ハニーチ

スロウ・エール 204





日向くんは優しい。

どんな選択をしたとしても、日向くんは受け入れてくれる。

それは、素敵なことだと思う。理想的な在り方だとも。

けど、それは、日向くんの決めることに私もまた関われないことを意味した。

仮に私から日向くんに『烏野とは別の高校に一緒に行こう』って誘ってみても、日向くんは迷わず烏野を選ぶ。

日向くんが決めることに、私は一切影響しない。

これから先も、ずっと。

思い知ってみると、なんと言えばいいか……、かんたんに説明できない感覚だった。

息を深く吸い込んだ。

日向くんの、匂いがした。

ゆっくり身体を離すと、日向くんは腕で引き留めることはなかった。



さん、もうへーきっ?」

「ん……、……ごめんね」

「なんで謝んの?」

「情けないところ、見せちゃったから」


さすがにばつが悪くなり、自分の頬に手を当てると、ひんやりした指先と違って熱が集まっていた。

不意に視界が傾いた。


「!!」

「かわいい!!」


激突するかのような勢いでふたたび日向くんに抱きしめられていた。

近くて、声もすぐそばで響く。


さんさ、そういうの、もっと言っていいよっ。 おれだけかなって、ずっと思ってたから」

「え!?」


この状況と、自分の胸の内とだいぶ違って日向くんが嬉しそうだったから、ますます頭の中が混乱した。

なんで、こんな、ぎゅっとされてるんだ。

日向くんの気持ちの強さがコート越しにも伝わってくる。


さんは、こー、なんでもできるから」

「でっできないよ!」

「いつもちゃんとしてて……だから、あんまり、おれのこと気にしてないかなって、いや、ちゃんと好かれてんの知ってるけど。でもほらっ」


今度は急に向き合う格好になったかと思うと、一気におでこが触れ合うくらい近づかれた。


さんのなかに、おれ、ちゃんといるって、うれしい! さんのこと、だいすきだ!」


この、至近距離。

うれしそうな表情。

ち、近い。

硬直している私を前に、やっと日向くんも今にも触れあいそうな自分たちの間隔を理解したようだった。

パッと私に回した腕を外して、即座に身体の向きを変えた。


「ごごめんっ、つい、その!うれしくて!!」

「う、うん」

「いいって、さわっていいかっ、聞かなくていいって、さん言うけど……」


日向くんが少し乱暴に髪をかき乱して空を見上げたかと思うと、こっちを向いた。



「おれ、いつか、



 ……とまんなそう」



ドキ  と深く突き刺さる感覚。

何か言わなくちゃ(逃げなくちゃ)ってなぜか感じたとき、ちょうどのタイミングで風がぺちっと木の葉を日向くんの顔面にぶつけた。

すごく、その、ドンピシャだった。


「だっだいじょぶ……?」

「……っつーー、顔に!!」

「すごく、その、大当たりだったね今」


日向くんにダメージを与えた葉っぱ一枚は、また強く吹いた風によりどこかに消えてなくなった。

まるでマンガみたいな展開に、ふっと笑いがこぼれてしまった。

小さな白いタブレット2つは変わらずそこにあった。

ぐちゃぐちゃとした感覚もいつしか遠のき、肩の力も抜けた。


もう、いつも通りだと思った。



「日向くん、帰ろっか」

「そうだね!」


小さな神社に会釈し、停めていた自転車の方へ歩き出した。

日向くんが自転車止めを蹴った時に言った。


さんいいよ、荷物置いといて」

「でも」

さんが乗ってもいいっ!」


日向くんが声を弾ませるから、つい笑って荷物だけ甘えることにした。

元来た道を辿っていく最中、なぜだか日向くんは鼻歌を歌っていた。とても上機嫌だ。


「それー、なんの曲?」

「いろいろ!」

「子供向け番組っぽいね」

「え! 夏が見てたの移ったかな」

「元気が出る感じでいいと思う」

「そう!?」


日向くんはまた鼻歌の続きを歌いだした。

つられてハミングしてみた。

このふわふわした陽気さ。

もしその理由が、さっきの出来事なら、それは、すごく。


さん、どうしたの?」

「へっ」

「うれしそうっ」

「! これはっ、……日向くんが、嬉しそうだから、移ったの」

「おれ!?」

「自覚なかった?」

「ないっ訳じゃない、けど」


日向くんが自転車のブレーキを強く握りしめて、坂道でピタっと急停止した。


さんっ、おれ、手つなぎたい!!」


なぜか挙手。

一つ頷いて、日向くんの方に手を伸ばす。ぎゅっと握りしめられた。

けど、荷物の重みのせいで、自転車がアンバランスになる。
日向くんが身体も使って自転車を支えた。

ここは坂道だから平たい道とは勝手が違うようだ。

一度手を離した。


「日向くんがハンドル握って、その上に私の手をのせるっていうのどう?」

「おおー! さん頭いい!」


日向くんがきちんと両手でハンドルを握り直し、どこかウキウキした様子で私の手が重なるのを待っていた。

嬉しさというものは、そばにいるだけで伝わってくるらしい。

軽やかな気持ちで触れ合った。


「日向くん、行こ!」

「うんっ」


前にここへ来た時は、夏を感じる風だった。

その前は、もうちょっとだけ春が近かった。


今日は、どこか寂しくさせる冬の風。

心の奥にしまった感情を引っ張り出そうとしてくるような……



「日向くん、用事、ないんだよね?」

「ないよ! さんが用事!」


日向くんが明るく言い切るから、安心して続けた。


「一回だけ行ったラーメン屋さん、覚えてる?」

「あのラーメン屋!? おぼえてる!!行く!?」

「行きたいなって、おなかすいて」

「行こう!やった!!」


日向くんがさらに声を弾ませて大きく頷いた。


「そんなうれしい?」

さんから寄り道って……うれしい!」

「……」


こんな、喜んでもらえるのか。
そっか。


さん?」


日向くんは屈託なく微笑んだ。


「えっと、あのお店、まだ残ってるといいね」

「た、たしかに!」


記憶をたどってお店のあった場所に行ってみると、あの時と同じ赤い提灯は変わらない様子で灯っていた。

怪しすぎる雰囲気と、見た目通りの店内に、この場所にぴったりなお店の人。

自分で言い出しておきながら恐怖はあったものの、寒い日のラーメンはおいしくて、日向くんと食べるとなんだかごちそうで、寄り道してよかったとバスの中で余韻に浸った。










家に帰ったら、ちょうど一台の見慣れた車が止まっていた。
玄関に入ると、大き目のちょっとくたびれた靴。

やっぱり従兄が来てる。


「ただいまー……」

「お、、帰ったか」


いつもと同じで母親に持たされたであろう荷物を抱えた従兄が、奥からやってきた。


「受験、がんばってるらしいな」

「そりゃね!」


外履きを脱いで邪魔にならないよう端っこに寄せた。

小さな木の葉が靴にくっついていたのに気づいた。

きっと、あの神社にいた時だろう。


なんでだか、あの時の出来事が、気持ちが、フラッシュバックした。

なに、考えてんだろ。

身体を起こしてカバンを持ち直すと、真ん前の従兄が小首をかしげた。


「どうした、難しい顔して」

「し、してないよ」


笑顔、笑顔だ。

頭ではそう思うのに、従兄の真ん前に立っていると、従兄の家で泣きわめいたことまで蘇ってきた。

なんで今。

自分で考えて動けてるし、ちゃんと、自分の気持ちだって。日向くんに、ちゃんと。


“一緒にいよう。これからも……”


「わっ、けーちゃんなに!?」


いきなり頭を荒っぽくなでられて、思わず従兄の腕を振り払った。

玄関のそばにある鏡で、ぼさぼさになった髪を撫でつける。鏡越しに目が合った従兄は、こっちの気も知らないでニヤッと笑った。


「気ぃ抜いとけよ、ならどっか必ず受かるって」

「……そんなんじゃないよ、もう」


まだ従兄に荷物を渡したいらしい母親がなにかを持ってきた。

夕飯はいらないことを告げて自分の部屋に駆け込んだ。

従兄の応援なんて耳に入れない。けーちゃんなんて、知らない。なんにもわかってない、私が、今、こうなってるのは受験じゃなくて。

いや、受験、だけど。じゃなくて。


さんのこと、だいすきだ!”


“……れからもさ、違う学校でもさ”


ちがう 学校 でも。


ベッドに飛び込んだ。

制服から着替えもしないで。





「なんで…… 言わなきゃ、こんな」


枕に顔をうずめた。

もうすぐ、受験本番だ。


next.