「さんがさ」
となりで、日向くんが頭の後ろで腕を組みながら言った。
「つけてくれたって思うと、このボタンだけ特別な気がするっ」
いつも、こんな風に。
日向くんには、何の気なしに振り回されている気がする。
「……」
両腕でしっかりと裁縫箱を持ち直した。
「また、ボタン取れるようなことしちゃダメだよ」
「しないっ! これ、さんのだしっ」
日向くんがまた第二ボタンを得意げにつまんだ。
「あの、それ、他の人に言わないでね」
「“それ”って?」
「ボタンの話」
「さんにあげるってこと?」
「そ!」
人気のなかった被服室から打って変わって、教室に近づけば、自然、同じ学年の人たちが多くなってくる。
廊下の向こうにクラスメイトが何人も見える。
こんな話、誰かに聞かれたら。
「さんとの秘密、……また増えたな」
日向くんが、どこか満足げにつぶやいた。
聞き間違いかと思って、つい横顔を見つめてしまったら、この距離だ。すぐ日向くんに気づかれた。
「な! なんでもない、なんでもっ。 言わないから、さんとの約束っ」
日向くんが視線を泳がせて天井を見上げた。
廊下を並んで歩いていく。
また雲が逸れたのか、お日様がまばゆく廊下を照らし、窓の外で大きく成長していた木の影も、私たちのもすっと伸びていた。
日向くんとの秘密、やくそく。
“ ずっと黙ってる訳じゃないよね? ”
いつか日向くんに言われた言葉が、不意に響いた。
と、同時、胸の奥で、なにかが羽ばたこうとする予感も。どこからともなく。
ぼんやりしていたせいで、少しだけ先を歩く日向くんに追いつこうとした時だった。
「、いた!」
「なっちゃん!」
後ろから肩をつかまれてびっくりして振り返ると、日向くんもこっちに気づいて足を止めた。
「夏目、さん探してたんだ」
「遅いから被服室に行ってみたらいなくて、入れ違うかと思った」
「何か用事?」
友人はいつも塾があるから、ここのところ一緒に帰る機会も少なかった。
話を聞けば、今日は塾の予定がないらしい。
「久しぶりにと昼食べたいなって」
「いいよ、食べよ」
「はい、夏目! おれもいますっ」
「えーー」
「えーってなんだよっ、その反応。 じゃっかん傷つくだろっ」
「若干ならいいじゃん」
「よくはないっ」
冬休み明けのせいか、二人だけじゃなく、どこでも友達同士で会話が弾んでいるみたいだった。
廊下、いつもよりにぎやかだなあと耳を傾けていると、今度は誰かに肩を叩かれた。
同じクラスの泉くん。
「さん、今いい?」
「うん」
日向くんたちがぽんぽんと弾むように会話?をしているけど、私は傍観しているだけだ。
「担任が呼んでたよ」
「え……、なんだろ」
今日の卒業式の予行練習のことがよぎる。
また何か頼まれごとだろうか。
泉くんが申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、何の用か聞いてなくて」
「いいよ全然、教えてくれてありがと」
裁縫箱、教室に置いたらすぐ職員室に行ってこよう。
ご飯を食べてからでもいいけど、また変な頼まれごとだったりしたら困る。
「あの……さん」
「なに?」
「翔ちゃんと夏目ってなにやってるかわかる?」
「なにって……、なにやってんだろ」
先生の呼び出しに気を取られている内に、二人は真剣に向き合って、あっちむいてほいをしていた。
今のは、なっちゃんの勝ち。
日向くんが華麗に人差し指の方向に顔を向いてしまい、同時にしゃがみ込んで頭を抱えた。
友人がいつもと違って飛び跳ねて喜んでいた。
「私の勝ち!」
勢いよく日向くんが立ち上がった。
「ずっ、ずるいだろ、夏目!いまの! もっかいやり直し!」
「次の勝負で決めるって言ったの、日向だし」
「そ、れは言った、けど、不意打ちだった! イズミンっ」
急に呼ばれてそばにいた泉くんが肩をひゅっと上下させた。
「な、なに、翔ちゃん」
「今の夏目、ずるかったよな!?」
「ごめん、見てない」
「さんは!?」
「ご、ごめん、よくわかんない。 なっちゃんと日向くん、なにやってんの?」
「とどっちが一緒に飯食うかだって」
通りかかった関向くんが教えてくれた。
「コージー、今の夏目が悪いよなっ!? な!」
「見てなかった」
「コーージーーー!」
「いや、一緒に食べよ!?」
なんで泉くんとしゃべってる間に、どっちか片方とご飯を食べることになってるのか。
チラと友人を見れば、口元を緩ませている。ぜったい日向くんからかってる。
さすがにツッコもうとした時、関向くんがポツリと言った。
「、担任が職員室で待ってるってさ」
「なんでさん??」
日向くんの問いかけに、関向くんが知らないっていうポーズを取った。
「日誌渡した時に見かけたら伝えろって」
「げっ、てことは、私、明日、日直か。忘れてた」
「黒板の名前は書いといたよ」
「泉、サンキュ!」
「じゃあ、おれとさん、明後日、日直だっ」
「翔陽、最後の日直の号令、やらかすなよな」
「やっ、やらかしたことないって!!」
こんな風に廊下でやり取りするこの瞬間、この中に自分もちゃんといるのに、なんでだか、一歩引いて見えた気がした。
お昼の日が差すこの場所で、なんてことのないことを話して、こんな風に笑って。
まるで、ぱしゃり、心の奥でシャッターが切られる。
「さんっ」
日向くんに声をかけられて、また、この場所に引き戻された。
何の話だったっけ。
「職員室行くなら、それ机に置いとくよ?」
「あ、……じゃあ、頼んでいいかな」
「おうっ! 任せてっ」
「日向くん、お昼はさきに、「待ってる」
日向くんが私の裁縫箱を受け取りつつ、即答した。
「さん来るの、待ってるからっ」
歯切れよく、きっぱりと、日向くんは断言した。
私は、身軽になっていた。
「あ……、ありがと、日向くん」
「ううん、いってらっしゃい!」
「日向はさきに食べてていいんだよ、勝負に勝ったの私だし」
「夏目、3回勝負だ!!」
「えーー、いいよ」
「いいのかよ!!」
「千奈津、程々にしとけよ」
「日向が、あっちむいてほいこんな弱いと思わなくってさ」
「翔ちゃん、目がいいから夏目のやり方だと引っかかるかもね」
「イズミンもやったことあんの!?」
みんなが教室に向かっていく。
私は職員室に行かないと。
背後で聞こえてくる会話に耳を傾け、少し振り返ると、一歩だけみんなより後ろにいた日向くんと目が合った。
なんで、すぐ、気づいてくれるんだろう。
小さく手を振ると、日向くんも笑って振り返してくれた。
スキップでもしたくなった。
私、日向くんすきだ。
重たい気分も消し飛んで職員室に行き、担任の先生に声をかけると、卒業式の予行練習の代役を務めたからと、なんでだか先生の愛飲する缶コーヒーをもらい受けた。
しかも、中途半端に3本。
教室に戻ったら、じゃんけん大会になるかもしれない。
そんな想像をしつつ教室に戻った。
日向くんが一番に、おかえりをくれた。
next.