ハニーチ

スロウ・エール 208





ドキドキと、落ちつかない。
いなくなった日向くんが気になる。

一方で、家庭科部の後輩との話は弾む。

今日の部活動は、2月恒例のバレンタインに向けたお菓子作り。
レシピや去年の事を楽しそうに話してくれる。

耳を傾けながら、自分はちゃんといつもの先輩になれているか心配だった。
でも、確かめるすべはない。

後輩は、ひらめいたとばかりに両手を合わせて言った。


先輩、放課後までいますかっ?」

「たぶん……、なんで?」

「家庭科室、寄ってってください、私たちの作ったお菓子の味見に」


誘いを聞いただけで1年前の記憶がよみがえる。
焼きたてのチョコレート菓子の甘い香りが鼻を掠めた気がした。

すぐ体育館が思い浮かぶ。

首を横に振った。


「ありがとう、うれしいけど私じゃなくて、
「男バレですか?」


思わず固まってしまった。

正解だ、と後輩の方は笑って胸を叩いた。


「3人分は元から入ってますっ」

「えっ」


彼女曰く、文化祭で協力してもらったのをきっかけに、たまに男子バレー部の3人に差し入れをしているらしい。

知らなかった。


先輩が食べてもまだ、あ! バレー部の先輩の人も来て大丈夫ですよ」


バレー部の、先輩。

頭に浮かぶのは、もちろん。


「日向くんのこと?」

「あ、そうです、その先輩!」


至極自然に話してくれるから、なんだか舞い上がってしまった。

自分以外の人にも、ちゃんと男子バレー部が存在している。


先輩、来てくれますか?」

「い、行く!ありがとね」

「やった!みんな喜びますっ」


後輩がまぶしく、そして頼もしく見える。


「どうかしました?」

「なんか、さらに部長らしくなったね」

「エェッ!?! ぜっぜんぜんです!全然ですよ!!先輩たちの足元にも及びません!」


早口になった後輩に、そんなことないよと続け、日向くんが去った階段を見つめた。
太陽が登ってきたからか、電気がついたのか、どこか明るくなっていた。

放課後を楽しみに後輩と別れ、教室へ向かった。
日向くんを追いかけられなかった足で、一段ずつ踏み出した。







遠くの2年生の教室付近はどこか騒々しい。

3年生の方は、自由登校の時期だけあって、ホームルームが始まる時間だろうと廊下に人気は少なかった。
ちょうどロッカーの前にクラスメイトがいた。


「おはよう」

「あ、さんおはよー」

「山田さん、髪切った?」


かわいい、と続けると、同級生は照れくさそうにはにかんだ。

バレー部の主将だった彼女は髪が短いことが多かったが、教室で見かけていたときと雰囲気が変わっていた。
美容室を変えたらしい。


「勉強ばっかイヤでさ、気分転換に。親には卒業式の前に切りなって言われたけど首くすぐったかったから耐えらんなかった」


そう言って襟足を見せてくれた彼女の首元は確かにスッキリしていた。
しゃべりながら教室の中に入りかけるも、中はすでに勉強している人たちがいる。
もうちょっとだけ廊下にいることにした。

教室には日向くんはいなかった。

視線の先に気づいたのか、彼女がささやいた。


「日向、ソッコーで教室出てったよ」

「そ、そうなんだ」

「なんか唸ってんなーって思ったら急に黙り込むし、よく見たら顔赤いし、暖房暑いか聞いたらいきなり立ってみんなビックリしてた」


話を聞くに、引いた椅子が思いの外音を立てたらしい。
頭を冷やしてくると一言残して行ってしまったままだそうだ。

どんだけ知恵熱働かせたんだって彼女は快活に笑った。


「今日のバレーのことでしょ? 日向もやれたらいいもんね」

「そ、そう! だけど、試験近いし。

 あ、山田さん、最初の試験いつ?」

「明日」

「あした!?」


今日のバレーの練習にも参加してくれる予定だ。
私の表情から察したのか、山田さんはラフに手をぶんぶん動かした。


「いいの、練習ある方がやる気出るし。

お、噂をすれば」


ちょうど反対側の入り口。
日向くんが今まさに教室に入ろうとしていた。

目があったかと思うと、何も言わずにそのまま教室に入っていった。


「どしたんだろ、日向のやつ黙って」

「き、緊張してるんじゃないかな」

「あー、烏野ももうすぐか」


真の理由は朝のキラキラ?のせいだろうけど、この時期の3年生はナーバスになる理由はいくらでもある。

山田さんも伸びをして、重そうな足取りで動き出した。


「私たちもやろっかー」

「うん」

さん、話変わるんだけどワーク持ってきてる?英語」

「あっ、たと思うけど待って」


自分の机に行って中からワークブックを取り出した。
そのやりとりをしているとき、日向くんはずっと問題集と向き合っていた。


さん、言っとく?」


ワークを受け取った彼女が小声で囁いた。
日向くんに、昼休みの練習の事。


「後で私から言うよ」

「オッケ、任せた! あっ、ダッシュで行ってくる!」

彼女は、一部読めなくしてしまった解答ページをコピーしたいとのことで、小銭入れ片手に出て行った。
急がなくていいのに、もう姿がない。

また静かになった教室は、家よりも受験の空気でいっぱいだ。

チャイムは鳴ったけど、授業開始というより単なる時刻のお知らせに過ぎず、各々が自分のペースで勉強していた。

一瞬、日向くんと目があった。

すぐ、そらされた。

ショックというものはなく、ただ、自分の席に着いて筆箱を取り出した。

間近でみた日向くんが思い浮かぶ。
穏やかだった水面が波立つように心が揺れつつ、いつも通りに烏野の過去問とノートを取り出した。
隣の日向くんも鉛筆を握っていた。

きらきら、今もしてるのかな。
自分じゃわからなかった。

窓の外はどこか出かけるのにぴったりなくらい青い。
けれど冷たく強く風が吹いていた。

昼休みが始まって、やっと日向くんとふつうに話せた。
今朝のことには触れていない。








「す、スイマセン!」

一年生男子、バレー部員の謝罪が体育館に響いた。

彼が受け損ねたボールはとんでもなく飛び上がり、2階の狭いスペースの柵を乗り越えていた。

見事なホームラン、なんて心の中で呟く。

もちろん野球をやっていたわけではなく、昼休みに試合形式をやった後、レシーブ練をしていたからだ。


「おれ、行ってくる!」


一年が自分が行くと進み出たけど、日向くんは断って慣れた様子で体育館の舞台に上がっていた。
あそこに行くには舞台脇の梯子を登る必要がある。


「ちゃんと試合になるかね」


一緒に練習をしていた山田さんが、日向くんがボールを落とすのを受け取る一年を眺めながら言った。
いま一番一緒に練習してくれているバレー経験者の彼女だからこそ、出た感想だろう。

額にくっつく前髪を払って答えた。


「わかんない」


そう答えると、彼女は手元にあったボールを宙に放ってキャッチした。


「意外」

「え?」

さんなら、いい試合になるよ!とか、前向きなこと言うと思った」


彼女はポンポンと次第にボールを高く宙に放りつつ、実はシビアだったのかと零した。

確かに、クラスの行事やグループ活動なら、そんなふうに返したかもしれない。

ただ、これはバレーボールだ。


「……レシーブできなきゃ繋がんないから」

「だねーー、始めた頃よりはボール怖がんなくなったかなーとは思うけど」


それでも経験値が足りない。練習が足りない。

日向くんと一緒に女子バレー部に混ぜてもらっても、日向くんと違って3人でも、指導者がいなければ成長は遅い。


「今度の試合、いっそ2対2にする?」


山田さんはボールをきちんと両手でキャッチして考えを教えてくれた。
他に来るメンバーの腕前を見て2人ずつ組ませる方がまだ試合になりそうだと。
また、下手同士ならすぐ試合が終わって時間に無駄がない。

首を横に振ると、なんで?と聞かれた。

答えは決まっている。


「6人で、試合したい」


1人じゃダメだ。
2人でもダメ。

コートの中には、6人いて欲しい。

あの時とまったく同じ試合は無理なことはわかってる。
せめて、揃えられるところは同じにしたかった。
誰ひとり同じじゃなくても、やっぱり、私の中のバレーは6人だ。


「でも……山田さん、物足りないよね」


経験者の彼女が付き合ってくれるのは助かっているが、長くバレーをしてきた人こそ時間の無駄に感じてしまう。

いきなり肩を抱かれた。


さんやっぱやさしーなー!」

「え、なんで、今の流れで!?」

「だいじょぶ、私は最後まで付き合うって決めたし、試合になんなきゃまた別の日にやりゃいいじゃん?」

「あ、でも」


あの体育館はもう使えなくなる。


「ここがあるよ! みんなもいるしっ」


満足したのかやっと解放してくれた彼女は、やっぱり屈託なく笑ってボールをバシッとはたいた。

その向こうに日向くんも一年生たちもいた。
手伝ってくれる女子バレー部のひとも、昼練にきた他の子たちも。

どうやら体育館を使えるのはここまでのようだ。
体育館の時計で確かめるとちょうど交代時間だ。


さん、鍵貸して。私、女バレの練習も見てく」

「じゃあ……、ありがと」

「よいよい」



日向くん達にも声をかけて体育館を出た。

3人は一年の教室に向かい、私たちは、といえば。



「日向くん!」


一年部員がいなくなった途端、会話が止まってしまった。
意を決して話しかけた。


「よ、よかったら飲み物買いに行かない? あっちの自販機」


日向くんからの返答があるまでずっと緊張していた。


「ん……、いいね、行こう」

「うんっ! あ、こっちから行こう、近道」


日向くんがこっち見てくれた。

今はそれだけでうれしい。

少し先を歩いて振り返る。日向くん、一緒に来てくれてる。

嫌われたとは思ってないけど、朝のあの出来事があってからなかなか完全な“いつも通り”に戻れてない。
気まずくはないけど、どこか、ぎこちなさがある。

2人でいたらそのうち元に戻るだろう。


「あ!」


少し遠いところにある自販機は、なぜか千円札を受け付けてくれなかった。
あんまり使い勝手のいい場所じゃないからメンテナンスされてないのかも。

日向くんがどうしたの?って私の手元と自販機を見比べて、ちょっとだけ、いつもみたく微笑んでくれた。


さん、小銭は?」

「なくて」


肩を落としていると日向くんが500円玉を入れた。


さん、ココア?」


いつもならそのチョイスにしたが、運動後だから甘さより爽やかさを選んでお茶にした。
日向くんも同じのを選んで、二つの500mlの紙パックを取り出した。


「はい、さんの分っ」

「ありがと、次会った時返すねっ」

「いいよ、さんには練習誘ってもらったし、朝も」


日向くんは一度言葉を切って、ストローを外し、お茶のパックに差し入れてから続けた。


「……朝も、ビックリさせたから、お詫び」


日向くんがお茶を口にする。

同じくストローを外し、自販機の横で2人並んでしばし水分補給に徹した。

先に私がストローを口から外した。


「ビックリはしたけど……お詫びされることじゃないよ」


ずっと前だけ見ていた日向くんがこっちを向いた。

そう?とでも言いたげな眼差しに、強く頷く。


「だって、もし、キラキラ……してたら、見たくなると、思う」


自分がキラキラしていたかは定かではないけれど、仮に日向くんが輝いていたなら、私も多分凝視してしまう。

だから、手首を掴まれたことも、すごく、その、距離が近かったのも、別に悪いことではなかった。
お茶一つもらうほどのことでもない。

ストローをまた口にする。

交代するみたく日向くんが言った。


さんが、こないだ、聞かなくていいって言ったから」


こないだ、と言われて浮かぶのは、あの神社でのこと。

これからも一緒にいようって言われた日。
私がみっともなく日向くんに聞いてしまった日。

日向くんの横顔を盗み見る。


「おれ、今日、すごく……自分勝手にさんに近づいた。

ごめんっ。って言いたいけど、さん、謝られんのもやだろうし……おれ、そのっ!
どうしたらいいっ?」


日向くんは身体ごと私の方を向いて、真剣な表情で尋ねてきた。
必死さまでにじませて。

手の中のお茶パックの中身がちゃぷん、と音を立てた。

お茶と日向くんを交互に見る。

今朝の、あの距離感が急によみがえって焦ってしまった。


「ど、どうもしなくていい。

言ったよ?

日向くんに、触られるの、嫌じゃないし。
さわっていい?って聞かなくていいし、日向くんが、そうしたいなって思った時はいつでも」


続きは止まった。

日向くんの人差し指が、私の唇にストップをかけた。ふんわり。すごく僅かに。

日向くんが眉を寄せ、何か言いたげに唇を結び、私はといえば、ただ日向くんを見つめ返した。
だって、日向くんの指が、くちびるに。

日向くんが今度は意を決した表情に切り替わる。
指が離れた。


さん!」

「う、うん」

「これっ、持ってて」


中身がまだ大分残っているお茶パックを受け取る。

もう日向くんは数歩先だ。


おれ、走ってくる!待ってて!!すぐ戻る!!


返事も待たず、日向くんは全速力でいなくなった。
私はぽつん、お茶2パックを持ったまま、自販機の横。



next.