ハニーチ

スロウ・エール 200




自転車のハンドルは冷たい。
日向くんの手のひらはあったかい。

建物の間から、校舎がほんの少し見えている。


学校、つかなくて、いいのに。



「……そうだね」

「エッ!」

「日向くん、そんなビックリする?」

さんが、そう言ってくれんの、めずらしいなって」


日向くんがドギマギとした様子でそっぽを向きながら、日向くん一人が押す時よりずっとゆっくりと自転車を進めた。

から、から、から。

日向くんの自転車からゆっくりと音が鳴る。

その速度に合わせて、一人でただ歩くよりずっと遅い歩みで通学路の方に向かっていく。

学校に着くより先に、この手は離れることになる。

冷たくてあったかい手の甲、指先。


もうあの角まで来たら、早い時間帯とはいえ誰かに会うかもしれない。

日向くんの手はぎゅっと私のを覆っていた。

ちらりと視線を向けても日向くんは何も言ってくれなかった。

仕方ない。


「あの、「だっ大丈夫、わかってるから!」


ほらっ。

そう言わんばかりの勢いで日向くんの手がはなれた。

温もりに包まれていた手の甲を、朝の風がすかさず撫でた。


「……」

「おしっ、それじゃっ、あ……」


渾身の、一抹の、勇気。


「日向くんの手、けっこう冷たくなってる、ね」


すぐ、外した。


ほんの一瞬だけ、がんばった。がんばってみた。

ハンドルをしっかり握り直した日向くんの手を、掴んでみた。
数秒、もう、すぐ、逃げるように離れた。

手の中に日向くんの“感覚”が残っている。もう手の中にはないのに、ぎゅっと握りしめた。

日向くんから返事がない。どころか、となりにいない。
数歩だけひらいた間隔、振り返れば日向くんがこっちを見たまま固まっていた。

一歩、広く、近づいた。


「日向くん、行こ? ……どうかした?」


どうもしない。
そう答えを期待して様子を窺った。

まっすぐこっちを見ていた。

日向くんが口を開いて、すぐ目を伏せた。


「どうか、した」


なんて返事をすべきかわからずにいると、日向くんが自転車を押し始めて、私の隣に並んだ。


さん、行こう」

「う、うん」


からからからと、自転車の車輪がさっきより早く回る。

あ、謝るなら今の内かな。
嫌われ、てはないんだろうけど、タイミング……タイミング悪かった、よね、絶対。


「ひな、「さん」


かぶった。


お互いに口をつぐんで、どちらからしゃべるか譲り合って、そうこうする内に通学路に入った。

同じ制服を着た人たちが一人、二人、足早に横をすり抜けていった。


さんって聞かれたけど、なんでもないって答えた。

日向くんは?って聞いてみたけど、おれもなんでもないって答えてくれた。


なんでもなくなんか、ないのに。

この道だと、私たちの距離は平行線のまま。












朝のホームルームが始める前の教室。

入り口から中を覗く男子生徒がいる。


、あれ、バレー部の1年じゃない?」

「あっ」

「日向はー、今いないね」

「ううん、じゃなくて」

「じゃない?」


友人に説明ははぶいて黒板寄りの入り口に急いで駆け寄ると、1年生の鈴木くんがホッとした様子で表情を和らげた。
気持ちはわかる。3年生の教室ってなんでか近寄りがたい。

一通り話をして見送ると、今度は入れ違いで日向くんが戻ってきて不思議そうに話しかけられた。


さん、1年と部の事でなんかあった?」

「ううん、バレー部じゃなくて」

「じゃなくて??」

「今度の、私の方の試合で」

「ぐ! おれが、滑り止めで行けないやつか……、それで、なんかあったの?」

「いや、練習のことでちょっと」


、日向、予鈴聞こえないか?」


「「聞こえてます!!」」


入り口を二人で塞いでしまっていた。
先生が教壇に立つより先にそれぞれの席に舞い戻る。

日向くんが椅子を一気に引きすぎて音がすごかった。
目が合うと二人して笑いを噛みしめ、日直の号令に従った。













休み時間。



「日向ー」

「山田さん! なに?」

さん、すぐ戻ってくるかわかる?」

「戻るも何も、いるけど、ここに。

 さんっ」


急に肩を叩かれた。


「えっ、あの、呼んだ?」


作業をやめて机と椅子の間から顔を出すと、女バレの彼女と日向くんがちょうど私を見下ろす位置にいた。

日向くんが笑って腕を伸ばして払ってくれた。


さん、前髪っ」

「あ、ごめ」


さん、そんな床で何やってんの?」

「ちょっとボールが、その」

「練習に使って汚れたんだって」

「ひっ日向くん、あんまりおっきい声で言わないで……!」

「ごっごめん!」

さんがらしくないね、そんなミス」


山田さんも同じくしゃがんで、まだ元通りにできていないバレーボールをなでた。

ばつが悪いのもあって、もう一度汚れをこすってみる。


「焦っちゃって……、もう、時間ないから」

「試合? まだ1月だよ」

「そ、そうなんだけど」


「おれがやろっか、そのボール」

「い、いいよ、私がやったんだし、あっ」

「ここは、この山田さんがやってあげよう。これ、専用のやつでやるとすぐ落ちるし」

「そうなの!?」
「山田さんすげー!!」

「いや、経験者なだけ」


山田さんが立ち上がって、手の内でボールを綺麗に回転してみせた。

ここは教室なのに体育館のコートに立っているみたいだ。


「私もさんに負けてらんないなぁー」

「山田さんは十分すごいよ」

「おれももっと練習「いや日向は勉強でしょ」

「せ、正論いわれた!!」


日向くんが“正論”って言葉を正しく使っている、ことに密かに感心した。


さん、まだ座ってる?」

「あ、いま立つ」


差し出された手のひらは、日向くんのもの。


「はいっ」

「あ……りがと!」


力強く引っ張り上げられて目線が同じになった。

手が離れる。

私と違って、私と同じ、ボールに伸びる手のひら。


「そういや山田さん、さんに用事じゃなかったの?」

「あ、そうそう」


移り変わる話題に気を取られつつ、何かを零してしまわないように手を握った。













掃除当番じゃなかった、のに、先生に呼び留められてしまった放課後。



さん、翼となに話してたの?

 持つよ!」


日向くんがどこからともなく現れて、腕に抱えていたプリントの束をごそっと攫った。


「あ、日向くん、重いからいいよ」

「重いから持つっ」

「か、軽いから!」

「軽くても持つっ」

「……ありがと」


諦めてお礼を口にすると、日向くんがニッと口端を上げた。

さっきまで一緒だった彼とも同じようなやり取りをして断った手前、日向くんにも遠慮していたんだけど、厚意には甘えておこう。日向くん、だし。

別の階の教室に運んでおくように言われたから、二人して階段を上がる。

そうだ、何話してたか聞かれてたんだ。


「試合、……翼もやんの?」


目的の教室でプリントの束を置きながら、日向くんが意外そうな声色で言った。

西日だろうか、窓の外からの日差しがまぶしくて目を細めた。


「うん、男子があと一人いるとバランスいいから。受験も終わってるし」

「サッカー推薦だっけ。かっけーよなあ」

「ね」


自分の分のプリントも重ねて先生からの頼まれごとも終わりだ。


「でもさ」


日向くんが不思議そうに天井を見上げつつ腕を組んだ。


「翼って2月もう東京行ったりしてんじゃないの?」

「そう、なの?」

「おれも別のやつから聞いただけでよく知らないけど……、忙しいって……、もしかして」


なんだろう。


「ずっとバレーに興味あったのかなっ!?」


日向くんの表情がぱっと明るくなる。

バレーの試合の日程など説明していた時の翼くんを思い返してみた。


「うーん、たしかに……、ウキウキしてた、かも?」


あんまり普段一緒にいるわけじゃないからわからないけど、そんな気はしなくもなかった。
声が弾んでいるというか、やわらかかった。

日向くんが予想以上にはりきって廊下をはねるように歩いた。


「おれも誘ってみよっかな!!」

「今まで声かけたことないの?」


日向くんの交友関係は広いので、誰であろうとトスの誘いをしているとばかり思っていた。

日向くんが眉を寄せて首を横に振った。


「誘ったことはあるんだけど、女子とかサッカー部のやつに反対されたっ」

「ぇ」

「サッカー選手だから、……余計なこと、させんなって」


一瞬だけ影を落とした日向くんだったけど、すぐまた切り替えていた。


さんとバレーすんなら可能性あるよなっ、おれも声かけてみよっ。 もう帰るって言ってた?」

「う、ん……練習あるみたいで」

「じゃ、おれも!」

「日向くん!」

「うぇっ!?」


今すぐ駆けだす日向くんの袖をなんとかギリギリ掴むことができた。


「練習じゃなくて、勉強! 図書室いっしょに行くって約束わすれた?」

「わっ、忘れてない」

「じゃあ教室戻ろっ」

さんっ、あの」

「なに、日向くん」


もごもごと日向くんが言いよどむ。

まさかこのままトスに付き合ってほしいってことだろうか。さすがにダメだ、烏野に、いやこの際どこでもいいから高校生になってもらいたい。


「だめ、一緒に図書室!」

「いやっ、その!」

「離さないっ」


日向くんの制服を掴んだまま、教室まで連れ戻った。



next.