ハニーチ

スロウ・エール 209




日向くん。足速い。

指先の感覚は残ってる。

どうしよう。
触られたのに動揺してたら、日向くんから受け取ったお茶がどっちかわからなくなった。

お茶で落ちつきたいのに、まさか人のを(よりにもよって日向くんのを)飲むわけにも行かない。

なんで同じやつを頼んだんだろう。
それか、せめてもっと量が違えば……あー早く戻ってきて、日向くん。

お茶もお預けのまま自販機と並んでずっと、予想よりは遅く日向くんが戻ってきた。

全力疾走だった。
昼休みの練習の時よりずっとずっと日向くんは息を切らしていた。

私の前で日向くんがピタリと静止した。


さん、待っててくれてありがと! お茶いい!?」


言われるがまま日向くんの手に近い方を差し出した。
手渡してくれたんだし、日向くんの記憶ならきっと合ってる、と思う。

残った一つのストローを唇に咥えたとき、日向くんが咳き込んだ。


「だっ大丈夫? 日向くん」

「こっこれさ、本当におれの?」


やっぱり間違えた!?


「ごめん、実はどっちかわかんなくなって……」

「そうなのっ!?」

「いや、お、同じお茶だし、量もあんまり変わんなくて違いが……あ、もしかしてなんか違ってた?」

「!お、おれも、自信ないし……、いいよ!!これがおれの!合ってる!た、たぶん……もう、けっこう飲んじゃったし。
さんも飲みなよ、喉渇いてるって言ってたよね」


たしかに私もストローに口をつけてしまっている。


「じ、じゃあ、いただきます」

「うんっ」


飲み慣れたお茶の味。
慌てていた心にいつもより染み渡る。

ちょっと奥まったこの場所は風の音はすれど、私たちまでは届いてなかった。
朝は寒かったのに束の間のあたたかさ、例年よりは暖冬だと天気予報も言っていた。


「おれが走ってたらさ」


もう飲み終わったらしい日向くんは自販機横のゴミ箱に紙パックとストローを分別しながら言った。


「2人乗りの時の先生にぶつかりかけたっ」


どこか悪戯っぽく笑う日向くん。

やっと、本当にいつもの日向くんでホッとしながら相槌を返した。


「怒られた?」

「あ!!って顔されたけどすぐ逃げた!からセーフ」

「よかった……、どこまで行ったの?」

「校舎をぐるって! すぐだよっ」


校舎一周と聞いてまた私は驚きが顔に出てたらしい。
日向くんがなんてことない、という体で付け加えた。

いや、ぐるってそんな簡単じゃないと思うんだけど……、あれ。

ゴミを捨て終えた日向くんが、さっきより人ひとり分くらい私から距離を置いていた。

お茶から口を離す。


「日向くん、……なんで、そんな離れてるの」


誰もいないんだし、もうちょっと、そばでも。

日向くんはズボンのポケットに両手を入れたまま、答えた。


「安全のため」

「あんぜん?」

さんの」

「わたしの!?」


私の、安全。

言葉の意味を飲み込むように、またストローでお茶を口にした。

日向くんは変わらず前を向いたまま。


「……私、いま危ないの?」


どういうことかな、と気になりつつ、今朝のことがちらついてふと考えが浮かび、いやいやと首を横に振って何気なく隣を見やると、日向くんとバッチリ目が合った。

すぐさまお茶のパッケージを見つめた。

茶葉の鮮度を閉じ込めました!定番の謳い文句が印刷されている。


さんっ、つか……おれ、なのかな」


日向くんが私がいる方とは反対側の手で前髪をかき上げた。


「日向くん……が、私から離れてないとあぶないって意味?」

「おれがっていうより、さんが、で……おれは、さん危なくしたくない、と思っている」


日向くんがまた片手をポケットにしまって、こっちを見た。


「でも、それは、おれの考えだから。

さんは、どうしたい?」


ふと質問されて、己の胸の内をかえりみる。


人ひとり分、日向くんとの距離感。

横に一歩、と、もう少しだけ詰めて日向くんの隣に並んだ。
さすがに自分の行動が幼稚に思えて顔は上げられない。


「こ、こうしてたい」

「そそそっか!」

「あ、危ないかな?」

「危なくない!!! ……ようにする」

「……そっか」

「!?」


袖を引っ張ると、日向くんがびっくりしているのは伝わってきた。
けど、せっかく2人でいるんだし。

次はいつ、こういう機会があるかわからないし。


ここには、誰もいないんだし。



ポケットじゃなくて。





「手、つないでいい?」


おそるおそる尋ねてみると、日向くんは隠していた手を出してくれた。
服から手を離してすかさず繋ぐ。
日向くんもギュッてすぐ掴んでくれた。

日向くん、嫌なわけじゃないんだ。

ホッとして嬉しくなってやんわりと握りかえし、まだ残っているお茶を啜った。
春は遠いけど、いま気分は春だ。スキップでもジャンプでもしたくなる。

と思ったら、いきなり日向くんがしゃがみこんだ。


「日向くん!?」

「大丈夫っ、ちょっと……待ってて」

「どっか具合、「そういうんじゃない」


さっき走ったのにな、と日向くんは呟いて膝を抱えた。


「本当に、大丈夫、なんだよね?」


校舎を一周してきたわけだし、その前もバレーの練習してたんだし、日向くんは元気なんだろうとは思うけれど。

受験生だろ、と従兄の注意が聞こえてくるようだった。

日向くんは大丈夫と繰り返した。

繋がっている手は、そこまで熱を持っているわけでもなさそうだ。

日向くんはしゃがんだまま、私の手を離さない。
大丈夫というなら信じよう。

でも。



「無理しちゃだめだよ」

「ん……」

「教室戻る?」

「まだ……もうちょっと、こうしてたい」

「わかった」


私も同じ気持ちだった。

もうひと頑張りするけど、あと少しだけ充電。


さん」

「なに、日向くん」

さん」

「なに?」

「……さん」


あんまりにも意味なく呼ばれるから笑ってしまった。

しゃがんでいた日向くんがゆっくり立ち上がる。

私に向き直って告げた。



「おれ、さんのこと、すき。

だいすきだ」


「……ぇっ、……うん、わ私も」



す き


言おうとしたのに、



さんお茶!!」

「お茶が!!!」


予期せぬ告白で変な力を加えてしまったようだ。
ひしゃげた紙パックからまだ残っていたお茶がこぼれ、私の指先を濡らした。
ぽつぽつと地面へも水滴が滴る。


「も、もったいないことしちゃった」

「ティッシュあるよ!」

「ありがと、あ、もう飲んじゃう」


手を繋いでる場合じゃない。
両手で紙パックを持ち直しあおる。一気に。
勢いづいた角度、思ってたよりたくさん残っていたお茶が今度は口元と服を濡らした。

練習用に上の服を変えていてよかった。なんて思ってる場合じゃない。お茶被害はさらに広がった。

日向くんが、びしょ濡れになった私をみて吹き出した。

私も、つられて笑った。笑ってる場合じゃないのに。

ふざけて言った。


「お茶こぼしたの、日向くんのせいだよ?」

「おれっ?」

「そう、責任取ってもらわなくちゃ」


どうとってもらうかまでは考えず、ただ、わざとそっけなく顔を背けた。

あ、紙パックはストローと分けないと。

中身のなくなったお茶を片付けていると、横から不意に手が伸びてきて、ティッシュがふわりと揺れた。


「使って!」

「ありがと」

「どうやって責任取ったらいい!? ゴミ捨てする?」

「それは自分でやるよ」

「他は? 何したらいい?」

「なんにもしなくていい」


何か適当にお願い事をしようかと思ったけど、いまの日向くんなら本当になんでもやってくれそうな勢いかあった。

ティッシュで手も拭いたけど、服も着替えたほうがいい。


「戻ろっか」

「おれ、さんのことすきなんだけど」


声がかぶって、私が固まってるのに日向くんは構わず続けた。


「いきなり言うと、今みたく驚かせるから、言う前に確認したほうがいい?」


日向くんの質問は、すごく答えづらい。


さん?」

「き、聞こえてるんだけど、その……どう答えていいかわかんなくて」

「確認いらないってこと?」

「いらないんじゃなくて」

「じゃあ、いる?」

「じゃなくてっ」

「じゃなくて?」


ちゃんと日向くんには言葉にしないと伝わらないみたい。

意を決して向き合った。


「確認されてもっ、それ、言われてるのと同じだから、……もう驚いてる」


しばし沈黙、のちに、あ!と日向くんが理解した。

なんか、いちいち動揺してる自分がバカみたいだ。
振り回されてる。


さん?」

「言うのも確認も受験終わるまで禁止っ」

「えっ!!!」


早足で校舎に向かうと日向くんが追っかけてきた。


さん、さん」


懸命な様子で日向くんは小声で続けた。


「きっ禁止されたら、おれ、パンクするかも。今だって言い足りないのに……、あ! メールならいい?」


そうじゃ、なくて。

こっちの気持ちもわかってもらいたいけど、もう教室も近いし、ひとまず服を着替えて勉強しようって背中を押した。

日向くんは食い下がってくれない。空き教室に私を連れ込んだ。


「きっ禁止されんの、困る」

「こ、困るって言われても」


私だって同じだ。
日向くんだってわかったはずだ、好きと言われたらビックリしてお茶までこぼしてしまう人間だ。


「日向くんのどこが困ってるの?」

「……困ってるってわかったら、禁止やめる?」


日向くんが様子を伺うように私の顔を覗き見た。

ほら、かんたんに私を動揺させる。


「なんで、そんな」


日向くんが視線を泳がせて頭をかいた。


「なんでって……さん見てると、かわいいなーすきだーっていっぱいになる。自分でもとめらんなくて」

「ちゃんと、わかってるよ」


日向くんが困ったように笑った。


さんに伝わってないから言いたいんじゃなくて、まだ、ぜんぜん足りてないから……。

……でも、おれ、自分のことばっかだ。

ごめん、そうだよな」


日向くんが柔らかな声で呟いた。


「大事にするって、決めたのに」

「そんなの決めなくても」

「!? こ、声に出てた!今のなし!!」


日向くんが、自分がしゃべったことを消し去るようにぶんぶんと両手を振った。
必死な様子に笑ってしまう。


「もう、聞いちゃったから『なし』は無理」

「そ、そこをなんとか!」

「無理だってば」

「わ、わかった!」


日向くんがキリッと表情を切り替えた。


さん、おれ、受験終わるまではすきって言わない!約束する!」


それは、びっくりさせられないんだなと言う安心感と、聞かせてもらえないんだと少しがっかりする気持ち半々をプレゼントしてくれた。


「……早く、受験終わりたいね」

「だね!!」

「日向くん、手貸して」

「?」


仕返しだった。

ぐい、と引っ張って、今朝、日向くんにされたみたく、じっと瞳を覗き込んでみる。

きらきら、キラキラしてるのはなんでだろ。
それは日向くんも同じだ。
さっきからずっと、日向くんは輝いている。


さん?

震えた声に呼ばれたけど、答えなかった。

日向くんから手を離した。


「手、ありがと」

「い、いつでも言ってくれたら、貸す」

「そのときはよろしく。

今度こそ戻ろう」


空き教室の扉に手をかけたときだ。

距離が縮まり、日向くんが耳元で『すき、だいすきだよ』と囁いた。
動けない私より先に廊下へと進んだ。


「ひな……日向くん!ねえっ」


約束、さっそく破った。

抗議の意を込めてにらむ。日向くんはどこか満足げに笑みをうかべた。



next.