「じゃあ、おれ、ボール取ってくる!」
「うん、待ってる」
付け加えたお礼も聞き終わらないうちに、日向くんは北風のように廊下を走り去った。
もう姿は見えない。
さっきあれだけ『なんて言ったの?』と繰り返していた日向くんも、トスをちらつかせればこの通り、持ち前以上の速さをもって準備に急いだ。
ほんとうに、午前の練習に混ざれていたらよかったのに。
「!」
冷たい空気が廊下を抜ける。
肩を震わせ、足早に日向くんと約束した場所へと向かった。
寒い。目が覚めてちょうどいい。風邪ひかないようにしなきゃ。
スカートから覗く素肌が冬になぞられる。
窓の外は厚い雲、これから雪でも降りそうだ。
体育館が使えればよかったけど、あいにく、というか予想通り、他の部活が使う予定になっていた。
ジャージに着替えた方がいいという考えがちらつく。一度使ったのをまた着たくなかった。
なにより、今日の勉強は一切はかどっていない。
着替える時間も惜しいし、日向くんを待たせるのも嫌だった。
「さんっ!」
ほら、ね。
日向くんが立っていた。
ボールを取りに行ったはずの日向くんが、もう約束の場所にいる。
校舎の横、空きスペース。
体育館が使えないか一緒に職員室に行って分かれたんだから、教室に向かう時間を考えれば、日向くんより先にこっちが到着するはずだった。
走っていくと、日向くんがボールを放ってくれた。
きれいな弧を描いていく。
教室の隅にいつも追いやられている球は目を覚まし、きらめいているようにも見えた。
受け取るのも慣れていた。
「さん、トスよろしく!」
今にも駆けていきそうで、どこかに飛び出しそうな日向くん。
風が吹いていた。
日向くんの髪が乱される。
けれど、眼差しは変わらず、意気込みはむしろ一段と強まってさえみえた。
「行くよ」
準備体操は、いいや、省こう。
日向くんと同じだ。
待っていられなかった。
この瞬間に煽られるまま、ボールに触れる指先からすべてに神経を集中させた。
*
別に、ただ、放るだけで十分なのに。
自分の中の、冷静な、どこか他人行儀な一面が囁いていた。
ボールを拾い、また上げる。
ここは、ただの、広場だ。ネットもない、体育館じゃない。コートじゃない。
日向くんと私だけ、正確に言えば、日向くんとボールを上げる人だけ。
「もういっかい!」
日向くんの声に頷く。
もう一回、この手のボールを空にあげる。
もういっかい、もう一回。
鼓動が早いのは身体を動かしているから。
汗が滲んでくるのは、もっと集中しているから。
ただ、ボールを放るだけでいいのに。そんなことして何になるの。
いい子ぶって。
声がする。
心の奥の、自分じゃない、自分の声。
「日向く、!」
ごめん。手、ぶれた。
言葉にならない、謝罪も口にできない刹那。
放ればよかった。それで、いいのに、私は、きちんとトスを上げようとした。
“、上手いぞ”
いつかの、祖父の声がした。
トスは、いつでも相手に向けて。
高く、丁寧に、行く先を信じて飛ぶスパイカーへ、敬意を持って。
日向くんが華麗に跳んだ。
かと思えば、ボールが一直線に地面にたたき落され、あまりの力に空へと跳ね上がり、まるで帰っていくかのように宙へと飛んだ。
とん、とん、とん、……実際は、きちんと地球の法則に従って跳ねては落ち、跳ねては落ち、力を失って転がっていった。
チラ、と視線を向ければ、日向くんが汗をぬぐってこっちを見ていた。胸の奥まで突き刺すように。
もういっかい。
言われた訳じゃないのに、言われた気がして。
凄まれたわけじゃないのに、なんでだか、緊張した。
木の葉が北風で運ばれていくのに合わせ、ボールが転がり始めたから駆け寄った。
「さん、つかれたっ?」
振り返ると、ちゃんと、いつもの日向くんがいた。
首を横に振って、また移動した。かりそめの、セッターの位置。
「もし、疲れたらさ、言って」
「……めずらしいね」
日向くんが目を丸くした。
サーブでもこれから打つみたく、ボールを手の中で回しながら続けた。
「そういうの、いつも聞かないのに」
日向くんは、トスがだいすきだから、トスを上げる側が先に音を上げてしまう。
そう言うと日向くんが慌てた様子で言った。
「とっ、トスすきだけどっ、さんのこと、大事だから」
北風のつめたさをより強く感じたのは、火照っているせいだろう。
「やめる?」
「えっ!!」
「冗談だよ」
ボールをもう一回、しゅるりと素早く手の中で転がしてみせた。いこう。
「やろっ」
もう一回。
もう一度。
日向くんが切り替わる。
同じように、変わりたい。
現実は、いたって変化のない中学生二人ではあるけれど、この瞬間、いまこのときだけは、もっと、もっともっと違うところを目指しているような気がした。
かつて立ったあの場所に、かつて見出したあの位置に、(お願いだから)、このトスを届けたかった。
日向くんがまた跳んだ。
ネットを超えて、いや、なにもない。実際は。
けれど、私には見えていた。
最後の試合、あのネット、それは、今の私たちから見れば、とっくに超えられているものだった。
ボールをまた拾い上げた。
「もういっかい」
私だった。
「日向くん、もう一回、いい?」
私が、“もう一度”を口にした。
日向くんが元気よく頷いた。笑顔で。
「さん、やろう!!」
風が木の葉を空へとかっさらう。
スカートも舞い上がる。
構わなかった。
ボールと、その先だけを見つめていた。届くように、想いを込めて。
もう一度。
*
それから何度、このボールの応酬を繰り返しただろう。
やっぱり私の方が先に息が上がっていた。
日向くんもまた、いつもよりは頬が赤らんで見えた。
「だいじょーぶ?」
いや、やっぱり私の方が全然だめだ。
質問してきた日向くんの瞳は、生き生きと光が宿っている。
己の完敗を悟った。
「ごめん」
「なんで謝んのっ?」
「もう、その、疲れちゃって……」
「いいよ! そろそろ終わりにした方がいいかなって思った」
日向くんがそんなことを考えていたなんて珍しい。
拾いに行く元気すら残ってなくて、日向くんが代わりにボールを手にして高らかに掲げるのをぼんやり眺めていた。
「さん、すごかった!」
「えっ」
「今日のトスさ、なんか、ちがったっ! バッて感じで、びゅんってもう、そこにあって! 午前の練習、そんなすごかったの?」
「いや、そんな特別なことは……、あ、試合やったからかな」
「試合!?」
「あ……、そんな、ちゃんとした試合じゃないんだけど、人数いたから」
「う、うらやましいっ」
日向くんが心底悔しそうにうなるから、つい笑ってしまった。
「ほんと、日向くん来れたらよかったのにね」
一緒にいたメンバーも同じことを言っていた。
話しながら、流れで教室に向かった。
日向くんは何故かボールを頭に乗っけたり、両腕で上げたり下げたりしていた。
興奮冷めやらない様子だった。
「ありがとう、さん」
「ううん」
「おかげでさ、もっと、したくなった」
日向くんが胸の高さでボールをぎゅっと力強く握った。
「もっと、……はやく、ちゃんと」
言葉が続かなくても理解していた。
もっと、はやく、ちゃんと、ひとりじゃないバレーを、烏野で。
「そのためにも、受験だね」
「うっ! な、なんでわかったの?」
「なんとなく?」
「やっぱ、さんエスパーだ……」
以前、ふざけて口にしてしまったことを思い出す。
我ながらはずかしい。
訂正しようと焦ると、午前の講習で先生が何やら適当なことを日向くんに吹き込んでいたらしい。
「だれ先生がそんなこと言ったの?」
「ほら、国語のさ!」
そんな話をしながら入った校舎は、空気があたたかく感じられた。
どれだけ熱い気分になっても、寒空の下のバレーは等しく体温を奪っていたようだ。
楽器の演奏がどこからか流れ、一筋の風が通り抜ける。
自分の髪で視界がさえぎられた。
手で適当に整えると、使わせてもらった制汗剤の香りが鼻をかすめ、日向くんが隣で『ん?』と小首を傾げた。いつもと違う。ぽつり、こぼして。
next.