ハニーチ

スロウ・エール 216





、本当にこれに乗るんだな?」

「の、乗るっ。 私たちじゃまた迷って帰れなくなりそう」


バス停前、1台のバス、と私たち二人。

最終確認とばかりに答えを聞き終えてから、先陣を切って飛雄くんはバスに乗り込んだ。
ひどく混みあうバスへ。

せっかく受験生の波を避けたのに遅くなりすぎて、今度は帰宅ラッシュの時間になっていた。
中途半端な位置のバス停で降りる人もいない。

本当はもっと歩くつもりだったけど、飛雄くんとのおしゃべりに熱中していたら、正しい方角が分からなくなってしまった。

やっと見つけられたバス停、夜になるほど下がる気温。
背に腹はかえられない。

飛雄くんに続いてバスのステップに足をかけた。

なんとかギリギリ乗車できた。
と思ったのは私だけで、センサーなのか、バスの扉がなかなか閉まってくれない。

運転手さんに、もうちょっとだけ奥に詰めてもらえませんかと声をかけられた。

これでもかってくらい車内に身を寄せてみる。

前に立っていた飛雄くんが、こっちに視線を落とした。


、カバン。 もっと引け」

「こ、こう?」

「そうじゃない」

「あ!」


バスの扉が閉まる。

私から違いがわからないけど、センサー的には閉めるに値する状況だったようだ。

乗車率100%をとうに超えているであろうバスがゆっくりと走り出す。

足の、踏み場が。

緩やかなカーブと坂なのに、足先への負担がすごい。

できることなら一段下がった位置にいたいけど、注意書きもあって動けずにいた。


て、ゆか。

これ、いま、どんな状況だろう。

私のカバンは飛雄くんの腕で押さえてもらって、真ん前に飛雄くんがいて、私の腕は飛雄くんに当たるどころかぶつかっていて、え、これ、いいの?いいのかな?
この状況を誰かに説明してもらいたい。
車内はどこもくまなく密着しあっていた。
動けば飛雄くんにうずまってしまう。息をひそめてじっとするしかない。

暖房が効きすぎなのも相まって、頭がさらにぼんやりしてくる。


「あの、飛雄くんごめん」

「何がだ」

「いや、すごく押しちゃって。後、カバン」

「混んでるからな」

「ご、ごめん……」


バスに乗ると決めたのは、私。
付き合わせてしまったのも、私。

後悔からいたたまれず、もう一度謝罪する。

顔上げろ。

言われた通りにした。


あたっ!

額を指ではじかれたんだって、ジンジンと残る痛みで理解した。

飛雄くんはどこか楽しげだった。


「目、覚めたか?」


飛雄くんに対する申し訳なさが一気に消し飛んだ。

バスが赤信号で停車する動きに合わせて、足にぐっと力を入れて踏みとどまる。


「ずっと起きてるっ」


私の答えに飛雄くんは特に反応はせず、おでこをはじいた手で手すりを掴んだ。

目が合うと、鼻で笑われた気がする。


「っ!」


文句の一つ、言いたかったのに。

口がふさがった。ゴツン、と音はしない。
飛雄くんにぶつかったから。
すぐ一歩後ろ、下がると段差だったって、支えられてから思い出した。飛雄くんのおかげで落ちずに済んだ。

踏み外したつま先を元の場所へゆっくり戻す。

ごめんって言「謝んな」


すぐそばで聞こえた。

今度はおでこ同士ぶつかるかと焦ったけど、飛雄くんの方は体幹がいい?のか、するりと避けた。

飛雄くんの髪と私のが触れ合ったのはわかる。
声がした、すぐ横、耳元。

に謝られんの、好きじゃねぇ。




「そ、……そっか。

 じゃあ、もう、謝らない」


そう言いながら、本当は今すぐ「ごめん」って離れたかった。

自由に動けるスペースないのはわかってる。
停車ボタンを押す? でも、降りないのに押すのは変だ。みんな終点まで降りないんだろうか。

一斉に停車ボタンのランプが点灯した。
誰か降りる。
顔も知らないその人に感謝した。

なんにも考えられない。

暑いから、この中。

そうに決まってる。


「暑いな」


飛雄くんがポツリとこぼした。

同じ感想。


「お、降りたら寒いよ」

「寒いなら走ればいい」

「まだ、走る気なんだ」

「今日は試験だったからな」

「朝、走んなかったの?」

「いつもより短くした」


少しは受験生の自覚あったんだって感心した時、やっとバスが停車した。

思ったよりは人が減り、ようやく正しい距離感を保って車内に立つことができた。

人心地がつくと同時に、どんな体勢でずっといたか理解した。


「飛雄くん、ありがと」


夜の窓ガラス越しに飛雄くんと目が合う。


「けっこう、腕、つらかったでしょ?」


自分のことだけで精一杯だった。
考えてみれば乗っていた人全員がそうで、飛雄くんも同じだ。

それなのに、私のことまで支えてくれた。


「つらくはねーけど、重かった」


飛雄くんは言葉を飾らない。

……受験生の宿命。
運動量が減れば、当然、増える。

練習しっかり続けていたけど、まさか間食多くなってた?

密かにショックを受けていると、カバンを持ち上げられた。


「なっなにっ?」

、こん中、何入ってんだ?」

「過去問とか、念のための参考書とか」

「今日、試験だろ」

「試験だからっ」


いいから離して、ともう一度カバンをしっかり持ち直す。


「そういう飛雄くんこそ、なんでボール入れてたの?」


飛雄くんは表情一つ変えずに、練習するためだろと答えた。

ほんと、バレー馬鹿。


「なっ、ば、馬鹿ってなんだよ」

「バレー馬鹿って言ったの」

「俺は、馬鹿じゃねー」

「じゃあ、バレー人間?」

「……バレー人間って、なんだ」

「飛雄くんみたいな人のこと」

「な、ならいい」


いいんだっ。

ちゃんと意味を理解してなさそうな飛雄くんを横目に、停車ボタンを押した。


バスから降りると、予想していた通り寒かった。

暑さと寒さの両極端、なんだか感覚がおかしくなる。




「なに? あ、飛雄くん、走って帰る?」


よくあることだった。

付き合う日もあるけど、さすがに今日は走るどころか歩くのも遠慮したい。

片手を挙げた。


「じゃあね」「約束」


声が重なった。

飛雄くんが続けた。


「忘れんなよ」


数歩分だけ離れた距離にいる飛雄くんが、いつまで経っても返事をしない私に気づいて、少しだけ不機嫌そうに戻ってきた。

や、約束って、なんだっけ。




「待って、ちょっと考える時間っ」


あ、思い出した!


「2対2っ、またやろうって話だよね、そのことだ!合ってるでしょ? 覚えてるっ」


というより、今思い出した。

飛雄くんがムスッとした様子で腕を組んだ。
忘れんなって。


「いや、だって……

 受験終わった後のことだったから」


「受験なんて、ただの通過点だろ」


飛雄くんは、とっくに先を見据えた眼差しだった。

ただの、通過点。

すぐ口走りそうになる『ごめん』の代わりに、笑顔を作った。


「そ、だね、ちゃんと覚えとく」

「そうしろ」

「もしかしてさ」

「?」

「楽しみにしてる? 私たちとの2対2」

「!べ、別に、ただの練習だっ、4月になったら本格的に始まるから腕試しにちょうどいいくらいで」


まだごにょごにょと何かしゃべっていたけど、ただの腕試しのことを飛雄くんがそんな風に覚えていてくれたことは、なんとなく嬉しい。
私や後輩二人とか、飛雄くんのなかに居場所ができたみたい。


「じゃあ、次会う時は2対2だ」

「その前に烏野だろ」


そういえば、あったな。
烏野の入学試験。

なんではそんなにボケてんだって飛雄くんに突っ込まれたけど、原因は、今日あった出来事すべてだ。
白鳥沢のテストは難しかったし、訳わかんない人に連れてかれるし、飛雄くんとの練習だって予定外。

試験結果は待つだけにしても……もう、へとへと。

おぼつかない足取りで家に帰った。

飛雄くんは、ずっといつもと同じでしゃんとしてたな。



私も、

   もっと、ちゃんとしたい。


何があっても大丈夫でいたい。


考えないでやってみる。

そう決めて、やってきた、つもりだけど。


なんでこう、

できなかったことばっかり浮かぶんだろう。

やめよう、考えちゃだめ。
考えるな。

自分に言い聞かせつつお風呂で眠りかけ、勉強して、試験して、バレーして。

ときどき、無性に考え込んで。

そんな風に時間は過ぎ、すぐに過ぎ去っていき。

クライマックスみたく感じていた試合の前日、朝からずっと、飛雄くんの『通過点』という言葉が頭から離れなかった。



next.