「なにが、違うの?」
「ぃや、なんでもないっ」
日向くんの呟きについて質問すると、日向くんはぶんぶんと勢いよく首を横に振って、大きく一歩を踏み出した。
「ボール、片づけてくるっ」
「あっ」
持ってきてくれたのは日向くんだ。今度は私が。
そう言いかけたのもわかっていたのか、日向くんは階段までひとっとびだった。
「さん付き合ってもらったから。
この後、図書室だよね?」
そのつもりだと頷くと、日向くんが片手を上げた。
「すぐ行くっ」
日向くんの足音が一気に遠のいていった。
自習、してくんだ。
午前中まったく勉強できなかった自分と違って、日向くんは講習をがんばってたから、もう帰るのかとばっかり。
「あ、こんにちは」
階段から今度は音もなく先生が下りてきた。
知っている先生だったから、少しだけ立ち話をした。
いよいよ受験本番という1番ホットな話題について。
先生は何の気なしに笑った。
「、がんばれよ。 白鳥沢、期待してる」
「は、ぃ」
我ながら気の抜けた返事だったと思う。
先生はこちらの心持ちについては気にも留めず、行ってしまった。
家族や塾や学校の先生たちはみんな軽々しく期待してくるよなと思いながら、図書室に向かった。
軽くなったはずの身体が、途端に重たくなる。
午前中の疲れでも、お昼の眠気でも、まして日向くんとの練習のせいじゃない。
図書室の引き戸も、空気も、なんだって急にどっしりと重たい。
学校のカバンすら開けづらく、過去問に至っては単なる冊子のくせに開くだけで億劫だった。
あとちょっとで入試本番。
駆け抜けるだけ。
バレーは、
今度の試合は、
現実逃避じゃ、ない。
ほんとうに?
自分の心の奥で、自分の声がささやいた。
ドンッ、と自習机に、紙パックが置かれた。
大人びたベージュ。
銀杏並木みたいな黄色、それと濃い青。
この冬限定パッケージのココア。
日向くん。
「差し入れっ!」
日向くんの手には、ストローの刺さった同じものがあった。
向かいの席に日向くんがカバンを置いた。
「え、と、……これ」
「いっしょに飲もっ」
「あ、ありがとっ、でもここ!」
図書室は飲食禁止だと告げると、日向くんが飲みかけのストローからそっと口を外した。
前に自販機前のフリースペースで勉強したのと同じ感覚だったようだ。
さいわい、貸出カウンターのいる人たちには見咎められてはいない。
どこか固まってしまった日向くんに囁いた。
「外行こう」
フリースペースを目指し、カバン、それと未開封のココアを持って席を立った。
日向くんが、本当にいいのかと私を見上げた。
昇降口の近い自販機前は、女子からするとけっこう寒さが堪えることを思い出したようだった。
「いいよ、差し入れ飲みたいし」
紙パックを顔の高さにあげて返事をすると、日向くんも私につられたのか表情を和らげ、椅子を大きく引いて立ち上がった。
ほら、世界が変わった。
廊下はあいかわらず寒かったけど、日向くんのくれたココアで指先の暖をとった。
改めてお礼を言うと、照れた様子で日向くんは明後日の方向を見上げて頭をかいた。
「お礼言うなら、おれの方だし!」
日向くんは何の気なしに、私のトスを褒め続けてくれた。
そんなことは全然ないんだけど。
むしろこの差し入れに元気をもらったんだけど。
説明しても伝わらない気がして、日向くんの話に耳を傾けて、まだ廊下なのにストローを差し込んだ。
甘い。
あったかい。
「これ、好き」
「そうだと思ったから、それにした!」
日向くんが得意げに言い切った。
そういえば、前に寄り道した時もココアを飲んだんだっけ。
自覚してなかったなともう一口啜っている内に、誰もいない自販機前に到着した。
テーブルの一つに荷物を置いて、さっそく自習の準備に取り掛かる。
難関校・厳選問題集。
図書室で開こうとした同じ冊子は、ただの紙に戻っていた。
さっと開いて、予定通り、印をつけた問題を解きはじめる。
日向くんが、プリントをのぞき込んできた。
「さんの問題、む、ムズカしそう!」
「そんなでもないよ」
同じ受験生が解く高校入試の問題だ。
第1問は基本問題だから、烏野の試験に混ざっていてもおかしくないレベルである。
「やってみる?」
「え、あ、う」
「これくらい全然……、……日向くん!?」
早くないっ!?
日向くんが今にも頭が沸騰しかけたから、すぐに秘密ヘーキ、もとい冷えピタが大活躍した。
椅子に座ったままぐるんぐるんと不思議な動きをしている日向くんも、次第に知恵熱?が落ちついたのか、宿題にされたという講習の問題を解き始めていた。
時折、力強く、鉛筆が動いている。
もっと、はやく、ちゃんと、ひとりじゃないバレーを……
そばにいるだけで日向くんの熱が伝わってくる。
胸の奥がチリチリと共鳴する。
どこからか入り込む風はやっぱり寒いけど、気づけば集中していた。
チャイムが鳴ったのをきっかけに、ようやくノートを閉じた。
「あ、帰る前にさ!」
日向くんが空っぽの紙パック2つをリサイクルボックスに入れてくれたタイミングで、思い出した。
カバンから色紙を2枚取り出す。
日向くんがテーブルに両手をついて身を乗り出した。
「なにっ?」
「なっちゃんと翼くんに渡す色紙っ」
色紙の真ん中部分には写真のスペースを用意し、担任の先生からのコメント欄は確保してある。
「二人とも引っ越すから準備してて」
遠く離れる二人のために、担任から前もって色紙を用意するよう卒業アルバム委員に耳打ちされていた。
もちろん委員であっても、引っ越す本人には秘密である。
「卒業式の日に渡すから、その前にクラスのみんなに書いてもらわないといけなくて……
日向くん、まだ書いてないよね?」
「書いてない! けっこう埋まってんね」
「冬休み前から準備してたから。それでも、まだ半分かな。
ペン、これ使って」
日向くんが鉛筆で書こうとしていたところを止めて、12色並んだペンを差し出した。
かっけー!と声を弾ませる日向くんの背後から、帰ろうとする人たちのざわめきが聞こえて、慌てて顔を上げた。
「さん、どうしたの?」
「いや、ううん!」
色紙の渡し先である二人が集団に混ざってやしないかと念のためにチェックしていた。
そう説明すると、日向くんも、歩いて来る人たちから色紙が見えづらいよう席を移動してくれた。
「こっちが夏目で、もう一枚が翼か」
「そう!」
「先に翼から書こっ。
このへん使っていい?」
「もちろん」
青いペンをチョイスして、真ん中よりやや下のあたりに日向くんがメッセージを書き出した。
こういうのも性格が出るよなと思う。
大きな字だったり、シャーペンで下書きしたり、折角だから絵を描く人もいる。
「さん、まだ夏目のほう書いてないんだ」
2枚目に取り掛かろうとしていた日向くんが言った。
「う、ん」
翼くんのほうは長くメッセージを書きたがるクラスメイト(主に女子)がいたおかげで、スペースがなくなりそうだったから早めに書いてしまった。
友人の方はといえば、色紙を管理する立場上、いつでも書けるんだし、と後回しにしていた。
日向くんは今度は別の色のペンを手にした。
「夏目、引っ越したらさ、
さん寂しい?」
片付けをする手が止まる。
日向くんの問いに深い意味はない。
すぐ、答えられなかった。
今のクラスのみんな、誰しもが、次の春にはバラバラになる。
それは引っ越そうが引っ越すまいが関係ない。
でも、そうじゃないってこともわかっていた。
日向くんが書き終えた色紙を、元のビニールにやっと入れ直した。
「……さみしい」
やっと答えることができた。
日向くんがペンのふたをカチリと戻したタイミングだった。
自分の唇に人差し指を当てた。
「ないしょね」
日向くんがわざわざこんな話題を振るとは思えなかったけど、なんとなく念押した。
「なっちゃんのも書き終わったよね?」
「あ、あぁ……、うん!」
「帰り際にありがと」
「ううんっ、さん忙しいねっ」
「え?」
「ほらっ、委員会もあるし、受験も」
「それはみんな同じだよ。委員の仕事もこれで、あ、卒業式の日にちょっとあるけど」
友人のほうの色紙を上手くビニールに戻せなくて苦戦していると、日向くんが手伝ってくれた。
「ありがとう」
「さん」
カバンに色紙を2枚とも入れてから、日向くんの方を見た。
「なに、日向くん」
なんでだか、日向くんが動かない。
「日向くん?」
「な、んでもない」
「えっ」
そうは見えないけど。
ぎく、しゃく、と日向くんがコートを羽織り、マフラーに手をかけた。
さすがに下校時刻を過ぎるのはまずいので、日向くんにならって寒さ対策をした。
今日は自販機前に誰も買いに来なかったなと、冬休みらしいと実感したとき、カバンが何かに引っかかった。
違った。
日向くんが引っ張ったんだ。
「なに?」
「さん」
「うん」
「おれ、い、いるのでっ」
「へ?」
「ずっと!」
「……う、ん、ありがと」
何やら真剣な面持ちで伝えてくれるから、よくわからなかったけど、ついお礼を言ってしまった。
なんだったんだろう。
日向くんが気合いが入った様子で下駄箱に向かっていく。
ときどき、ついていけなくて、そんなところも好きなんだよなと思い知りながら後に続いた。
next.