ハニーチ

スロウ・エール 193





さんがさ」


となりで、日向くんが頭の後ろで腕を組みながら言った。


「つけてくれたって思うと、このボタンだけ特別な気がするっ」


いつも、こんな風に。

日向くんには、何の気なしに振り回されている気がする。


「……」


両腕でしっかりと裁縫箱を持ち直した。


「また、ボタン取れるようなことしちゃダメだよ」

「しないっ! これ、さんのだしっ」


日向くんがまた第二ボタンを得意げにつまんだ。


「あの、それ、他の人に言わないでね」

「“それ”って?」

「ボタンの話」

さんにあげるってこと?」

「そ!」


人気のなかった被服室から打って変わって、教室に近づけば、自然、同じ学年の人たちが多くなってくる。

廊下の向こうにクラスメイトが何人も見える。

こんな話、誰かに聞かれたら。


さんとの秘密、……また増えたな」


日向くんが、どこか満足げにつぶやいた。

聞き間違いかと思って、つい横顔を見つめてしまったら、この距離だ。すぐ日向くんに気づかれた。


「な! なんでもない、なんでもっ。 言わないから、さんとの約束っ」


日向くんが視線を泳がせて天井を見上げた。

廊下を並んで歩いていく。

また雲が逸れたのか、お日様がまばゆく廊下を照らし、窓の外で大きく成長していた木の影も、私たちのもすっと伸びていた。


日向くんとの秘密、やくそく。



“ ずっと黙ってる訳じゃないよね? ”


いつか日向くんに言われた言葉が、不意に響いた。

と、同時、胸の奥で、なにかが羽ばたこうとする予感も。どこからともなく。


ぼんやりしていたせいで、少しだけ先を歩く日向くんに追いつこうとした時だった。



、いた!」

「なっちゃん!」


後ろから肩をつかまれてびっくりして振り返ると、日向くんもこっちに気づいて足を止めた。


「夏目、さん探してたんだ」

「遅いから被服室に行ってみたらいなくて、入れ違うかと思った」

「何か用事?」


友人はいつも塾があるから、ここのところ一緒に帰る機会も少なかった。

話を聞けば、今日は塾の予定がないらしい。


「久しぶりにと昼食べたいなって」

「いいよ、食べよ」

「はい、夏目! おれもいますっ」

「えーー」

「えーってなんだよっ、その反応。 じゃっかん傷つくだろっ」

「若干ならいいじゃん」

「よくはないっ」


冬休み明けのせいか、二人だけじゃなく、どこでも友達同士で会話が弾んでいるみたいだった。

廊下、いつもよりにぎやかだなあと耳を傾けていると、今度は誰かに肩を叩かれた。

同じクラスの泉くん。


さん、今いい?」

「うん」


日向くんたちがぽんぽんと弾むように会話?をしているけど、私は傍観しているだけだ。


「担任が呼んでたよ」

「え……、なんだろ」


今日の卒業式の予行練習のことがよぎる。
また何か頼まれごとだろうか。

泉くんが申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめん、何の用か聞いてなくて」

「いいよ全然、教えてくれてありがと」


裁縫箱、教室に置いたらすぐ職員室に行ってこよう。
ご飯を食べてからでもいいけど、また変な頼まれごとだったりしたら困る。


「あの……さん」

「なに?」

「翔ちゃんと夏目ってなにやってるかわかる?」

「なにって……、なにやってんだろ」


先生の呼び出しに気を取られている内に、二人は真剣に向き合って、あっちむいてほいをしていた。

今のは、なっちゃんの勝ち。

日向くんが華麗に人差し指の方向に顔を向いてしまい、同時にしゃがみ込んで頭を抱えた。

友人がいつもと違って飛び跳ねて喜んでいた。


「私の勝ち!」


勢いよく日向くんが立ち上がった。


「ずっ、ずるいだろ、夏目!いまの! もっかいやり直し!」

「次の勝負で決めるって言ったの、日向だし」

「そ、れは言った、けど、不意打ちだった! イズミンっ」


急に呼ばれてそばにいた泉くんが肩をひゅっと上下させた。


「な、なに、翔ちゃん」

「今の夏目、ずるかったよな!?」

「ごめん、見てない」

さんは!?」

「ご、ごめん、よくわかんない。 なっちゃんと日向くん、なにやってんの?」


とどっちが一緒に飯食うかだって」


通りかかった関向くんが教えてくれた。


「コージー、今の夏目が悪いよなっ!? な!」

「見てなかった」

「コーージーーー!」

「いや、一緒に食べよ!?」


なんで泉くんとしゃべってる間に、どっちか片方とご飯を食べることになってるのか。
チラと友人を見れば、口元を緩ませている。ぜったい日向くんからかってる。

さすがにツッコもうとした時、関向くんがポツリと言った。


、担任が職員室で待ってるってさ」


「なんでさん??」


日向くんの問いかけに、関向くんが知らないっていうポーズを取った。


「日誌渡した時に見かけたら伝えろって」

「げっ、てことは、私、明日、日直か。忘れてた」

「黒板の名前は書いといたよ」

「泉、サンキュ!」

「じゃあ、おれとさん、明後日、日直だっ」

「翔陽、最後の日直の号令、やらかすなよな」

「やっ、やらかしたことないって!!」


こんな風に廊下でやり取りするこの瞬間、この中に自分もちゃんといるのに、なんでだか、一歩引いて見えた気がした。

お昼の日が差すこの場所で、なんてことのないことを話して、こんな風に笑って。

まるで、ぱしゃり、心の奥でシャッターが切られる。


さんっ」


日向くんに声をかけられて、また、この場所に引き戻された。

何の話だったっけ。


「職員室行くなら、それ机に置いとくよ?」

「あ、……じゃあ、頼んでいいかな」

「おうっ! 任せてっ」

「日向くん、お昼はさきに、「待ってる」


日向くんが私の裁縫箱を受け取りつつ、即答した。


さん来るの、待ってるからっ」


歯切れよく、きっぱりと、日向くんは断言した。

私は、身軽になっていた。


「あ……、ありがと、日向くん」

「ううん、いってらっしゃい!」

「日向はさきに食べてていいんだよ、勝負に勝ったの私だし」

「夏目、3回勝負だ!!」

「えーー、いいよ」

「いいのかよ!!」

「千奈津、程々にしとけよ」

「日向が、あっちむいてほいこんな弱いと思わなくってさ」

「翔ちゃん、目がいいから夏目のやり方だと引っかかるかもね」

「イズミンもやったことあんの!?」


みんなが教室に向かっていく。

私は職員室に行かないと。

背後で聞こえてくる会話に耳を傾け、少し振り返ると、一歩だけみんなより後ろにいた日向くんと目が合った。

なんで、すぐ、気づいてくれるんだろう。

小さく手を振ると、日向くんも笑って振り返してくれた。


スキップでもしたくなった。


私、日向くんすきだ。


重たい気分も消し飛んで職員室に行き、担任の先生に声をかけると、卒業式の予行練習の代役を務めたからと、なんでだか先生の愛飲する缶コーヒーをもらい受けた。
しかも、中途半端に3本。

教室に戻ったら、じゃんけん大会になるかもしれない。
そんな想像をしつつ教室に戻った。


日向くんが一番に、おかえりをくれた。



next.