ハニーチ

スロウ・エール 187





他に、もっといい言い方があったんじゃないか。

次はそうするって返しも、ちょっと、ちょっとさ。




「あっ、ごめ、ん」


止めたタイマーが、ただの一時停止だったらしい。

けたたましく、もう一度時間を知らせてきたから、あわててスイッチを押した。

ちらりと視線を上げると、じっとこちらを見る影山飛雄くん。

たぶん、いや、絶対。



「また、私、百面相してた?」

「ひとりで楽しそうだったな」

「あ、そう」


楽しいわけじゃないんだけど、また、やってしまった。

がくりとテーブルに突っ伏して深く息を吸い込んで吐き出す。

よし。


「丸付けしますっ」

「おう」


冬休み最後の日の午前。

いつものフリースペースにて飛雄くんと約束し、今年最初の勉強会をしていた。

自分の勉強は早々に片付けてしまったので(飛雄くんとの勉強会は烏野の過去問を中心にやる)、つい、つい日向くんとのあれこれを思い返しては考え込んでしまっていた。

これじゃ、勉強を教える資格がない。先生失格だ。

空調のくらくらするような暖かな空気を頭上で感じながら、赤ペンで、時に丸を、時にバツ印をつけていった。


「はい、合格点っ」


何度か繰り返してきた過去問とはいえ、ここまで来たのはすごいことだ。

ほんとうに、本当にすごい。えらい。


「そんなにか?」

「そんなにだよ!」


なんで私の方が飛雄くんの点数に感動しているんだろう。

いつもこんな感じだった気もするけど、そもそも、今日会ったときから少しだけ……


「いや、いっか」

「なんだよ」

「ううん、ウォーミングアップは終わり」


余分にプリントしてもらった問題を差し出すと、飛雄くんの眉がピクリと動いた。


「次は白鳥沢っ」


さすがの飛雄くんも渋い顔になったのは、少しは問題の難易度を理解できるレベルになったからだろうか。

試験本番まで日もない今のタイミングで、難易度を理解できても、とも思うが、それは考えちゃいけない。

遅すぎることなんて、なにもない。

可能性はいつだってゼロよりかはある。


「よし」

「なんでが気合い入れてんだ」

「……ふにゃふにゃしてるよりいいでしょ」


そうか?と言わんばかりの目線を向けられ、もういいよとばかりにアラームをセットした。

ほら、早く解いて、そう促すと、飛雄くんはぺらりとプリントをめくった。










「清々しいね、ここまでまっしろだと」

「そ、そうか」

「褒めてないからね」


なんで合格点をほめた時より照れているのか。

国語の解答用紙が、とりわけひどい。

文章題ばかり出ているせいか、記号欄以外がなんにも書かれておらず、もはや解答を放棄したようにみえる。

頭が痛くなってきた。


「せめてさ、なんか書こうっ」


白鳥沢の試験は設問自体が難しく、たしかに文章力に難のある(というのは失礼だけど)飛雄くんにはきついかもしれない。

それでも、何か書いとけば1点でも2点でも点数が入る可能性はある。


「記号問題とか漢字は答えが一つだけど、文章題はさ、△になって0点にならないことも多いから……」


ふと解答用紙から視線を上げると、飛雄くんとばっちり目が合った。

なぜ、こっちをみてるんだ。

身体を起こしてひとつ咳払いをした。


「とっとにかく、まず、全部何か書いてみて」

「……」


な、んでそんな難しそうに感じるんだろ。

第1問はテーマが固い評論文だけど、第2問なんか有名な小説で、まだとっつきやすい方なのに。


「……いっしょに、解いてみよっか」


こくり、と一つ頷く飛雄くんが素直なせいで、もっと厳しく教えるつもりが、自分比ではやさしい指導になっていた。








「普段さ、本読んだりしてる?」


なんとかメインの科目を解き終えて、気づけばお昼の時間になっていた。

私はここに来る途中で買ったパンを、向かいに座る飛雄くんは手作りらしいおにぎりを黙々と頬張っていた。
かなり大きい。

口をもぐもぐと動かす飛雄くんが、質問に対して首を横に振った。

だろうなあ、と納得しながら、私もパンをさらに食べ進めた。


「夏休みにさ、読書感想文あったでしょ?」

「かんそーぶん?」

「読書感想文、あれ、やったことあるよね?」


中学でも小学校でも、どこかでやらされてきたはずだけど、ピンときていない相手を前にしていると自分が間違ってるんじゃないかという気になってくる。

私の困惑ぶりに動揺してか、飛雄くんが神妙な面持ちで言い捨てた。


「読書感想文くらい知ってるに決まってんだろ」

「知ってるって言うか、なんていうか……」


それより気になる、白いもの。


「ほっぺた、ついてる」

「!!」


飛雄くんがあわてて頬についていた米粒を取った。

少しは照れたように見えて、飛雄くんにもそういう感情はあるんだなと物珍しく眺めた。

ほっぺたをいつも通りにした飛雄くんが眉間にしわを寄せて、前のめりで言った。


「なんで、そんなこと聞くんだよ」

「さっき説明した内容、わかってなさそうだったから」

「……仕方ねーだろ、何言ってるかわかんねーし」


そっか、漢字を覚えるのもやっとな飛雄くんからしたら、作者や登場人物の心情を読み取る以前に、まず、何が書いてあるか理解するところで躓く訳か。

って、1月の今でこの段階って……、考えるのをやめて、飲み物に手を伸ばした。


はわかんのか?」


飲み物をまたテーブルに置いたときだった。


「あの文章、何言ってんのか」

「そりゃあ……、問題が解けるくらいには」


問題はあくまで本の抜粋で、丸ごと一冊理解しているわけじゃない、と注釈をつけたつもりが、かえって飛雄くんを混乱させた。


「いいよ、飛雄くんよりはわかってるって意味!」

「おぉ……」


いま言ったことが通じてるかどうか、人の気持ちも試験みたく答えが分かればいいのに。

何気なく向けていた視線がまたぶつかった。


「バレーの文章だったらわかりやすい?」


バレー、と単語を出した途端、飛雄くんの目の色が変わる。
影山くんにとってバレーがどんなものか、一目瞭然だった。

白鳥沢はバレーの強豪校なんだし、文章題のテーマに出てくる可能性も、……ないか。

バレーと同じくらいとは言わないけど。


「せめてさ、もうちょっと興味持てない?」

「きょーみ」


飛雄くんは、理解しようと試みているのか、言葉をリピートした。

文章のテーマや作者の伝えようとする主題までは贅沢は言わない。
せめて登場人物の心情くらい、気に留めてくれたらなにか変わるんじゃないか。


「例えばさ、今日やった問題、主人公の“私”はすごく後悔してたでしょ?」

「なんか、うだうだしてたな」

「……まあ、そうともいうけど、後悔してる“私”が友達との過去を語るって流れだからさ」


説明しながら、私の方が、あの問題に出てくる“私”に共感している気がした。

どうして、あの時、言わなかったのか。

せめて、どこかのタイミングで声をかければよかったのに。

たくさんの『もしも』があったにも関わらず、“私”はチャンスを見逃し、最後まで行動を起こさなかった。


違う。


行動を起こさない、ことを選んだ。



「……はなんで興味持てんだよ。 やる」


2個同時に言われて、というか、投げるように渡された薄くて四角い箱が勢いのまま落っこちそうだったのを、なんとかキャッチした。

赤いパッケージ、キットカット。
受験生応援バージョン。


「どうしたの、これ」

「もらった」

「誰から?」

「同じ学校のやつ」


話を聞くに、私との勉強会の前に学校でひと練習してきたらしい。

帰り際にばったり会ったその人から『間違えて買ったからもらってほしい』と手渡された、と。


「……」


こんなお菓子、買い間違えることなんてあるんだろうか。

予感は的中した。


「あの、これは人にあげちゃだめだよ」

「なんでだよ」

「いやだって」

「だれかと食べろって言ってたぞ」

「でも裏見て、裏」


少しもわかってない飛雄くんに赤いパッケージを押し付ける。

いまやっと気づいただろう、メッセージ欄。

飛雄くんはまた表側のパッケージに戻した。不思議そうな面持ちで。


「だから、なんだよ」


受験がんばろうね、サインペンで書かれた想い。


「……これ、女子からもらったでしょ?」

「ああ」


ああ、じゃなくて。

どんな人か、私には想像もつかないけれど、イメージした北一の子が飛雄くんにこのお菓子を手渡す場面まで脳裏に浮かんだ。

名前はわかるかと聞いてみたけど、やっぱり予想通りで、飛雄くんはこういうお菓子を自分は食べないと続けた。


は好きだろ、こういうの」


飛雄くんからすると、親切心だったらしい。

私が勉強会の時につまんでいたお菓子のことは記憶していたようで、だから、このチョコ菓子を渡してくれた、と。


「……気持ちは、うれしいけど」

「嫌いになったのか?」

「そうじゃ、なくて」


おもむろに飛雄くんが赤い箱の端っこを引っ張って開けた。

どうするのか見守っていると、中身のふくろも開けて、パキッと軽快な音を立てて半分にした。

差し出された片方。


「いっしょに食うならいいだろ」

「……ん」


迷ったけど、飛雄くんにプレゼントした子は一人で食べるように指示したわけじゃない。

飛雄くんも食べるなら、たぶん、いいはずだ。
なにより、飛雄くんの好意を断りづらい。

パキっと割った半分を、飛雄くんはおにぎりを食べていた時のようにかじった。

また、目が合ったから、同じくチョコスナックに歯を立てた。

いい音がして、ふわっと甘さが香る、定番の味。


「飛雄くん、ありがと」


ぽつりとお礼を告げた頃には、飛雄くんは自分の分を食べ終えていた。


、うまいか?」

「ん」

「喜んでるのか?」

「!」


もぐもぐと無防備に動かしていた口元を片手で隠した。


「また私っ、……顔に出てた?」


飛雄くんがどこか得意げに笑う。
はずかしくて、そのまま顔を隠して食べきった。



next.