ハニーチ

スロウ・エール 202





ただ、ただ、あったかくて、

まっくらな世界。


瞼を上げると、変わらない景色とぬくもりだった。



「日向くん……おはよ」

「ねっ寝れた?」

「たぶん?」


小首をかしげて答える。

日向くんに起こしてもらうつもりだったけど、ふと思い立って目を開けた。

小さくあくびを噛みしめる。
実際に眠ったわけじゃないけど、何も考えずぼんやりと過ごしただけで気分がすっきりした。
やっぱり寝不足はよくない。

あ、形が変になってる。

日向くんの制服を引っ張って戻そうとすると、日向くんが肩をすくめて驚いた。
その動きで椅子が斜めに動くほどだ。


さんなに!?」

「ちょっと、凹んでたから直そうかなって。重くてごめ」

「重くないよ!!」


日向くんが間髪入れずに言った。


さん、もっと……、うん」

「……」

「な、なんでも!ない!! そろそろ教室行こっ」

「そう、だね」


腕時計を見ると、想像していたよりずっと時計の針は進んでいた。


「消す!」


日向くんが繋いでいた手を外して、椅子から立ち上がった。
オレンジ色にともっていた暖房の電源が落とされる。

私は並んでいた椅子を重ねて、元あった場所に戻した。


「忘れ物ない!?」


日向くんの腕には日誌がちゃんとある。

大丈夫だよ、と答えかけてから、鍵は?と聞くと、日向くんが得意げにポケットから取り出した。


「大丈夫みたいだね、行こう」


廊下に出た途端、あたたかさが攫われていく。
暖房のおかげで火照った頬には心地いい。

スカートを払っている内に、日向くんが合い鍵を元あった場所に戻していた。

教室に向かって歩き出す。


「先生、すごいところに隠してるね」

「うん、スペシャルシィークレットって言ってた!」

「いまの、先生の言い方ちょっと混じってる」

「似てた!?」

「あんまり」

「スッペシャルスィークレット!!って感じ?」

「先生、そんなんじゃないよ」

「そう!? すぅぺしゃる?」

「似てないってば」

「すーぺしぁる、シィークレット!」


「Special secret?」


「「わっ!!」」


なんでタイミングよく先生が出てくるんだろう。

朝の挨拶をすると、また英語で言うように指導された。

私たちのぐっどもーにんぐ。

日向くんと先生だけが何かごにょごにょ話している。楽しそう。

先生のウインクと、Have a nice day.

先生は、軽やかに職員室へと向かっていった。


「日向くん、なに話してたの?」

「ちっちょっと! その、……た、たしかに、おれのスペシャルと先生のすぺしゃる違ってたなって」

「……」

さん?」

「ごめ、なんか、いろいろ急に」

「そんなおもしろかった?」

「待って、ちょっと」


なんでだか笑いがこみ上げてきた。

日向くんのモノマネぜんぜん似てないし、本物の先生がいきなり出て来るし、よくわかんないし、疲れてるのか、なんでだかおかしかった。

ひとしきり笑い終えると、確かに今日もいい一日になりそうな気分だ。


「日向くん、もう大丈夫!」

さん、元気になった?」

「なった!!」


いつもの日向くんみたく、その場で一回飛び跳ねてみせると、日向くんも嬉しそうに頷いた。


「じゃ、行こ!!」


駆け足、一段飛ばし、真っ直ぐに席へ。

朝の号令は声がかぶったせいで、クラス中に笑われたけど、それすらもなんだか楽しかった。













、待たせてごめん」


帰り支度をすませて日誌を渡すべく職員室へ、一緒に来た友人は先生から受け取ったプリントの束をもらった封筒に入れようとしていた。


「荷物持ってるよ」

「助かる、ありがと」

「すごい量だね」

「もう来ないって先生忘れてたみたいでさ」


東京で受験する友人は一足早く学校に来なくなる。
なんとかプリントを入れきった封筒を今度はカバンに押し込もうと悪戦苦闘していた。

こうやって一緒に帰るのも最後か。


「卒業式は来るよ」

「でもおめでとう会もあるし、いっしょに帰れなくない?」

「そういわれたらそっか」

「なっちゃん、上履き持って帰らないと」

「そうだった!」


と書いてある下駄箱に自分の上履きを入れた。

私はまだいくらでも学校に来るチャンスはある。

大荷物の友人を待ったが、彼女の方は重すぎる荷物を整理すべく、カバンや手提げを床に置いた。

おしゃべりしようと思えば、いくらでも話題は尽きない。

例えば今度のバレーの試合のこと。
こっちにいる時なら自分も参加したかったと口を尖らす友人をなだめた。
もうすぐ本番だ。

女子の話はすぐ移り変わる。


はさ、最初の受験どこなの?」

「白鳥沢……」

「えっ、いきなり? すごいね」

「私立、日程はやいんだよ」


友人の荷物整理が長引きそうで、同じく鞄を置いてとなりにしゃがんだ。

厚手のコートは動きづらくて転びそうになったから、もう座ってしまった。
床が冷たい。


は受かったら白鳥沢行くの?」

「うーん、まあ……」


第一志望とするには十分な学校で、先生も塾の人たちも納得するだろう。

他のレベルの高い学校は、けっこう距離があったから、そもそも受験しない。


「そしたら一緒じゃなくなるね」


友人の言葉がナイフなら、ぐさっと心に突き刺さっている。

誰とははっきり言わないまでも、誰と一緒じゃなくなるかくらいわかる。


「烏野も、受けるし」

が烏野いけば一緒か、あ、受かるかわかんないけど」

「さすがに落ちないつもりだけど……」

じゃなくて」

「え?」

「T君の方。 よし、おわり。行こ」


人は自分に関わりのない事実をかんたんに口にできる。


「T君だって勉強がんば、「あれ、日向、いたの?」


たくさんの荷物を抱えた友人が振り返った先には、下駄箱の後ろにたしかに日向くんの姿があった。
ばつの悪そうに頭に手を当てていた。


「声かけてくれてよかったのに。 邪魔だったよね?ごめん」

「いやその、別に!! 夏目たちも帰んの?」

「うん」

「それすごい荷物じゃん、途中まで自転車乗っけてく?」

「いいの?」

「おう、待ってて。 自転車取ってくる!」


日向くんが素早く外履きを落とすと、あっという間に上履きを片付けて昇降口を飛び出した。

友人と顔を見合わせる。


「……いいヤツじゃん、T君」

「そうだね」


日向くんは、いつだってやさしい。

不意にひじで小突かれた。


「な、なに!」

「ライバルになったりしないから安心して」

「そんな心配してないからっ」


「千奈津、声でかいぞー」

「え、そう?」

「2階でも聞こえてたっつの」


関向くんもちょうど帰るところらしい。

あ!!

今度は私も驚くほどの大きな声だった。


「どしたの、なっちゃん」

「閃いた。 コージー、荷物家まで手伝ってくんない?」

「ハッ?」


いきなり話を振られた関向君もびっくりしているけど、お構いましに友人は荷物を押し付けていた。どこか楽しそうに。


、日向と帰んなよ。私はコージーに手伝ってもらうからへーき」

「なっちゃん、日向くんもう来るよ!?」

「だからじゃん、私たちは気にしないで」


「なんの話っ?」


噂をすればなんとやら、自転車を寄せられるだけよせて、日向くん本人がやってきた。

友人が何をしようとしているかくらいわかる。何年友達をやっていると思ってるんだ。

友人の腕を引っ張った。


「な、なに、。怒ってんの?」

「怒ってない、今日は一緒に帰るの」

「でも」

「関向くんも荷物、日向くんの自転車にのせて」

「お、おう……」


このやり取りを知らない日向くんがきょとんと目を丸くしてから、自転車に荷物を載せやすいように動かしていた。


「コージーも一緒に帰んのっ?」
「……まあな」


自分の意図しない状況に困惑しているらしい友人がこそっと囁いた。

せっかく二人にしようとしてんのに、だってさ。

少し後ろに日向くんと関向くんが歩いて付いてきている。


「いいの、そーいうの」


それは日向くんと私がもう友人が知っている関係より進んでいるからじゃない。


「今日は、なっちゃんと一緒に帰りたいの!」


宣言すると、友人は何か言いたげにしつつも口を結んでそっぽを向いた。

後ろで日向くんの声がする。


「夏目とさん、ケンカしてんの?」

「してない!!」

「!お、おう、そっか」


友人が即答すると、日向くんがびくっとしつつ答えた。

慣れた様子の関向くん。


「翔陽、ああなったときのアイツはほっといた方がいい」

「そ、そうなんだ!」

「コージー、余計なこと言わないでっ」

「日向くん、なっちゃん照れてるだけだから」

「ほー!」

「日向、ほーじゃない!! も変なこと言わないっ」

「はーい」


それでも掴んだ手は振り払われないから、友人の腕を引いてゆっくりバス停を目指した。



next.