゃんの仲だぞ? 礼なんてなくたって」

「どんな仲だよ」


「けーちゃん、なんか運ぶの手伝う?」

「いい、これで終わりだ」


いくつかの荷物の上にシューズ袋を置いて、空いたスペースを従兄が指さした。


、後ろな」

「はーい」


言われるがまま、いつもより大きめのワゴンに乗り込んで、助手席に嶋田さん、運転席に従兄が座って出発だ。

道中、今日は誰が参加できるかどうかや練習内容に関する会話をBGMに、ちゃんとサインしてもらった体育館の使用許可申請書が入っていることを何度か確認した。




「あれっ、ちゃん、今日、練習混じってかないのっ?」


目当ての体育館に辿り着いて足早に離れると、嶋田さんに呼び留められた。

そういえば、いつものパターンならこのまま町内会チームの練習に参加させてもらうところだ。


「すみません、今日は行くところがあって」

「そっか、行くところ……、まさか!!」


まさか?

嶋田さんがハッとした様子でどこか悪戯っぽく楽しそうな表情に切り替わると、何かを察したらしい従兄が私を手で追っ払う仕草をした。


「そんな風にしなくたっていいのに」

「いいから早く行け、めんどくせぇ」

「ひどい!」

ちゃん、行き先ってもしかしてか「いいって!」


従兄と嶋田さんが楽しそうに、というか、男友達らしく?じゃれあっているのを後ろ目で見てから、急いで窓口に走った。

申請書の受付は早めに閉まるから、けっこうギリギリだ。

明日でもよかったけど、出せないと出せないで気になってしまう。
受験生としては一つでも心配事は減らした方がいい。

さあ、次だ。




「先生、明けましておめでとうございますっ」


小学生たちにバレーを教え終えた先生のところでタイミングを見計らって挨拶すると、先生は新年のあいさつもそこそこに、すぐ切り出した。


「バレーするんだろ?」

「あ、はい」


あの最後の試合をした体育館でバレーをする。

先生にも声はかけたが都合がつかなかった。


「飛雄は?」

「えっ、ああ……、白鳥沢は、ちょっとあの、わかりませんけど、烏野は受かるレベルにはなっていると思います」

「ちがう、そっちじゃない」


先生は、かつて教わってきた時のように凛々しい面立ちで腕を組んで言った。


「その14日のバレー、飛雄にも声かけたの?」


考えてもいなかった問いかけに面食らってしまった。

あの飛雄くんを、このバレーの試合に誘う。

言われてみればその手があった、という感じだ。


「人数足りてないんだろ?」

「いえ、なんとか、たぶん……」


同じクラスのバレー部の子には連絡した。
受験日とかぶっている子が多かったけど、主将だった山田さんと後輩の子たちが参加してくれる。
家庭科部で運動にも覚えがある子も立候補してくれた。あと、もちろん男子バレー部の1年生たちも来てくれる。

かつて同じチームメイトで連絡先の分かる子にも連絡はした。都合は、つかなかった。


「あ、二人にも声かけました」


影山くんの後輩二人。

北一での出来事を思い返すと気まずかったけど、もう今さらだった。

話は一つ、バレーがしたい。それだけだ。


先生が目を丸くした。


「来るって? あの二人が?」

「ええ、まあ……」


歯切れ悪く答えるのは、なんとも言えない返答だったからだけど、ほぼ勘だけど来てくれる予感がしていた。


「その二人が来なくても試合になる?」

「えっ、たぶん」

、バレーに必要な人数は?」


先生は至極当たり前のことを確認してくれたから、大げさに手で数字を表して答えた。


「6人と6人の、12人でバレーが出来ます」



ひとりじゃできない。

12人以上がいても、コートに居場所はない。

それは言葉にしなかった。



「わかってるならいい」


先生は満足そうに頷くと、カバンからドロップスの入った缶を取り出して、一粒を口に放った。


もいる?」

「あ、ありがとうございます」

「味は運だからね」


白っぽい一粒は、ハッカ味だ。


「先生、自分が苦手だから数減らそうと……」

「可愛い教え子に自分の嫌いな味を押し付けると思うか?」


よく言う、と思いつつ、ずっとこんな感じの人だよなあ、と喉を抜けるツンとした甘さを味わった。




「はい」

「やるならちゃんとバレーやりなさい」

「……はい」


先生が荷物をまとめて肩にかけた。きっと更衣室に向かうんだろう。

その前にくるりとこっちを向いたからドキッとした。

怒られる。つい条件反射で肩をすくめる。


、声が小さい!」

「はいッ!!!」

「よしっ」


勢いよく返事をしすぎて飴を飲み込んでしまいそうだった。

いま、確かに、かつて立ったことのある場所にいた気がした。







「飛雄くん、やってるね」


広めの図書館のフリースペースは、さっきまでいた体育館から遠くはなかった。
はじめて来たけどテーブルは広いし、親子が絵本を向こうで読み聞かせているくらいで思いのほか静かだ。

飛雄くんは、去年最後に会った時より髪が短くなっていた。

今年初の勉強会だ。

向かいの席に荷物を置いて、いつもの場所で勉強する時みたく、飛雄くんの手元を覗き込んだ。
過去問は、烏野でも白鳥沢でもなかった。

友達だと思うようになったとはいえ、飛雄くんも私も年末やお正月の話をすることもなく、すぐ勉強モードだった。
今日は1時間しかいっしょにいられない。

手短に問題の解説をして、またタイマーをセットして、丸付けして、とこれまでと変わらない時間はあっという間に過ぎた。


「そうだ、2月14日って時間ある?」

「なんかあんのか?」

「体育館借りてバレーしようと思って。場所はここっ」


体育館までのアクセスが印刷された紙を取り出して様子を窺うと、いつもと変わらぬ飛雄くんの愛想ゼロの顔がそこにあった。

舌打ちされた。


「ご、ごめん、いきなり誘われても困るよね」

「その日、試験がある」

「それは無理だね、仕方ない!」

「なんで14日なんだよ」

「た、体育館が空いてる日がそこしかなくて……」

「他の場所は?」

「他じゃ、意味ないから」

「どういう意味だ」


なんて答えようか、ごまかそうか、逡巡したものの、この真っ直ぐな視線を前にもう逃げたくなかった。

飛雄くんにはもう知られている。


「前に話した、スパイカーの子とやった最後の試合、ここでやったの」


出しっぱなしのプリントは、元の折り目に沿って畳んでいった。


「この体育館、もうなくなっちゃうから、最後にもう一回ここでバレーしたくて」

「何のために?」


飛雄くんの眉間は相変わらず寄っていた。もう怖くなかった。



「“私”のために」



ぎゅっと握ってしまったプリントにしわが寄ったから、そっと指で撫でて伸ばした。


「わ、わかってる。

 同じ場所でやってみたって、同じチームでも対戦相手でもない。

 舞も……あのスパイカーの子にトスを出し直せないって」


カバンのなかにプリントを戻した。


「それでもっ、やってみたいって思ったから、やってみる。

 あのねっ、飛雄くんの後輩の二人も声かけたんだ。2対2のときのリベンジしたくない?って言ったら乗って来てくれて」


「なんで」


「え?」


「なんで、もっと早く言わねえんだよ。何時だ?」


「へっ」

「何時に試合やんだよ」

「え、えっと、3時、午後の、えっと飛雄くんの試験って午前?」

「午後だ」

「それは無理だよ、間に合わない」


し、舌打ちした。やっぱこわい!

そんなにバレーしたいものなんだろうか。

いや、部活引退して受験生をしていれば、早々バレーの試合を出来るものじゃないだろう。
バレーは、一人じゃできないんだから。


「またさ」


おそるおそる切り出した。


「後輩くんたちにも声かけて、2対2やる……?」

「いつだ」

「ぇ」

「いつ、それやんだよ」


そんなすぐに日程が思い浮かばない。

しかし、どこかそわっとした様子の飛雄くんを前にして、また今度と言い出すのは忍びない。


「えぇーっと、いつ、飛雄くんは体育館で練習するの?」


バレーの先生の計らいで体育館をよく借りていたはずだ。


「受験終わるまではやめろって言われてる」

「そりゃそうだよね」


そもそも私が飛雄くんに引き合わされたのだって、未来の日本代表を中卒にするわけにはいかないからだったはずだ。

どこかふてくされた様子の飛雄くんに、テーブル越しながら距離を縮めた。


「受験終わったらやろ、バレー」

「……は、いつ終わるんだ」

「ちょっと待って」


メモ帳を取り出して受験日程を確認しながら、試験まであと少しなことも、飛雄くんとの勉強会もあと1、2回だけなことも、今さら思い知った。

年が明けたばかりなのに、全部があっという間に過ぎ去っていく。


next.