ハニーチ

スロウ・エール 217





どうしよっかな。


下駄箱の前で足が止まる。

明日はいよいよ試合とあって、気持ちが落ち着かない。

朝から学校で受験生らしく自習をこなし、お昼は学校に来ていた友達と済ませ、まさに家路につこうとしていた。

靴を履き替えようにも、まだ、何かしたくてうずうずする。

日向くんたちの公式試合を迎えた時とかぶる。

やっとバレーができるって胸が高鳴って、同時に、大丈夫かなって肩に力が入る。
この感覚、……本当に久しぶりだ。

公式試合だったら、前日の今日はチームの調整だろうけど、なんとかこぎつけた単なる試合じゃそうもいかない。

みんな協力してくれているし、すごく感謝してる。
けど、本当の“チーム”じゃないから、それぞれやることは別にあって、パッチワークみたく皆の都合を合わせて予定した練習はとっくに終わっていた。

明日の試合は体育館の予約のとれた午後3時から、1時に近くの公園で待合せして、別のスペースで調整できるだけよかったと思う。


それでも、バレーがしたかった。

落ちつかない気持ちは、練習不足なのか、待ちきれない高揚感からか。

確かめるならきっと、この手で、身体で感じる他ない。


一番付き合ってくれている女子バレー部の元・主将の山田さんは、今日は試験で学校にいない。
男子バレー部の1年3人は、女子バレー部に混ぜてもらうし、当たり前だが5時間目も6時間目も授業がある。

北一の後輩くんたち二人も授業があるし、仮になくたって呼びつけられるわけもなく、学校にいる付き合ってくれそうな友達はみんなバレーに興味はなかった。

サーブ練習ならひとりでできる。

飛雄くんがそう言っていたのが浮かんだけど、受験真っ最中のこの時期に、体育館を貸してくださいと先生に言えばどうなるか、そんなの目に見えていた。

やっぱり、体育館は『なし』だ。


昇降口の傘立てにボールを見つけた。

運動靴に履き替えて手に取ってみる。

きっと誰かが片づけ忘れたんだろう。
帰るべき場所に返してもらえていないボールは、ときどきこんな風に転がっていた。


校舎の外は、空が明るかった。


5時間目が始まって学校は授業中特有の静けさとほんの少しのざわめきが広がっていた。

誰かの気配はするのに、ちょうどすっぽりと違う世界に迷い込んだみたく、すべてが遠い感覚がする。

本当は私もその一部なのに、ひとり切り取られ、異なる時間を与えられた気分だ。


日向くん。

クラスの下駄箱を探したものの、上履きしか入ってない。

それでも、会いたくなった。

いざ試験が始まると、どちらともなしに連絡を控えていた。

午後から来るかもしれないし、来なくても不思議じゃない。
日向くんの家からこの学校は距離もある。

ボールを抱えたまま昇降口を出て、隅っこの花壇のふちに腰かけ、本当はいけないんだけど、校内で携帯電話を取り出した。

着信履歴に並ぶ、日向翔陽の文字。

通話ボタンを押した。

1コール、2コール……、電話は鳴れども、日向くんから応答はない。

一瞬、試験だったらまずいと思い至ったけど、日向くんのすべり止めの受験は明日で、連続ではなかったはず。

もしかしたら勉強に集中してるのかも。
邪魔するのはよくない。

留守電になる前に携帯を閉じると、すぐ携帯が震えた。

着信:日向翔陽。



「もっもしもし」

さんっ!?』


まぎれもなく日向くんの声。

辺りを見回して誰もいないことを確認しながら、そうだよと答えた。
自分でもわかるくらい声が弾んでる。


『どうしたのっ? なんかあった?』

「あ、いやちょっと」

さん、いま学校?』


思わずもう一度自分の周りを確認した。

どこかで日向くんが見てるのかと思ったけど、そばに人気はない。


「日向くん、なんでわかるの?」

『おれ、今さっき出たんだけどさ』

「出た?」

『すぐ戻るっ』

「えっ?」

『待ってて、いま行く!! さん、すぐだから!!』

「あの」


もう、電話切れてる。

呆然としたまま携帯の画面を眺めていると、携帯電話の方はスムーズに通話時間の表示から通常画面へと切り替わった。

こっちはそうもいかない。

日向くん、戻るって……もしかして今日、学校いたのかな。

短い会話から想像するに、家に帰ってる最中に電話に気づいてかけ直してくれて、なぜかわかんないけど、私が学校にいることがわかって、今まさに戻ってこようとしている。

なんで、そんな。
 いいのに、わざわざ。
どうせなら二人の中間地点で待ち合せた方が。
 日向くん、すぐって言ってたけど、今どこ?
教えてくれたら私も向かうのに。

気づけば、立ち上がって右に行き左に行きと、第三者から見れば大混乱しているのが丸わかりな行動をとっていた。

電話、かけ直す?

でもすぐ来るって言ってた日向くんのこと。
絶対ものすごい勢いで自転車をこいでるはずだ。

きっと気づかないし、下手に携帯に気を取らせて何かあっても嫌だ。

すぐって、日向くん、すぐってどれくらい?

ど、どこで待ってよう。

そうだ、自転車置き場。


あ、ボールどうしよう。

いいや、持ってっても。


うれしいのに、うれしいけど。

日向くん、いっつもそうだ。

もうちょっとだけ立ち止まることを覚えてくれたら、でも、即行動こそ日向くんらしかった。


自転車のブレーキ音が響く。

振り返ると、日向くんがいた。



さんっ!!」


ほんと、すぐだ。

日向くんは自転車から降りると、勢いよく押しながら走ってきた。

私も駆け寄った。


「日向くんっ」

さん、ほら、すぐだったでしょ?」

「す、すぐだね。 ほんとについさっき学校出たんだ」

「タイミングよかった! いやっ、悪かったかな?」

「えっ?」

「いつもはさ、さん来てないかなーってかならず下駄箱チェックすんだけど今日はしてなくて!」


そんなこと、してたんだ……。


「だからさ、さんから電話来て、会えてよかったっ」


日向くんが空いている場所に自転車を元気よく停めた。


「なんかあった!?」

「あ、えと……大したことじゃ、ないんだけど」

「なになにっ?」

「トス、あげたくて」

「いいのっ!?」

「いいのって、私のセリフだよ?」

さんのトス、すきだっ。 プレゼントもらえた気分っ」


ふっと笑ってしまった。


「日向くん、大げさすぎ」

「受験中はみんな付き合ってくんないしっ、どこでやる!?」

「えーと、いつもの裏の方行く?」


3年生は授業はないとはいえ、大っぴらに勉強以外のことをするのは気が引けた。

日向くんは力強く頷いた。


「いいよ、さん寒くないっ?」

「わ、私は平気。日向くんこそ」

「スッゲー自転車かっ飛ばしてきたから大丈夫っ、さん行こっ」


日向くんが自転車の鍵をしまってカバンを勢いよく肩にかけた。


「ボール、それ?」

「これ、転がってたやつで」

「下駄箱? だったら寄ってこ! おれ、隠し球あるよっ」

「かくしだま?」


日向くんの言う通り、本当に下駄箱の一角にバレーボールが隠されていた。

たしかに隠し球だ。
慣用句みたいな切り札じゃなく、言葉通り、隠されていたボール。
って、いいのかな、学校の備品だけど。

聞けば、許可をもらって借りているらしい。

日向くんは私の見つけたボールをすぐ隣の空きスペースに置いた。


「あとで片付けとくよ、体育倉庫のやつだし」

「どっかの教室じゃなくて?」

「サインペン、どこもないから」

「あ、そっか」


言われてみればボールの表面にサインペンでクラスが書かれていない。
だったら、体育倉庫に返せばいいのか。

日向くんさすが、慣れてる。


さん、行こうっ」


日向くんの足取りが軽い。

すぐ後ろをついて歩くと、日向くんがよく練習していた場所の一つの校舎裏に到着した。

日向くん、鼻歌うたってる。

機嫌いいねって声かけると、ハッとした様子で振り返った。


「そりゃだって! さんが電話くれたら、さ」

「よっ、よく、気づいてくれたね。 ありがと」


日向くんの反応に照れてしまって、荷物を適当な位置に置くふりをして顔をそむけた。


「待ってたから、ずっと」


日向くんが上着を脱いで準備運動を始めた。



「おれからかけよっかなって……何回も思ったけど、さんの、邪魔、したくなかったし。 一回かけたら、ずっとかけそうで、我慢してた。

 だからさ、今日、会えてうれしい」


日向くんがボールを手にした。


さん、ありがとう!!」


日向くんが放ってくれたボールを受け取った。


「やろっ、さんがやりたい分だけ、おれ、付き合うよっ。

 明日だしさ!」


日向くんが言う“明日”は、あの試合のことだ。
しっかりと、知られている。

深く頷いて、手の中のボールを持ち直した。



next.