“オレンジ、好きっつってただろ”
飛雄くんの温度が移ったお菓子のパッケージは、てかてかと反射していた。
オレンジ色、に見えなくもない。
実際は、濃い黄色、だろうか。中身はビスケットで、オレンジ味でないことは確かだ。
「行くぞ」
飛雄くんはもう用は済んだとばかりに歩き出す。
手のひらの小さなビスケットは、冷たい夜風にさらわれそうで、すぐさま手の中に閉じ込めた。
隣に並ぶと視線を落とされる。
座っている時はあんまり意識しないけど、やっぱり、この人は背が高い。
バレー選手っていうのがしっくりくる。
飛雄くんが小首をかしげた。
「なんだよ」
「いや、その、ありがと」
「おう」
なんでくれるの?だとか、なんでオレンジ好きって覚えてるの?だとか、聞いてみたい気もしたけど、どうでもいいとも思った。
さっきより隣り合った速度、合わせてくれた気もする。
飛雄くんの手首には、キットカットをくれた子用のお菓子の入ったビニール袋が揺れている。
電灯と電灯のあいだが広くなって暗さが増した歩道。
時折駆け抜ける北風もあって物寂しさが増すのに、飛雄くんがいつもと何一つ変わらないから、なんでかいつもと同じ心持ちでいられた。
かといって、会話が弾むまでもない。
飛雄くんは黙って私のとなりにいる。
一つ呼吸する度、白く息が立ち上る。
私も同じ。
二人分の熱が、時折現れる電灯に照らされ、ひどく寒いことを暗に伝えてくれた。
握っていた“オレンジ”と称されたパッケージを、明るい電灯の下で確かめて、指先でいじった。
中身を口に投げ入れると、ビスケットを覆っていたチョコレートの表面は、ほんのりやわらかかった。
くしゃ、と包み紙を握りしめる。
口の中でミルクチョコレートが溶けだす。
「あのさ」
声をかけると、まっすぐ前を向いていた飛雄くんがまたこっちを向いた。
「これ、オレンジ味じゃないんだよ」
「! 何味だ」
「ミルクチョコ、中にビスケットが入ってる」
「……」
「でもおいしい」
元気出てくる。
そう付け加えると、飛雄くんが短く相槌をして眉間に寄ったしわを消した。
何かつぶやいたことは、白い吐息でわかった。
聞き返すと、今度は視線をそらされた。
「好きだったか、って聞いたんだ」
「好きだよ」
「……そうかよ」
怒ってるのかな、照れてるのかな。
わからない。
それ以上会話を弾ませるわけでもなく、一人で口の中に残る甘さを飲み込んだ。
バス停が見えてきた。
「、どこ行くんだ?」
目的地が近づいているのに回れ右をした私に、飛雄くんはそう呼びかけた。
さすがに寒くて両手をコートに入れて答えた。
「今日はもうちょっと歩こうと思って。 ほら、体力作りに」
いつもならバスに乗って素早く帰るところだが、あの体育館での試合まで日もない。
雪も降ってないんだし、少しでも身体を動かしたかった。
「なんで飛雄くんが屈伸してるの?」
「走んだろ」
「走っ、あ、歩くの!」
飛雄くんはお菓子の入った袋をカバンの中にしまうと、方向転換も束の間、行くぞ、と急に速度を上げた。私の手首をつかんで。
「待っ!」
言葉が早さに追いつけない。
飛雄くんは走んなくていいのに。もう体力あるんだし。なんで引っ張っるの。置いてけばいいのに。一緒じゃなくていいのに。並べるわけない、私は一般的な女子生徒で、飛雄くんは、日本代表になるかもしれない人で。
「」
急ブレーキ、寒かったはずの身体の奥底はいきなりの走りでドキドキとは違う高鳴りで満たされ、じんわりと熱を伴っていた。
そのせいか、飛雄くんの指先がおでこにふれたとき、氷みたいに感じた。
「髪、……食ってるぞ」
飛雄くんが払ってくれたのは、私の髪ひと筋だったようだ。
「たっ食べてない」
反論してすぐ口周りをチェックした。
いきなり走るから、飛雄くんが引っ張るから、たまたま髪が唇にくっついたんだ。
「ねえ、聞いてるっ?」
「どこまで行く?」
気恥ずかしさでいっぱいの私をよそに、飛雄くんの視線はここでもなく、もっと、ここではないどこかを見据えているようだった。
次に視線が向けられた時、背筋がぞわっとしたのは、飛雄くんの無自覚な真剣さになんでだか当てられたからだ。
瞬間的に高まった熱は、立ち止まればすぐさま冷めていく。
その熱を持続させたかった。
「……次の、バス停まで!」
「おう」
「手! 手は、いいからっ」
当然のごとく飛雄くんは私の手を掴もうとしたから、今度はすかさず避けた。
飛雄くんは怪訝そうに私を見つめていたが、いくらなんでも足の速い飛雄くんに引っ張られ続けたら私の身がもたない。
「置いてっていいよ」
「、先いけ」
「えっ」
「俺がうしろなら、はぐれないだろ」
「……はぐ、れても、一本道なんだし」
なんでそんなこと言うの。なんで人の手をかんたんに……
あ、悪い癖だ。
ごちゃごちゃと考えだしてしまう。余計なことだ、いつだって“ここ”で決めたいって思ったじゃないか。
私が、どうしたいのか。
遠く光る、てんてんと電灯の続く歩道。
「私、待たないからねっ」
飛雄くんを置いていけるほど速く走れる自信はないし、実際、飛雄くんの方がずっと早いんだけど。
それぐらい、早く走りたかった。
走れるくらい、コートの中で動けるようになりたい。
いまさらでも、当日に間に合わなくても、走らずにいられない。
バレーをずっと続けていればと後悔があっても、今この瞬間も”いま”しかないんだから、ただ、ひたすらに走った。
息が切れて、苦しくて、そんなやっとな感じでいつもより離れたところでバスに乗った。
バテている私の横で、飛雄くんはほんの少しだけ肩で息をし、得意げな表情をしていた。
目が合うとなんだか満足そうに口元が緩んでいたから、よし、とした。
なんだか、すごく、友達っぽい。
気持ちは軽くなったけれど体力的には限界で、帰ったら返そうと思っていた日向くんのメールは翌日になってしまった。
「さん!」
「日向くんっ、早くない!?」
翌日、いつもより朝早い時間帯、日向くんと私は通学路から少し外れた道で待ち合わせをした。
メールを返せなかったのは私なんだからとはりきって家を出たというのに、いつもの自転車のそばに、いつものマフラーをした日向くんが立っていた。
駆け寄ると日向くんが明るく声を弾ませた。
「おはよ!!」
「おはよう。待った?」
「んーん、さんが来るちょっと前に着いた!」
「ほんと?」
「うそっぽい?」
「じゃなくて」
やっと空が明るくなってきたくらいだから、日向くんが寒くなかったか心配しただけだ。
そう呟くと、日向くんがポケットをガサゴソとさぐって近づけてきた。
「今日も、これあるから!」
私のほっぺたにいきなりくっつけられたのは、昨日も活躍した秘密兵器、もといホッカイロだ。
日向くんの元気な様子も相まって、心配する気持ちもどこかに消えた。
「さん使う?」
「ううん、ほら」
「あ、さんもひみつへーきだっ」
「日向くんの真似してひみつへーき」
ポケットの中にあたたかなホッカイロをお互い戻し、顔を見合わせた。
「行こっか」
「おー!」
日向くんが自転車止めを蹴って、またがることはせず押し始めた。
乗ってもいいよって言おうか迷った。
「朝起きたらさんからメールあってうれしかった!」
心からそう言ってくれているのがよくわかって、なんだかくすぐったくなる。
「昨日、返せなくてごめんね」
「いいよ、おかげで今日いっしょに学校行けるんだし」
「日向くん、いつもより早起きになってない?」
「大丈夫、さんからメールもらったくらいに起きてるから」
「早いね、寒いのに」
「そう?」
「いつもこの時間なの?」
「起きるのは! 最近さ、烏野でバレーすんだからってもっと走ってる!」
はきはきと日向くんがしゃべっているのを聞いていると、空がだんだん明るくなってきた。
「家で走ってから自転車で学校ってすごいね」
いつぞやの日向くんの家に行った時のことを思い出して、単なるランニングにならないことは想像がついた。
日向くんは自転車をゆっくり押しつづけた。
「すごいかな? ずっとそうだったから自分じゃわかんないけど」
日向くんが笑って続けた。
「さんがそう言ってくれんなら、おれ、すごいかも!」
きら、きらきら、白い世界が、まぶしくなっていく。
暗い時間が遠のいて、いやがおうでも空が輝きだす。
「さん?」
「……わたしも、走ろっかな」
「はしる??」
「ちょっとあそこまで!!」
「え!? さん、さーん!!」
あの、電信柱まで。
あの曲がり角まで?
どこまで走るべきか、はしれるか、わからない。
日向くんが付いてきてくれているのは音でわかった。
まだ道はいっしょだ。
next.