ハニーチ

スロウ・エール 203




いつもと同じように会話が弾む。
ほんとうに、こんな風に一緒に帰るの、最後なのかな。

そうよぎった頃、いつもの分かれ道に着いた。

日向くんの自転車から、友人の荷物が取りあげられていく。
大半を関向くんが、ほんの一部を友人が腕に引っ掛けて振り返った。


「じゃあね、。 日向、サンキュ!助かった」

「んーん、東京がんばれ!」

「日向も烏野がんばれっ」

「おー! あれっ、コージー大丈夫?」

「大丈夫じゃねぇ、っうぉ!?」


何かの袋が関向くんの手からすり抜け、拾い上げようとすると、先に友人が手に取った。
そのまま関向君が抱える荷物もつかんだ。


「やっぱ自分で持つよ」

「いいって、……それより千奈津、荷物多くないか?」

「ふつー、だけど」

「なんでもっと早く持って帰んないんだよ」

「持って帰ったけど、また出てきたの。仕方ないって」


「いっつもそうだよな……」


「たーまたま!」



「あ、翔陽、、じゃあなー」




けっこう距離が離れたところで二人が振り返ったから、腕を大きく振った。
日向くんは私よりもっと大きく応えた。

本当は日向くんも同じ方向だけど、今日は用事があるから、と一緒に残った。

まだ自転車を動かさない日向くんの方を向いた。


「日向くん、用事大丈夫?」

「え、あ、うんっ! さん、バスだよねっ?」


いつもと同じなので、もちろんバスだ。
頷くと、一緒に行こうと日向くんが率先して歩き出した。

日向くんの自転車は、あれだけの荷物がなくなってずいぶん身軽になったようだった。
車輪の回る音がずっと軽快になっている。


さん!」


いきなり勢いよく呼ばれて、面食らいつつ、日向くんの言葉の続きを待った。


「あ、あのっさ……」

「うん」

「おれ……、そばに、いるっ!!」

「?」

「そっそんだけ!! ですッ」

「う……ん」


ん?


「あの、日向くん」

「ななに!?」


あんまりにも日向くんが慌てるから、なんでだか、ほっと息を付いた。

そんな私の様子に日向くんが目をぱちくりさせた。

いや、たぶん、そういうことなんだろう。


日向くんとの距離を少しだけ縮めた。


「大丈夫、ありがとう」


そう笑いかけると、日向くんは、ぱっと顔をそむけた。


「お、おれはっ別にっ、なにも、してないし……」


前みたく気遣ってくれたのがわかる。
友達が行ってしまって寂しくないかって。

ただ、この胸にある感覚は、もう寂しさだけじゃなかった。

空を見上げると、薄曇りのどんよりとしたグレーの雲が広がっている。

毎日変わってないようで、刻々と移り変わっていく時間。

流れる雲の合間から光がこぼれる。


「次、なっちゃんと会う時は、もうすぐ高校生だから。

その、楽しみだなって」


さん、……楽しみなの?」

「日向くん、楽しみじゃないの? 受験終わってほしくない?」

「お、終わってほしい!!」


日向くんが間髪入れずに答えてくれたから、その必死さに口元を隠した。


さん、いま笑った?」

「だって、日向くんすごく終わってほしそうだったから」


その気持ちはすごくわかる。

受験終わったら……



さん、違う学校でも、おれ、ずっと、いるから!!


 ……いたい、一緒に」



日向くんの自転車が、ゆっくりと、静かになった。

私たちの横を、たぶん私がいつも乗っているバスが通り過ぎて赤信号に捕まった。

日向くんも気づいたらしい。


さん、バス」「いいよ」


乗れなくていい。

たぶん、“そう”なんだ。

今日の自分はいつもより冷静だった。


「日向くん、遠回りしよっ!」


目的地に向かわない通りを指差すと、日向くんがやっぱり目を丸くした。











通学路を外れたのはいいけど、この先に何かある訳でもなく、どこかに向かいたいわけでもない。

日向くんより、一歩、二歩分だけ先を歩いて、迷子にならないようにだけ気を付けた。

チラと振り返ると日向くんがこっちに気づいて、かと思うと、視線をそらされた。


「日向くん」


「なに?」


「こっちの道、行ってもいい?」


「いいよっ」


どこ行くの、とは聞かれなかった。

あ。


「日向くん、用事あるんだよね?」


自分の判断だけで来てしまったが、よく考えたら日向くんの予定がすっかり頭から抜け落ちていた。

引き返すと、日向くんが立ち止まった。


さん、こっち行くんじゃないの?」

「いや日向くんの用事忘れてて」

「ないよ」

「えっ」

「ない、用事なんか……」


さんと、もっと、いたかったから。そんだけ。


日向くんが俯いて動かなかった。


え、と。


えぇっと。

よし。



「よかった!!」


何がよかったんだ、と自分に言いたくなる気持ちを押さえて続けた。


「用事ないなら行こっ! 日向くん早くっ」

「う、うん」


後ろから日向くんが付いてきてくれているのが分かる。いつもと違う私に戸惑っているのも。

自分でもわからない。
私は何をしようとしてるんだろう。

日向くんとこのまま別れたくなかった。

その感覚、その気持ちがよくわかったから。


変化はいいことなのに、なんでだか時々、足がすくむ。













「ここっ、久しぶりに来たくなって!」


やけに元気を装った自分の声が場違いみたく響いた。

日向くんに教えてもらった、あの小さな神社。

かなり歩いたけど、なんとか見覚えのある道に出られてよかった。

日向くんが前に来た時みたく、ちょっとした広場に自転車を停めた。
荷物置いていいよって言われたから甘えて置かせてもらった。

あ、今日は甘いもの持ってきてない。

神様ってお供え物を持ってきてない人に怒ったり、しないよね。
受験という大きなイベント前だと、こんな些細なことでも不安になってくる。


さん、なんか探し物?」

「いや、その! 今日飴とか持ってなくて」

「これならあるよっ」


日向くんがポケットから出したのは、眠気覚ましのタブレットだった。
たしか、先生から渡された秘密兵器の一つ。

甘くないしスースーするけど、ここに祭られている神様は許してくれるんだろうか。

迷ってるうちに日向くんが前と同じ場所に一粒を置いて手を合わせた。


さんは?」

「あ、……やる」

「じゃあ、もういっこ!」


白い眠気覚ましが二つ並べられて、日向くんの隣で手を合わせた。

そのくせ、何にも願ってなかった。

合格しますようにって祈ればよかったのに、そんなことより、すぐそばの日向くんでいっぱいだった。

手を離して目を開ける。世界は何一つ変わっていない。


「日向くん、あの、さ」


なにを言おう。

なにを、日向くんに伝えよう。


なんでだか、鼓動が早くなる。



さん、なにお願いした?」


言葉に詰まった私に気づいたのか、日向くんがしゃがんでいた体勢から立ち上がって言った。

地面に近い私には、いつもよりずっと日向くんが大きく見えた。

わたし、私は。


「おれは……、……。



 ……さんってやさしいよな」


日向くんがやっといつもみたく笑ってくれた。言葉の続きは言わないで。

私も立ち上がった。

日向くんは変わらずやわらかな声色だった。



さんのこと、すきだ。すごく」

「どっ……、え?」


どうしたのって聞き返そうにも、気が動転して、髪を意味なくいじった。

日向くんは霧が晴れたみたく明るく続けた。


さん、おれのためにここ来たんだよねっ?

うれしい、ありがとう!!」


日向くんと裏腹に、気持ちが置いて行かれる。


「さっき、ちょっとだけ、さんと……もう、これまでみたく、いられなくなるんだって想像した。

けどっ、さんと夏目のこと考えたら、距離とか、関係ないって」


東京に行く友人と私はこれまで通りだって、日向くんは続けた。


「ちゃんと、そのこと思い出したから、もう大丈夫。

 さん?」



そんな勝手に。

ひとりで。



「どうしたの? 大丈夫?」



なんで、こんな気持ちになってるんだろう。

「ごめん、待って」

かろうじて声に出せた。
動けなかった。動いたら最後、心のなかが日向くんに伝わってしまいそうだ。

日向くん、困らせる。



さん、さわっていい?」

「ダメ」

「え」

「聞かなくていいって、前、言った」

「そっそうだけど、さ、……大事だから。さん、大事だから、ちゃんと、大丈夫か聞きたくなる。ごめん」


髪に日向くんの手のひらがすべる。

謝んなくていいよって、言いたいのに、いま、なにもいえない。
泣きたいわけじゃない。寂しいわけじゃない。胸が、いっぱいになる。

つい、

こぼれた。



「日向くんは、


 烏野……、一緒に行こうって言わないんだね」


「へっ!?」

「なんでもない」


言わないようにしてたのに。これからも言うつもりなかったのに。


「烏野っ?」


日向くんの声が動揺していて、撫でる手も離れた。

首を横に振って顔をそらした。


「いい。日向くん気にしないで」

「気にする」


ほんのちょっとだけ滲んだ視界に、日向くんが映りこんでくる。

一瞬、視線をそらしたかと思ったのに、またすぐ直視された。

日向くんはまっすぐ私を見つめた。


「いっしょに、烏野行こうって、言っていいの?」


聞かれた途端、気づいた。

ずるい自分。

日向くんが言ってくれないって、ちがう、本当は、私が日向くんと同じ学校に行きたいって気持ち、無視してた。

日向くんは、私のこと聞かないんだって、勝手に……

息を、大きく吸い込んで、はき出した。


「日向くん、あの」

さん」

「いまの、忘れて」「聞いて」


逃げようとする私の腕を日向くんはつかんだ。



「おれ、……言わない。

いや、さんが『いい』って言っても、言っちゃいけないんだ」


ぎゅっと、日向くんの手に力が入る。


「ずっと、進路のこと、さんに聞かなかった。

気にしてなかったんじゃなくて!!隣だし、だれかと話してるのも聞こえたし、先生にも、聞かされてたし」


日向くんが黙って、また続けた。


「おれ、……怖かった。

さんに聞いたら教えてくれるのわかってたけど、聞いたら……さん、違う学校行くの、わかるから、逃げてた」


ごめん。


日向くんに、はじめて好きだと言われたときのことが浮かんだ。

わかるんだけど違っていて、でも、そうじゃなくて。


「日向くん、ごめん」

さんが謝ることじゃないよ!」

「でも」

「おれはさっ、烏野でバレーするってずっと前から決めてたから。

いやっ、その、“あの試合”がなかったら、そこまでじゃなかったかもだけど……」


たった一度の公式試合。

前にここに来たときのことが、鮮明に思い出された。


「でも、ここで、また手、合わせたら、王様に負けた日のこと、思い出した」


日向くんが屈託なく笑った。


「おれは、コートにいたいって。

あの“王様”だって倒して、最後までコートに立ってみせるって、烏野でバレーするって決めたんだっ」


日向くんが私の腕から手を外した。


さんが、あの時、コートにいるおれをもっと見たいって言ってくれたの、うれしかった」


その前も、他にも、いろいろ。

いつも。


「おれだって、さんがやりたいって決めたこと、応援したい。そばで」


まぶしい。


「烏野一緒にって言おうとしたこと、あるよ。ある。……ある」


日向くんがほっぺたをかいた。


「でも、かんちがいだったらはずかしいんだけど、さん、おれがそう言ったら、ちょっとは気にするかなって。 しない?」

「する」


きっと、する。

日向くんに言われたら、自分で決めるべきだってわかってても迷って悩む。


「だから、言わない」


日向くんがきっぱりと口にした。


さんが決めたこと、応援したい。

いつも、さんがしてくれるみたく、おれだってっ」


思わず、飛び込んでいた。

日向くんの身体がこわばっているのがわかった。けど、離れなかった。


わかってたんだ、こうなるって。

日向くんのこと、ずっと見てたから、わかる。

わかるからずっと、この話、しようとしてこなかった。


怖かった。

日向くんにこの高校に行くって伝えて、嫌な顔されたらって、逆に全く気にもされなかったら……


わかった。

自分で決めて動くってことは、期待した結果じゃなくても受け入れるってことなんだ。

どうなるか怖くて、自分で決めてこなかった。


すきだから、こんな、想像だけで胸がいっぱいになる。



「それでも、言って欲しかった」


言わないでいてくれるのが日向くんの優しさだってわかってても、それでも。


「いっしょにいたいって、思って欲しくて」

「思ってる」


背中に腕が回った。右と、左。


「おもってる……一緒にいよう。これからもさ、違う学校でもさ」


そうじゃ、なくて。


それでも、日向くんがやさしくてあったかくて、なにも否定できなかった。


next.