「さん、はやい!」
日向くんが自転車を勢いよく押してすぐ追いついてきてくれた。
宣言通り、ちょっとそこまで走ってふりかえると、すぐそこに日向くんがいる。
お互いに息を切らすほど全力疾走はしていないけど、静かな朝は二人分の駆け足も声も響いた。
日向くんがこっちに身を乗り出すように尋ねた。
「さん、学校に用事あんの?日直?」
「私たちは明後日だよ」
あ、もう明日か。
昨日お昼ご飯を食べようとしていた時だったか、皆とそんな話題になったのを思い出して言い直す。
どちらともなしに歩き出した。
通学路から外れた道は、同じ制服を着た人は見かけなかった。
「明日で、おれたち日直最後?」
「順番的には……そー、だったと思う」
しばらくしたら自由登校になる、イコール、日直はじめ当番ぜんぶから解放される。
教室で自習していていいらしいけど、来る人もいれば来ない人もいるからホームルームだって無くなる。
「おれは学校行くっ」
日向くんは胸を張って言い切った。
「遠いのに?」
「家だと勉強しづらい、つーかできない!」
「あー、夏ちゃん遊んでほしいもんね」
「夏がっていうより、おれが、その、集中……」
日向くんがばつの悪そうに肩をすくめるから、小さく笑いを噛みしめた。
それに気づいた日向くんが、ぱっと表情を切り替えて続けた。
「さんはっ? 学校、来る?」
「毎日は来ないけど、ちょくちょく?」
「来る日あったら教えてっ」
「いいけど、なんで?」
「さんがとなりにいたら、おれ、もっと勉強がんばれそうっ」
すごくはりきって日向くんが言うから、なんだか照れくさくて日の当たり始めた木を見上げた。
葉っぱがない分、枝の先が光って見える。
「私がいなくても、日向くん十分がんばれてるよ」
「そ、そうかな」
「昨日も補講、ちゃんと……」
自分で言い出したくせに、昨日の電話のことが思い浮かんで口をつぐんでしまった。
“おれ、さんすきだから!!”
高らかに耳元に届いた日向くんの声が自分の意志と関係なく再生される。
「さん?」
「な、なんでもない、なんで、もっ!?」
「だいじょぶ!?」
日向くんが思ったより近くてビックリしたら、道路にはみ出していた庭木に頭がぶつかった。
痛くなかったのはよかった。
木の方こそ傷ついてないか見上げたものの、見る限りは枝が折れたりしていないようで、胸をなでおろした。
不意に何かの気配がした。
日向くんが、とても近かった。
「さん、葉っぱついてるよ」
「あっありがと」
「まだ「だっ大丈夫、自分でやるから!」
片手で勢いよく髪を払ってみると、小さな緑色の葉っぱがひとつ、地面に落ちていった。
「もう平気かな、どう?」
「……待って」
「う、うん」
日向くんがわざわざ自転車を停めて、真剣な眼差しで私の髪だろうか、どこか一点を見つめている。
まさかまだ何かくっついているんじゃ。葉っぱじゃないなら……。
嫌な予感がよぎって言われるがまま動かず待っていると、日向くんがさらに近づいて髪にそっと触れて払ってくれた。
枯れ葉のかけら、かな。茶色い何かは風が吹くともうどこかに消えた。
「これでだいじょーぶ!」
「ありがと、日向くん。ごめんね」
「なんで?」
「一人で慌てちゃって」
「いーよ、そんなびっくりすることあった?」
「な、ないんだけど、ちょっとあの……」
色々思い出して、とは言えず、どうしたものか言いあぐねて視線を下げる。
あれ、おかしい。
濃い影にまだ覆われたままだ。
私の前に立っているのは、もちろん。
「日向くん、どうしたの?」
すごく至近距離で前を見据えているから、見間違いじゃなく日向くんは私を見ている、ということになる。
念のため左右を確認してみても誰もいないし、後ろはただのコンクリートの壁、見るべき物などない。
日向くんが不思議そうにまたたきをした。
「なんかある??」
「なんにもない!」
声、裏返った。はずかしい。
片手を口元に当ててチラと日向くんの様子を窺うと、まだこっちを見ていた。
「……日向くんこそ、まだ、なんかある?」
「へっ!」
「そんなずっと見られると」
「ごごめん! うわっ、そうだよな、ごめっ!!」
「わっ、だいじょぶ!?」
今度は私が心配する方だ。
だって一気に後ずさるから、道路に停めていた自転車に日向くんが背中からぶつかった。
さいわい自転車はタイヤが傾いたくらいで、日向くんも怪我したわけじゃなかった。
「今日の日向くん、なんか、変」
「そっそうかな。……さんも」
「う……、そうだね」
日向くんに言われて、確かに人のことは言えないなと自覚する。
日向くんが自転車のハンドルを握って、自転車止めを蹴り上げた。
「いやっ変じゃなくてっ、その、さん今日……」
日向くんが言葉をとめて、また続けた。
「……、今日、もっとかわいいなって、つい、見てた。ごめん」
日向くんがあっちを向いて、私もなんとなく反対側を向きながら首を横に振った。
謝る、必要はない。
けど、なんて、返せばいいんだろ。
かわいいって、言われたことあるけど、あるんだけど、あれ、言われたとき、いつもどうしてたっけ。
頭の中は混乱している。
悟られないように、日向くんの隣に並んでカバンを持ち直した。
まだ髪、変かな。
あんな一気にぐしゃぐしゃってしなきゃよかった。
「! な、なに、日向くん」
「なっなんでもない!」
また、こっち、見てた。
「髪っ、やっぱり変?」
日向くんの返事を待たずにカバンの中をまさぐって、鏡を探した。本当なら櫛を使って整えたい。
「変じゃないよっ」
「でも、さっきぐちゃぐちゃにしたから」
鏡の中の私は、髪はそうでもないけど、自分で見る限り、表情がなんかダメな気がした。
日向くんに可愛いって言ってもらったせいで舞い上がっている。
鏡越しに自分とにらめっこしていると、温もりを横から感じた。
「かわいいから、大丈夫」
ち、かい。
「さんかわいいよ」
「!!」
「ぅおっと!!」
取り落とした鏡は、ものの見事に日向くんがキャッチしてくれた、のはいいんだけど、おかげで日向くんが片手で支えていた自転車がぐるりと傾いた。
とっさに私が自転車の方を支えた、せいで、日向くんとまた距離が近くなる。
間近、至近距離2回目。
息をのんだのは、同時、だった、きっと。
「こっこれ!」
日向くんが差し出してくれた鏡を即座に受け取った。
「ありがとっ、こんなとこで落としたら割れるとこだった」
「よかった、おれ、ちゃんと取れてっ。つか、自転車ありがと!」
「うっううん、う、ん?」
「こ、このままさ、繋いでていい?」
自転車のハンドルだけじゃなくて、日向くんは私の手ごと握りしめていた。
もうちょっと行ったら、通学路に出る。
「いい、よ」
返事をした途端、ぎゅっと日向くんの手に力が入った。やった、って声、聞くと、照れる。はずかしい。けど、手は繋がったまま、鏡を握りしめる。
「さん、カバン開いてるよ」
「か、片手だと閉めづらくて」
「そそっか、じゃあ、どーぞっ」
解放された手のひらにほっとするし、さみしくもなる。
ついでに鏡もカバンの中に収めて、きちんとカバンの口を閉じた。
「さん、いいっ?」
それって、つまり、そういうこと、だ。
またハンドルに片手を置くと、日向くんのが重なった。あったかい。
心なしか日向くんの歩く速度が遅くなった、ような。
気のせいかな。それとも、私の足が無意識に速度を落としたのか。
ふと視線を感じたけど、今度は日向くんと目が合うことはなかった。
代わりに私にふれる日向くんの指が少し動いた。
すき。
言おうか。言ってみよう、か。
日向くんが伝えてくれるように、私も。
どうしようと迷って自転車のハンドルを握りしめる。日向くんと直接手を繋いでれば、この動作だけでこの気持ちを伝えられる気がしたけど、それはきっと甘えだ。
前を見据えていた横顔、不意に唇が動いた。
「学校、つかなくていいのに」
日向くんが、ぎゅっとまた力を込めた。
next.