「日向くんのボタン、もらっちゃダメかな!?」
勢いのまま飛び出したお願い事は、聞き手である日向くんにもきちんと届いていた。
“言葉”として。
「ボタン?」
「あ、いや……」
「ボタンって、なんの? さん、ボタンほしいの?」
「ごめん、いい、やっぱり」
「さん?」
心臓が、ばくばくいっている。
家庭科室のテーブルの上に広げっぱなしの針と糸をてきぱきと片付ける。
「さん、どうしたの?」
そりゃ、日向くんは不思議に思うに決まってる。
ボタンをいきなり欲しがられて、やっぱり『いい』って気が変わられたら、だれだって。
顔あげなきゃ。
ちゃんと、ちゃんとして。
裁縫箱のふたを、それぞれ留め具でカチッっと閉めた。
「日向くん、帰、「あげる」
間近だった。
「さんが欲しいならぜんぶあげる、どれでもっ。
どれほしい?」
日向くんが大の字みたく両腕を広げて屈託なく続けた。
「さんが欲しいんなら全部あげるっ」
ぜんぶ、くれるって、言ってくれている。
全部の、ボタン。
日向くんの制服とシャツを目で確認し、胸の内で自分のなかにまだ残るこの感覚をこっそりと確かめた。
一つ、呼吸。
いつも通りに。
笑え、自分。
「ぜ、んぶボタンくれたら、先生に怒られると思うよ?」
「そう?」
「ほら、シャツの第一ボタン開けてて呼び出されてる人いるし、前、閉められなくなったら寒いと思うんだ」
使っていた椅子を元の場所へと押し戻し、裁縫箱を両腕で抱きかかえた。持って帰ろう。
被服室の出口の方に歩き出す。
「それに、ほら」
なんて続けよう。
間を埋めるだけのおしゃべりが、中途半端なところで途切れてしまった。
代わりに空調のオフのボタンを押して、電気を消す。
あれ、
「日向くん?」
足音が付いてきてなかった。
電気を消した家庭科室は、入った時と同じ明るさだった。
「どうしたの?」
ぽつん、とさっきの場所に日向くんが立っている。
用事は済んだはずだった。
日向くんのボタンは、第二ボタンは、もうちゃんと制服に戻っている。
「日向くん」
「いらなくなった?」
影を落とした、かのような、トーン。
聞き返しても、もう一度は言ってくれなかった。
お昼の日差しは、風で流れてきた雲で隠れてしまったみたい。教室が途端、暗くなる。
日向くんが、その瞬間だけなかったみたいに続けた。
「さん、昼食べてく!?」
日向くんがこっちに来る。
日向くんの問いかけに頷く。お昼は学校で食べる。
「おれ、今日は弁当あるからいっしょに食べよう」
「うん」
「よしっ、じゃあ、教室に」
日向くんは扉に手をかけた。
私は抱えていた裁縫箱を取り落とした。
落下したプラスチックの大きな箱は、その大きさの分だけ音を立て、留め具が片方はずれ、中に入っていたチャコペンと糸が飛び出した。
日向くんの方が早くしゃがんで拾ってくれた。
私もしゃがんで、裁縫箱のふたを一度外した。
日向くんが床に飛び出したものを元あった位置に入れてくれた。
「これ、ここで合ってる?」
「合ってる」
「よかった!」
「ありがとう」
「どういたしましてっ」
日向くんがスッと立ち上がった。
しゃがんだまま目で追った。
日向くんも視線に気づいてこっちを見下ろした。
「さん?」
ふたが完璧にしまった裁縫箱を抱えて、今度は視線を外した。
ぎゅっと抱きかかえて自分の上履きを見て、日向くんの上履きを見た。
日向の苗字に、「2」とうっすら書かれた上にサインペンで3年のクラスがはっきり書かれている。
誰かに踏まれたみたいだと思っている内に、日向と書かれた上履きが私の上履きと向き合った。
「さん、おなかすかないの?」
「……すいてる」
「そっか、食欲あるならよかった」
「なんで?」
「具合悪いんじゃないかって、ちがったならよかった! あ、でも、おなかすきすぎて動けないのか」
つい、噴き出してしまった。
ちがうよ。
私の返事を聞いて、日向くんも明るく続けた。
「いま、おれ、食べれるもん持ってないから、どうしよ」
「大丈夫だってば」
「教室行ったら弁当分けれるっ」
「いい、動ける」
なんだか楽しくなってきて、日向くんも同じだったのか自分の膝に腕を回しつつ笑った。
「さん動けないなら、おれが教室まで行ってくるっ」
「カバン持ってきてくれるの?」
「そうっ、それか、さん」
日向くんが言葉を切った。
さん?
言葉の続きを促すようにくりかえすと、日向くんが腕で口元を隠して視線を横にずらした。
「さん、教室まで運ぶ……」
制服にくっついて話すから、はっきりとは聞き取れなかったけど、戻された視線に射貫かれて、意味は、通じた。
はずかしくなって裁縫箱を強く抱きしめていた。
「そ、それも大丈夫。 行こう、教室」
「もうへーき?」
「平気、だいじょーぶ……」
今度は先に立ち上がった。
日向くんがしゃがんだまま。
大丈夫、だいじょうぶ、だいじょうぶ……
おまじないみたいに頭の中でリピートされた。
日向くんが立ち上がった。
内側とはいえ、家庭科室の扉の前で、私たちは何をやっているんだろう。
それでも視線は外せなかった。
鼓動が早い。
「いる、から」
ぎゅっと、裁縫箱を抱きしめる。
「ほしいなって、日向くんの……」
ただの、ボタンじゃなくて、全部をねだりたいんじゃなくて。
「第二ボタン、欲しいなって。
いらなく、ない」
今度は、落としてしまわないように、裁縫箱を抱えなおした。
伝えてから、羞恥心が追いかけてくる。
「もう行こう」
「外せばいい? これ」
日向くんが、さっきくっつけたばかりの第二ボタンをつまんでいた。
それは、確かに第二ボタンだ。
「日向くん、それつけたばっかりだから」
「さん欲しいなら」
「そうじゃなくて」
いらなくなったわけでもなくて。
誤解されないようにすぐ付け加えた。
ちゃんと、言わなきゃ。気持ち、ちゃんと。
腕の中の裁縫箱が、カタ、と音がした。
中身が飛び出すことはない。私が抱きかかえている。私は、抱きかかえられている。
さんがほしいなら、おれ、このボタンなくていい。
先生に怒られてもいい。
さんがこのボタンでうれしいなら、それだけでうれしい。
「……って、おれは、その、思っている!」
「う、うん」
日向くんが急にびしっと真っ直ぐに立った。
日向くんの熱が伝染している。
すぐそばで聞いた声の余韻がすごい。
二人してしばらく固まっていた。
日向くんは、くるりと私に背を向けて、何度となく繰り返した家庭科室の扉に触れ、たかと思うと、また振り返った。
「今すぐ、糸のハサミで切っていいよっ」
「いいって!」
「さんうれしいならさっ」
「日向くん、あのね」
第二ボタンは、と、説明しかけて、やっぱり首を横に振った。
手を伸ばし、第二ボタンに触れた。
「卒業式の日に、……ください」
「そ、そつぎょー、しき?」
日向くんの声が裏返っている。
卒業式。噛みしめて口にする
学ランには一番目も三番目も四番目も、同じボタンが並んでいる。
同じ校章、同じ大きさ。同じだけ日向くんと過ごしてきたボタン。
指先を外した。
「約束だよ?」
「う、うん!! ぜったいさんにあげるっ、今すぐあげてもぜんぜん!」
「それはダメだって」
「でもっ」
「私が一生懸命つけたんだけどな」
「!!そうっ、だった!」
ボタンをすぐあげたいけど、さんにつけてもらったボタン……!!
家庭科室を先に出ると、日向くんが後ろで頭を抱えていた。
ボタンじゃなくて、第二ボタンなんだよって。
第二ボタンの意味って、さ。
日向くんに尋ねてみたかったけど、それじゃダメなんだって、やっとわかった。
まだ後ろで日向くんが唸っている。
「日向くん、早く教室行こっ」
日向くんがハッとした様子で顔を上げてすぐとなりまで来てくれた。
next.