ハニーチ

スロウ・エール 210





「日向くん、約束と違う」

「今のは、さんが悪い」


悪びれる様子もなく日向くんは言った。


「おれが、我慢できなくなるようなことするから」

「なっ、にそれ、人のせいにするんだ」


お互いにしばしにらみ合う。

のち、どちらともなしに破顔した。

照れくささ、うれしさ、気恥ずかしさ、すきって気持ち、そのほか色々。

もし校舎の中じゃなかったら、日向くんにふれていたかもしれない。



「あれ、山田さん!」
「帰んの?」


向かいからやってきた彼女は、帰り支度を終えていた。


「明日受験だし、早めに帰って準備するー」

「そっかぁ……」

さん、用事あった?レシーブ練?」

「じゃなくって」


放課後までいるなら、家庭科部の後輩たちのお菓子を食べようと誘うつもりだった。

そう説明すると、彼女はひどく残念そうに顔をしかめて放課後まで残ろうか半ば真剣に検討した。
とはいえ、3年生の宿命。受験が最優先。
予定通り帰路につく彼女はガックリしていたが、急にくるりと向きを変えた。


さん手貸して」

「手?」


言われるがままに片手を差し出すと、なぜか彼女にしっかりと握りしめられた。


「山田さん、なにやってんの?」

「日向、見てわかんない?」

「山田さんがさんの手を握ってる」

「そう、さんの頭のよさを分けてもらってる」


予期せぬ回答に、面食らう。


「私にそんな能力ないんだけど……!」

「大丈夫、もう5点は上がった」

「5点も!?」


効果はどうあれ、彼女が喜んで帰っていったならよかった。……のか?
仮に能力があったとして5点……。
いや、合否は1点で左右されることもあるから、そんな力があるなら欲しいところだけど。

日向くんもしげしげと私の手を眺めていた。


「日向くんも握ってほしい?」

「うぇ!?」

「そんな顔、してたかなって」


からかうように言ってみると、日向くんがそっぽを向いた。
他のクラスの人を廊下でちらほら見かけた。


さんに、そういうパワーあったら困る」

「日向くんの点数、アップできるよ?」


喜んでくれてもいいのに。
小首を傾げると、日向くんが口元に手を当ててないしょ話みたく言った。


さんが色んなやつに手握られんの、おれ、やだから」

「!」


そんな事態になることは絶対ないんだけど(だって私にそんな力はない)、日向くんがちょっと本気で言うから、同じようにひそひそと日向くんに近づいた。


「私も、

 日向くんがそうなったら…… やだよ」


柄にもなく可愛い子ぶってしまった気もする。
はずかしいけど、た、たまにならいいだろう。

日向くんが無造作に両手をズボンのポケットに入れて呟いた。
え?って聞き返すと、隣にいる私にだけ聞こえる声量でくりかえしてくれた。


「おれ、さん以外とぜったい手繋がない」

「……最近、他の人と繋いだの?」

「つっ繋いでないよ!さんとだけ!! あっ、夏とはつないだ!」

「なっ夏ちゃんはいいよっ家族だもんっ」

「そそっか、家族はいいよな」

「うん、家族はいいっ」


こんな話をしてると、なんだか手を繋ぎたくなってくる。
ポケットにしまわれた日向くんの手が気になる。

けれど、もう教室。
バレーの練習もしたんだし、そろそろ受験生に戻らなくちゃ。本番まであと少し。

中では自習をしている人たちがみえる。

私たちもがんばろ。
小声でこぶしを作って日向くんを見ると、いつもよりも声をひそめて日向くんも応えてくれた。







「おいしーっ!」


つい声が漏れる。

放課後、約束どおり日向くんと家庭科室に行くと、焼き上がりをさっそく試食させてもらえた。

量を作るのに向いているアイスボックスクッキー。この時期の定番メニュー。

食べさせてもらっているのとは別に、袋に入った詰め合わせまでもらってしまった。
しかもクッキー型を使ったものから、三つ編みのように凝ったものまで。
引退した先輩としては、後輩たちの成長がまぶしすぎる。


先輩たちのレシピはちゃんと受け継げてます?」

「これ、さんたちのクッキーなんだ!」


去年もらったやつと似てる、と日向くんが食べかけのクッキーを眺めた。


「私たちというか、この部で引き継がれてきたレシピらしくて」

「そうなんだー!」
「初耳です!」


私も友人に誘われて入った時に教えてもらった。
顧問の先生も部員の人たちに聞いたと言っていた。
発祥不明のレシピ、というと曰く付きみたいだけど、味はこの通りおいしい。

ついまた手が伸びてしまう。
遠慮する気持ちが少し働いて、見かけが不恰好なのをつまんだ。

後輩の子がクッキーを日向くんに勧めて、自分もひとかけら口に頬張りつつ言った。


「うちの部に代々伝わるクッキーなんですねぇ」

「そんな珍しい作り方でもないけど」


なんせ、ただのアイスボックスクッキー。
本屋さんのレシピ本をめくれば大抵出会うことができる。

エプロン姿の後輩が、胸をポンっと叩いた。


「私たちがちゃんと受け継いでいくので、先輩たちは安心してください!」

「かっ、かっけぇ!」

「ぜんぜん心配してないよ、こんなにおいしいんだし」

「もっと食べてください!まだ焼きます!」

「みんなの分、なくなっちゃわない?」


冷蔵庫にまだ生地が眠っているそうで、久しぶりに山ほどのクッキーを食べることとなった。

夕飯、ちゃんと入るかな。

片付けの手伝いも断られたので、手持ち無沙汰に教室に戻りながらしあわせな悩みをこぼすと、日向くんがどこか楽しげにこっちを見ていた。


「日向くん、ニヤニヤしてどうしたの?」

「!?」


そんなにクッキー食べれて嬉しかったのかな。
男子バレー部の3人もそれぞれクッキーの袋を手にし、抑え気味だけど嬉しそうな様子は隠せてなかった。

日向くんは頷いて続けた。


「そ、それもあるけどっ、さん、うれしそうだった!

 やっぱり、家庭科部好きなんだねっ」


自分のことなのに、日向くんはじめ周りの人にいつも気付かされる。
また顔ゆるんでたかもしれない。

後輩に誘われたら遊びに行くくらいには愛着はあって、一緒にクッキーを焼いていない事実に改めて心にすきま風が吹く程度には大事な場所。


「私ね」


自分たちの荷物を持って帰るべく下駄箱に向かっている最中、話の流れも考えずに切り出した。

階段の途中。
今朝は明るく見えたのに、下校時刻ともなれば蛍光灯の明るさだけだ。


「ずっと、さみしかったんだ」


自分たちのいなくなる教室。
部活で使っていた家庭科室、被服室。
日向くんたちが練習していた場所や体育館。

私たちのいる場所が消えるのが寂しい。


「いまも?」


日向くんは先に階段を降りることなく、一緒に途中の踊り場に立って尋ねた。


「いまは、へーき」


寂しくないわけじゃないけど。


「今日もね、思ったの」


いなくなる事実ばかり気を取られていた。

日向くんとこの間話した時もそう。

悲しくなる部分にばかり注目して落ちこんで、ほんとうはそれだけじゃない。

新しい居場所ができる。

次の場所で、新しいだれかに出会い、結びつき、新しい体験をする。

私たちのいなくなった場所も、空っぽになる訳じゃない。
今日だって後輩たちの新しい関係を目の当たりにできた。顔を背けていたら気づけなかった。

新しい時間がはじまる。



「バレー部のみんなもさ、前よりがんばってたね」

「うん……、すごく、ボール追っかけてたね」


日向くんも今日の練習のときの三人を思い出しているようだった。


「うちのバレー部がどんな風になってくのか、家庭科部はどんなのを作ってくのか……そういう未来を想像したらワクワクしてきて」

「未来?」

「そうっ。 私たちも、おんなじように新しいことできるんだなって。

今までできなかったことも」


新しい世界へ、未知なる明日へ。

知らない場所に踏み出せることを、人は『成長』と呼ぶんだろう。



「バレー?」


日向くんがぽつりとつぶやいた。


「そう、バレー。

 高校で、バレーできるよ」


日向くんが言葉の意味を噛み締め、深く頷いた。
はやく、早くやりたい。
心からの願いに、私もまた大きく同意した。


「だから、もう寂しくない。今のクラスも好きだけど、次のクラスもきっと」


やっと階段を一段ずつ降りていく。


「新しい友達もできるし、新しいことやれるの楽しみ、で……?」


頭にふれたのはなんだろう。

振り返ると数段上に立っていた日向くんが私をなでてくれたんだと理解した。

見上げていると、日向くんが慌てて手を外した。


「ごっごめん、つい!!」

「……」

「よかったなって!! さんうれしそうだから!!」

「ん……」

「やっぱりさ」


日向くんが言葉を句切る。

なにをいうんだろう、目で追いかけたのが1秒。

次の瞬間、日向くんは飛んだ。高く。
階段のどこに立っていたかなんて構わず。

“ 跳躍 ”

そんな表現がぴたりとハマる、刹那の移動。

着地した日向くんが私を見上げた。



さん、今日、キラキラしてる」



そう言い残して、靴を履き替えに下駄箱へ先に行ってしまった。

きらきら。また、キラキラ。
 していたのは、日向くんの方だ。

いま、一瞬、未来を見た。
日向くんが高くたかく飛んで、その先にバレーボールが待っている、そんな試合。そんなコートの中を外から応援している自分がいた。

ハッとして階段を下り、同じく靴を履き替えた。

胸が高鳴る。それは新しい毎日への期待感でも、日向くんを想う恋心とも少し違う。
今の心境を的確に表す言葉が浮かばないけれど、あえて努力するなら、興奮、とも言うべき高揚感。

ここは、ただの中学校の昇降口だって言うのに、スポットライトが集まる体育館にいた気分だ。
まぶしいのに、目が離せない勝負の場。

日向くんはこっちを見ない。


「日向くん、……ねえ、日向くん」


返事はないけど、呼ぶと顔を上げてくれた。

日向くんだ。
いつもの、私の知ってる日向くん。

今は、それがうれしかった。


「おっおれ、自転車取ってくる! いつもんとこで待ってて!」

「わかった」


日向くんがダッシュでいなくなる。

通りかかった先生に騒がしいなって声をかけられた。
この時期恒例の受験トーク。
その話はこないだも聞きましたって口を挟みたくなるけど、かえって気持ちが落ちついた。


、来週だろ? 期待してるぞ」

「はい、がんばりますっ」


何度もかけられてきた言葉、もう素直に受け止められた。
私は自分の意思で足を進める。

いつものところで、日向くんが待っていてくれた。


さん、なんか忘れ物?」

「ううん、先生に話しかけられちゃって」

さん、先生に人気あるもんなー」

「ないよ!」

「おれなら、補講か、宿題忘れてるか、手伝わされるかだよっ」


日向くんの話につい笑いつつ、あと何度来れるかわからない母校を後にした。

帰り道、受験の話からバレーのことを話した。それと今日のクッキー。
日向くんがすごく、すごく褒めていた。こちらの機嫌を損ねるほどに。
最初は後輩たちが誇らしかったけど、そこまで聞かされると、そりゃ、モヤモヤもする。


さん?」


気づかなくていい時には気づくのに、こういう時に限って日向くんは鈍感だ。


「どうしたの?」

「私も、受験終わったらクッキー作ろっかなー」


そしたら、食べてくれる?

チラと自転車を押す日向くんの様子を伺うと、瞳を輝かせて二つ返事で食べたいと答えてくれた。
さんが作るのすごくすきだ!!って聞けてこっそり機嫌を直す。

おいしいの作るねって。
心の中で、今日のよりも、と付け加えて。

我ながら子供じみてると思ったけど、バスの中で何を作ったら日向くんに1番喜んでもらえるか、ちょっと先の未来までを想像した。


next.