「じゃあ、今日、おわりにしよっか」
チョコレートの甘さが口から消えた頃、時計を確認してノートを閉じた。
向かいに座る飛雄くんも、走らせていた青ペンのキャップを戻す。
カバンに文房具もしまい終えて、さあ、帰ろうと上着に手を伸ばした時、ほんの少しだけ躊躇した。
「あ、」
こちらの変化に気づいたらしい飛雄くんの視線を感じ、気を取り直してコートを手にした。
「いよいよだなって」
「?」
「受験! 明日から学校だし、始まったらすぐだから」
飛雄くんも、てきぱきと上着を羽織った。
「早い方がいいじゃねーか」
「なんで? 一番最初、白鳥沢だよ?」
「覚えてるうちにやった方が答え書けんだろ」
「……そういう考え方もあるね」
なんとか詰め込んだ知識は、いつまで飛雄くんの中に残るだろう。
カバンを取り上げ歩き出した時点で、すでにいくつか記憶から零れ落ちているような気さえした。
「ねっ」
声をかけると、飛雄くんが立ち止まった。
「最後に説明した公式、言ってみて」
「な、なんだよいきなり」
「抜き打ちテスト、さっきやったからカンタンでしょ?」
ついでに言うなら、ノートに青ペンでせっせと書いていたのを目撃している。
建物の外はまっくらで、やっぱり寒かった。
「、ちょっと、……待て」
なんだか迫力のある人相だ。
これで教科書の公式を思い出そうとしているとは、傍から見ていてわかるまい。
おでこに指をあてて思い出そうとしているが、果たしてバス停に着くまでに思い出せるか。
まだ唸っている飛雄くんに、もう一度問題の解説を読むように告げてから思い出した。
「好きになるといいかも」
「ハッ?」
声が極端に裏返っていて、なんだかおもしろい。
また知らない一面を垣間見た気がして、飛雄くんの顔を覗き込んだ。
「ほら、国語の問題の話。 もっと登場人物に興味を持ったらいいよって言ったらさ」
飛雄くんは言った。
なんで興味を持てるんだって。
「は、あの、“私”ってやつが好きなのか」
「いやっ、好きっていうか……、好きか嫌いかで言ったら、どっちでもないけど……」
「どっちなんだよ」
「ちょっと待って」
あれ、何の話してたんだっけ。
そうだ、どうやったら興味を持てるかって話で、興味を持つためには好きになったらいいって話で。
自分で言い出しておきながら、混乱してきた。
「ごめん、やっぱり、さっきの忘れて」
そう切り出すと、飛雄くんが眉間に皺を寄せた。
なんて言えば伝わるだろ、えぇと。
「ほらっ、好きになるって考えてどうにかなるものじゃないから」
「“好き”って、なんだ」
哲学的な話になってきた。
けれど、茶化して終わらせるには、あまりに真面目な問いかけだった。
「そういう、飛雄くんは、バレー好きでしょ?」
「すき?」
「そりゃ、息するみたくバレーしてたら意識しないかもしれないけど、それが“好き”かなって」
例えば、バレーのルールを覚えたり、どうやってサーブを打つか考えて、どうやって狙いの位置に決めるか練習したり、“それら”をずっと毎日欠かさずにやること。
「好きじゃなきゃ続けられないから」
言いながら、続けていない私は、やっぱりバレーを好きじゃなかったのかな、とも思った。
「、いま、息してんだろ」
飛雄くんがしゃべると空気が白く立ち上った。同じく、自分からも。
生きていれば息をする。
「それと同じだ」
「同じ?」
「好きになんのとは違う」
「あ、待って!」
急に早歩きになった飛雄くんの隣に急いで並ぶ。
「バレーと息するのは同じで、“好きになる”のは別だって言ってる?」
「そうだろ」
「そんなこと……」
バス停がもう見えてきて、もしかしたら飛雄くんはバスを使わずに自分の足で帰るんだろうかと隣を見ると、目が合った。
「そんなこと?」
無垢な眼差しで飛雄くんは、途中で止めてしまった私の言葉を待っていた。
以前なら考えられないことで、ちょっとだけ驚いてから答えた。
「好きになるのも、……同じだよ。
息するみたく、どうしても、その人のことでいっぱいになるんだから」
って、なんで日向くんが浮かんでるんだ。
好きになる対象は人だけじゃないし、高校入試と関係なくなってる。
「ば、バスっ」
飛雄くんのカバンを引っ張った。
「、「バス来てるから乗ろうっ」
最初は引っ張っていたはずが、すぐにカバンが前に、いや、持ち主である飛雄くんが私の前を走っていた。
足、すごく速い。
鞄から手を離すと、代わりに私の手首を飛雄くんが掴んだ。
チラと振り返った飛雄くんは平然としている。
抜き打ちで質問した時の慌てっぷりとえらい違いだ。
「、乗るんだろ」
自分から言い出しておいて、やっぱりいいとは、もう言えない。
息が上がってきていた。
「の、るっ」
「じゃあ、このまま走るぞ」
私の手首を離さずに、飛雄くんはぐんと速度を上げ、バスがまだ停まっているところまで連れていってくれた。
ほんの僅かな電灯で照らされた手首は、掴まれていた強さのまま赤くなっていた。
「すごい力……」
「?」
「ううん」
なんでもない。そう続けてバスに乗った。
暖房がフル稼働している車内は、今度は暑く感じる。
まだるっこい暖かさに包まれつつ、空いている席に座ると、となりに飛雄くんが収まった。
「今日は走って帰らないんだ」
「風邪ひいたらまずいんだろ」
「そりゃ、受験生だし」
一応、自覚あるんだ。
感心しつつ、曇っている窓ガラスに『TOBIO』と書いているうちに、バスが動き出した。
「それ、鏡文字じゃないな」
覚えてたんだ、それ。
前みたく、私の真ん前に飛雄くんの腕が伸びてきて、指先が曇りガラスをすべった。
「TOBIO……」
「どうだ」
「ちゃんと書けてる。すごい」
素直に告げると、座り直していた飛雄くんの表情はどこか明るく見えた。
「よかった」
大き目のカーブでバスが大きく揺れると、お互いの身体が傾いてくっついた。
「飛雄くん、会ったとき、ちょっとだけ元気なさそうに見えたんだ」
「俺は……元気だ」
「だから、よかったなって。 そうだ、次さ」
日程を合わせている内に、降りるバス停に到着した。
私はまだ、彼をよく知らない。
「おはよう、」
冬休み明けの通学路、聞き慣れた声がひびく。
お互いのスカートが揺れた。
「なっちゃん、おはよう。後、あけましておめでとう」
「会うのは初か、あけましておめでとう、今年もよろしく」
「よろしくっ」
通学路の途中でばったり友人と顔を合わせ、並んで歩く。
年明けならではの挨拶は、ちらほら周りからも聞こえてきていた。
「昨日、こっち帰ってきたの?」
春には引っ越す友人とはメールでもやり取りしていたが、本人は引っ越し先の東京にいたそうだ。
「あちこち連れまわされて大変だった」
「どこ行ってきたの?」
東京といえば、というイメージがいくつも浮かんでくる。
「夏目、東京タワー登った!?」
「日向くんっ」
「さんおはよ、夏目もはよっ」
友人との会話に気を取られていて、日向くんの自転車が近くまで来ていたことに気づかなかった。
日向くんが自転車から降りる横で、友人も挨拶に応えてから、うんざりした様子で続けた。
「日向、言っとくけど、東京タワーなんてステキなところに登ってないから」
「じゃあ、どこ行ったの?」
「受験する学校ぜんぶ」
「げっ」
「全部って、なっちゃん、志望校ぜんぶ?」
「その全部。すべり止めも込み」
「うわ……」
慣れない東京とあって、受験校までの道のりをシミュレーションさせられたらしい。
「ば、万全を期すってやつだね」
「ばんぜんをきす??」
「日向はもうちょっと過去問やった方がいいかもよ」
「うぐっ、夏目、先生みたいなこと言うなよ」
「日向くん、呼ばれてるよ」
前の方にいる男子数人が、『翔ちゃーん』と手を振っているのがみえる。
日向くんも、今行くと腕を大きく振った。
「んじゃ、おれ行くっ。
またね、さん、夏目っ」
日向くんは自転車にまたがり行ってしまった。
目印になるいつものマフラーがもう遠い。
「あの、なに?」
肩を小突かれて友人を見ると、なにか言いたげにニヤニヤされて、それでいて何も言わない。
「なっちゃん、……なんですか」
「こっち帰ってきたなって思ってさ」
楽しそうに声を弾ませる。
「教室でも会えるのにさー、わっざわざ私たちの会話に入ってきたね」
「も、いいから、それは!」
「ははっ、ごめんって」
友人は、悪気のなさそうに軽やかに謝罪を口にして、一緒に校門を通り抜けた。
「ほんと、帰ってきたって感じだ」
ぽつりと漏らされた一言。
なんでだか胸がぎゅうっとした。
next.