ハニーチ

スロウ・エール 179



結局、飛雄くんに促されるまま、次の勉強会の日程よりさきに、バレーを一緒にやる日のほうが決まった。

後輩くんたちは予定が空いているんだろうか。
いや、あの影山さんがバレーをしようと誘ったんなら飛んでくるだろう、きっと。


「なんだよ」


テーブルの向かいに座る飛雄くんは、去年と変わらず、こちらの胸中に微塵も想像力を働かせることなく呟いた。

そういう鈍いところ、ある意味うらやましい。


「……なんでもない」

「本当か?」

「ほんとう。 それより、前も同じところ間違えたやつあったよね、次までに復習忘れずにね」

「わ、わかってる」

「その問題じゃなくて次のページ」

「!」


飛雄くんの問題集に手を伸ばし、前にもチェックマークを付けた問題を見つけだすと、すぐそばに付箋を張り付けた。

念押しで指先でトン、と強調する。


「これ。 わかった?」

「……おぅ」


飛雄くんがおずおずとテキストに目を通して頷いた。

こういうところは素直だ。


「烏野、よくこれ出るから。白鳥沢もだいたい基本問題に似たやつ出るし」


人にえらそうに話してるけど、自分の問題集にも目印をつけておかないと。
これで飛雄くんが受かって自分が落ちていたらシャレにならない。


「なに?」


ふと向かいから視線を感じて飛雄くんの様子を窺うと、飛雄くんも同じく問題集を勢いよく閉じていた。

大慌て、といった様子だ。


「なんかある?」

「……なんでもない」


ついさっきまでの自分を見ているようだ。


「ふーん……」


なんでもなく、なさそう。

かといって、図書館の閉まる時刻が近いことを知らせる音楽が流れている今、わざわざ追及している時間もなさそうだ。

お互いテーブルの上をすっきりさせたのを確認して立ち上がった。
もう夜遅い。


「帰ろっか」

「ああ」


座ったままでもうっすら実感していたけど、改めて隣に並ぶと、着ているコートの色味もあってか、飛雄くんがより大きく感じられた。

日向くんと並んだ時とは違う感じ。




「なに?」


盗み見ていたつもりがしっかりバレていた。


「縮んだか?」

「ちっ!」


最後に会った日からそんなに時間は経ってない。


「縮んでないっ」

「そうか?」

「靴底、そっちが厚いんじゃない?」


ついムキになって一歩踏み出してみる。

飛雄くんのそれと自分のを並べさせてみると、そもそも靴底どころか足の大きさも違っていて、何より足の長さだって大きく異なっていた。

わかっていたこととはいえ、負けた気分だ。


「厚かったのか?」


頭の上から声が振ってくる。


「あんまり、変わらなかった」


嘘をついても仕方ない。

いっそのこと、靴底がほとんどないようなのを履いてくればよかった。
それか、男子がはけないような、とびきり可愛い靴でも。


「俺の勝ちだ」

「こういうので、勝ちとか負けとかないと思う」


得意げでいて、少しだけ楽しそうな笑い声がこぼれ、つい気を取られて顔を上げると、やっぱりすぐ近くだった。


が縮んでたから、俺の勝ちだ」


自然に、ちゃんと、飛雄くんも笑えるんだ。

私の反応に戸惑って飛雄くんが顔を背けるまで、自分がそんなにびっくりしていた事実にまた驚いた。

間を取り持つように言葉を放った。


「飛雄くんが伸びたのっ」

「……」

「か、帰ろっ。ほら」


飛雄くんより前に歩き出して振り返ると、こくりと頷いて付いてきていたから、さっさと歩いた。

緊張ともいうべきか、違和感とも違う、けれど、クラスの子たちといる時とは違う、不思議なこの感覚は、恐怖でもなかった。

もう、少しも飛雄くんのことは怖くなかった。


「今度はなんだ?」

「緊張する?」

「何にだ」

「もうすぐ試験だから。落ちたら中卒だし」


すべり止めも受けるから無用の心配とはいえ、自分だけ高校生になれなかったらと想像すると、さすがの飛雄くんも緊張するんじゃないか。

聞かれた本人は小首をかしげるだけだ。


、落ちるのか?」

「……私じゃなくて」

「じゃあ、誰が中卒だよ」

「……、……飛雄くんがうらやましい」

「そ、そうか」


なんでどこかうれしそう、というか照れてるんだ。褒めてないよ、ぜんぜん。

前から思ってたけど、飛雄くんは未来を不安に思うことはないようだ。
北川第一の推薦を蹴るくらいだし、どこかの高校がいざとなったらスカウトしに来てくれる、だとか。

いや、そんなんなら私に勉強を教わらないか。

北一で会った先生たちや今日会ったバレーの先生が順に浮かんだ。

誰の心配も、影山くんの歩みに影響を与えない。

あ、れ。

となりにいた気配がいつの間にか消えていて、違うバス停に向かって飛雄くんが歩き出していた。

声くらいかけてほしい。



「ねえ、バス停こっちだよ!」


一緒に帰るものと思い込んでいた。


「走る」


端的な一言、具体的な動詞。

飛雄くんのはいている靴は、確かにランニングに向いていたなと思い返した。

すぐにでも駆けていきそうな飛雄くんが、まだそこに立ったままだった。





すっかり暗くなった道の真ん中、飛雄くんの声は電灯で白く立ち上って見えた。


「またな」


返事も待たないで、今度こそ飛雄くんは走り去る。

本気を出したらきっと、こっちが瞬きでもしている間に、ずっと向こうまで駆け抜けていったに違いない。

そういえば、今日は隣にいる間は早歩きをしなくてすんでいた。
もしかしたら、ずっと飛雄くんが歩く速度を合わせていてくれたのかもしれない。


「気、ゆるんでる」


パチン、と頬をはたくのは憚られて、両手で頬をギュ、と触れてみると、夜の冷たさでしっかり冷えていた。

不安になってたの、やっぱり私の方だ。

あ、バス来てる。

走って飛び乗って、いつもの風景とはちょっと異なる景色からカバンの中の単語帳に視線を移す。

やると決めたんだ。

バレーも、勉強も、全部。

せっせと単語帳をめくっていたものの、バスの暖房の心地よさに途中から意識が遠のいていた。











さんでもそういうことあるんだ!」

「あるよ、いっぱい」

「おれはしょっちゅうだけど、さんは、なんか意外っ」


そんなに完ぺきな人間のつもりはないが、勝手にそういうイメージが独り歩きしている節もある。

冬休みも終盤、日向くんが学校で先生の特別講習?補講?をしてもらうというのに合わせて登校してみると、通学路でばったり出くわした。

昨日のバスでのうたた寝は、話の一つだった。


「日向くんは自転車だし、うとうとする時間なくない?」

「自転車乗ってるときはそうだけど、家だと問題とノート開いただけでうとうとする!」

「それは……、うん、早いね」


ただ、授業や図書館にいる時の日向くんを想像すると、そんな姿も容易に浮かんだ。


「だから、人いるところでやろうって決めたんだけどさ、さん知ってる?」

「なにを?」

「こたつに入ると騒がしくても寝れるっ」


真剣な面持ちで何を言われるかと構えたのに、こたつか、と脱力した。


「笑い事じゃないって、妹も騒いでたし絶対起きてられると思ったけど、ぜんぜんダメだった」

「あったかすぎると確かにね」


冬は布団から出るのだって気合いがいる。


「あ! おれ、今日は大丈夫だった!」


日向くんは楽しそうに自転車を押していた。


さんが来るってわかってたからっ」


目覚ましより早く目が覚めたんだって、学校に着く前に会えてラッキーだって、日向くんが私の気も知らないで話し続ける。


さん?」


ほら、勇気。

今年やっと会えたんだから。


「わ、たしも、このくらいの時間に来たら日向くんに会えるかなって、あの、期待してた」


校舎が見えてきた。


「……会えて、その、よかった」

「……う、うん」

「あ、えっと、早く行こっか」

「おう!!」


なぜか互いに競うように早歩きで学校に向かった。

時折目が合うことがうれしかった。


next.