ハニーチ

スロウ・エール 196




問題に集中して1時間くらいだろうか。

熱くて持ちづらかった紅茶もぬるまり、店内は私たちが入った時よりも混みだしていた。

BGMとざわつきの中で名前を呼ばれた。

いきなりの呼びかけも、顔を見ればすぐわかる。

小学生の男の子だ。
祖父の家で何度も練習に付き合っていたうちの一人。

最近、姿を見ないなと思ったら、元気そうでよかった。

久しぶりだね。

声をかける先に、相手に言われた。


ちゃん、デート?」


がくっと思わず力が抜ける。

最近の小学生は、ませている。

向かいの飛雄くんも訳の分からなさからか、鉛筆の芯を折っていた。
こんなデートするはずない。


「べ、ん、きょ、う、してるのっ」

「前はオレンジ頭といたのに乗り換えたんだ」

「乗り換っ、どこで習ったの、そんな言葉」

ちゃんと同じ学校?」

「こらっ」


遠慮のない小学生は私たちのテーブルに手を付いたかと思えば、知り合いでもなんでもない飛雄くんにも話しかける。

答えなくていいから。

口を挟んだのに、飛雄くんは律義に答えた。違う。

どこか私が苦手だった頃の雰囲気になっていた気がして、この子がびっくりしないかと心配になったのも束の間、すぐまた口を開いた。


ちゃんとどこで知り合ったの?」

「ちょっと!」

「体育館、……だったか?」

「ちょっと!! 答えなくていいから」


そう言いつつも、なんで去年の夏に会ったのに疑問形なのとにらむと、飛雄くんと目が合った。


「勝手にひとりで行かないの!! あ、ちゃん」

「こ、こんにちはっ」


いや、こんばんは、か。

言い直して椅子から腰を上げ、この子のお母さんとよくある挨拶を交わした。

お母さんの手にはお店のビニール袋。

親子でこのファーストフード店に来て、この少年だけお母さんを置いて店内をうろついていたらしい。
どこにもいかせないとばかりに、お母さんのもう片方の手は、少年の手を強く掴んでいた。


「邪魔してごめんね」

「いえ」

「あと、一繋さんにもよろしくね。おかげさまで通ってますって」

「え?」

「聞いてない? この子、地域のバレーチームに入ったの」

「えっ、そうだったんですか! そっか……」


だから、祖父の家に来なくなったのか。

言われてみれば、身長の変化だけじゃなく、体つきも前に会った時より成長している気がした。

照れくさいのか、少年はもうそっぽを向いていた。

お母さんに連れられていく去り際だけ、こっちを振り返った。


「また、おじいちゃんち、いつでもおいで。

 待ってるから」


手を振ると、すぐまた前を向いて行ってしまった。

もう、来てくれないのかな。


あ。



「飛雄くん、ごめん!」

「なんで謝んだよ」

「勉強の邪魔、したから」

「別に」

「今のね、その、バレー仲間で」


バレーと聞くと、途端に飛雄くんの目つきが変わる。

慌てて説明した。


「その、おじいちゃんがバレー好きで、近所の子たちに教えたりしてて」


さっきの子は、その内の一人で。

私は、おじいちゃんが教える時にたまに練習に混ざったり、トスを上げていて。


「だから、さっき声かけてくれたんだと思う」


って、説明されても困るか。ごめん。





怒られる。

反射的に肩をすくめたものの、飛雄くんからは何もなかった。


「……?」


おそるおそる視線を上げると、飛雄くんは何やら難しい顔をしてどこかを見つめていた。

何か、そっちにあるんだろうか。

飛雄くんの視線を追いかけたものの、別段変わったもののない店内の光景だった。


「謝んなくていい」


ぽつり、聞こえたのは、飛雄くんの一声だった。


今度こそ、きちんと目が合う。



悪くないのに謝んな」

「ごめん、あっ」


さっそく謝ってしまった。

口元を片手で覆ってみても、発せられた言葉は取り戻せない。

あ、あれ。


「なに見てんだ」

「いや、飛雄くんってちゃんと、その、笑うんだって」

「わ……笑ってねー」

「照れなくていいのに、もっかい笑ってみて、ほらっ、ねえ、ニコって!」


なんだか珍しいものに出会えたような、楽しい発見をしたような、そんなワクワク感から飛雄くんに何度も話しかけてみたものの、やっぱり、というべきか、同じ笑顔には出会えなかった。


「よし、勉強再開しよっか」


いつまでもふざけている場合じゃない。

この場をまとめるように手拍子一つ打ってみる。

飛雄くんも同じくペンを握った。


「……も、習ってたのか?」

「え、バレー? そうだよ、おじいちゃんに習ってた」


従兄もバレーやってて、だから、小っちゃい頃からバレーはそばにあって。


なんでだか、今日は饒舌に自分のことを飛雄くんに話してしまった。

一度だけとはいえ、見たことない笑顔を見つけてしまったから、気分が高揚していたのかもしれない。仲良くなれた、みたいな。


おじいちゃんの家でバレーをしていたこと。
夢中でバレーに没頭していたこと。
バレーのチームに入ったこと。

やめちゃったところはスキップして、今は、かつての自分のようにバレーを志す小学生たちと練習していること。

ついでに、おじいちゃんに最近練習を見てもらっていること。
どうせ試合をするなら、ちゃんとしたい。


「でもね、この夏におじいちゃん倒れちゃって、あっ、今はけっこう元気になったんだけど」


無理はさせられないから、今度の体育館での試合観戦はやんわりと断っておいた。

下手するとコーチしたんだから、と覗きに来る可能性がある。
冬は寒いんだから無理しないでほしい。

私以外にも、おじいちゃんが教えている人は、たくさんいるんだから。


そんな、けっこうな私情まで話してしまった。


つまらなくないかなって、心配にはなったけど、飛雄くんはテスト勉強する時みたく睡魔に誘われることもなく、はじめて会った時みたく怖い顔にもならなかった。

ただ、少しだけ。



「飛雄くん」



なにを、言いだそうとしているんだ。

言わんとしたことが喉奥で突っかかる。


いつまでも言葉の続きを口にしない私に、飛雄くんは首を傾げた。

気のせいだって思うんだけど、心に引っかかって。

かといって、素直に口にするのは憚られた。


「な、なんでも、ない」

「?」

「勉強しよ、べんきょう!」

「おう」


受験生だから勉強すべきってのは本当だ。
だから、いま自分が思ったことを言葉にしなかっただけだ。

自分に言い聞かせながら、伝えられなかった言葉が胸の奥に佇んでいる。

私が祖父の話をしている時、ほんの一瞬、いや、ときどき、飛雄くんは、どこかかなしそうだった。

“さびしそう”だった。


見間違いかな。かんちがいだよな。いや、でも。

いや、言ってどうするんだ。


「……」


向かいで飛雄くんが鉛筆を走らせる。
せっせと漢字の書き取りに精を出しているようだ。


勉強って楽だ。

答えがある。

わからなかったら答え合わせをして、理解できなければ解説を読めばいい。

飛雄くんの解説書、あればいいのに。


そういえば、飛雄くんが誰にバレーを習ったか知らない。いつからかも。

私たちを引き合わせてくれた先生からもらった古い写真に一緒に映っていたから、きっと小さい頃からバレーをしているんだろう。

もしかして、飛雄くんも自分のおじいちゃんに習ってたのかな。それか、お父さんとか。お母さん?




「なに?」

「鉛筆削りあるか」

「ない。 また折った? シャーペン貸そうか」

「!!」

「使っていいよ、どうぞ」


デザインが飛雄くんに響いたのか、銀色のシャーペンを見て、ヒーローを前にした子どもみたくどこか興奮した様子だった。
カチカチカチ、とシャーペンを押す指の動きも速い。押しすぎだけど。


、ありがとな」

「! ううん」

「?」


私は、飛雄くんのこと、全然知らない。


白鳥沢の問題を解きながら、この受験が終わったら、こんな風に向かい合うこともないんだって今になって実感した。


店内は暑いくらいなのに、どこからか冬の寒さが伝染してくるようだった。


バイブ音、ひとつ。

カバンの口に手を入れて確認すると、携帯電話のディスプレイには「日向翔陽さんから新着メッセージが届いています」が一定の速度で流れていた。


すごい。
日向くんって、すごい。


自分の問題と向き合い直す。


いま、やれることをやろう。



next.