“もうちょっと、一緒にいない?”
「同じこと言おうと思ってた」
「ホントっ!?」
日向くんが嬉しそうに聞き返してくれて、自分のほっぺたが緩んだことにも気づかず応えた。
「日向くん、どこ、」
行こっか?
聞きかけて、風にのった消毒液の匂いに振り返る。
「ま、まず、ここ離れよう」
「なんで、あ、そっか!」
指を差すと、日向くんもすぐ気づいてくれた。
保健室の前は、静かにしないと。
それに、ここでのおしゃべりは先生に筒抜けだと学んだばかりだ。
目についた空き教室に入った。
一番後ろにある中ぐらいの高さの棚に、お互い荷物を脇に置いて座った。
机も椅子もない教室は、がらんとしている。
黒板は普段使われてないおかげで、チョークにまみれた様子もなく佇んでいた。
「さん、指、大丈夫?」
氷を当て直した時、日向くんに聞かれた。
手を大きく結んでひらいてみせた。
「大丈夫、ほら」
「でも、明日の試合」
「痛くないよ、ほんとう。 もっと上手くやれたらよかった」
「おれが、トスっ、下手だから」
「追った私が悪いから。 今までやってきてないんだし、そうなるよ」
当たり前のことだ。
日向くんはずっと、ちゃんと、バレーをできていない。
頭の片隅にのけておいた質問を引っ張り出した。
「……なんで、ボール上げてくれたの?」
日向くんは、スパイク、好きなはずだ。
出すよりも打つ方が、ずっと。
「すき、だから」
日向くんが手持ち無沙汰に足をぶらつかせた。
「さんにもあげたかった、トスっ。
すきじゃない?」
「ううん、すきだよ。
打つの、気持ちいいよね」
「よかったっ。
そう、気持ちいい! ばしって手に当たると、こうー、ガッ!!ってガシンッて来るっ。
さんが、……いつもセッターやってるの、トス上げるのすきだから?」
日向くんは、私の様子を伺っているのか、声の強弱に波があった。
きっと、私が話したくないラインを見極めようとしてくれている。
日向くんから質問を受けることは、特にバレーに関することは、これまでなかった。
どう答えるべきか、よくわからなかった。
氷の入った袋を意味なくいじる。
冷たすぎて、指の感覚がなくなりそうだ。
なんで、トスを上げるのか。
「私も、すきだからかな。
トス、……打つの」
日向くんが身じろぎしたのがわかって、そっちを向くと目が合った。
「打つの? すきなのに、さんが上げんの?」
「変、かな」
「変じゃないと思うけど、でも好きなら、さんがなんでトス、あげんのかなって。
打つの、やればいいのに」
すぐに返事ができずにいると、日向くんが慌てて首を横に振った。
「はっ、話したくないならいい、ごめん」
謝んなくていいよ。
大丈夫だよ。
そう、言えば済むことだ。
頭ではわかってるのに、言葉を選んだ。
もうごまかすのも、話を流すのも、その場凌ぎの説明をするのも違う気がした。
私が、なんでトスを上げるのか。
過去に遡って、胸の奥にしまっていた感情を、そっと紐解く。
今なんだと、思う。
一番奥底に仕舞い込んでいた気持ちと向き合うなら、日向くんがいてくれる、今なんだ。
「私ね、ボールがこう、手にばっちり当たって打ち抜くの、好きで、楽しくて。
ずっと、ずっと打ってたかったの、小さい時」
何がきっかけだったかは覚えていない。
ある時、祖父がもやってみるか?と庭先でやったのがはじまりか。
それとも、従兄の練習をずっとずっとそばで観察してたら見かねてやらせてくれたからか。
覚えているのは、楽しかったこと。
私がボールを打つと二人が褒めてくれた。
笑顔になってくれた。家族も喜んでくれた。
それが、ただ、嬉しかった。
うれしくて、嬉しくて、それが楽しくて、楽しいから嬉しいのか、はたまたその逆かもわからない。
ただ、ずっとこの時間が続けばいいって思っていた。
『つまんない、バレーなんか』
たしか、チームメイトの誰かが、ある時、練習の最中に言い出した。
つまらないという感覚を持ち合わせてなくて、純粋に相手の気持ちが想像できなかった。
共感を求めていたその子は、不貞腐れた様子で続けた。
はできるから、わかりっこないって。
もうやめるって、そっぽを向かれて。
『だったらさ』
ほんの思いつきだった。
『私が、トスあげよっか』
「そしたら、その人、バレー続けたの?」
「うん……、やっぱりさ、“できたら楽しい”よね」
その感覚なら知っていた。
できるようになると、なんでも楽しい。
“好き”をあげられるなら、私は自分が打つより、トスをあげようって思った。
どんどん上手くなって、もっとみんなに“楽しい”をあげようって。
それが、私の“楽しい”に繋がる。
「でも、いつからかな」
楽しいだけじゃ、なくなった。
「どうして?」
「色々、ね」
「いろいろって?」
「……うまく言えないんだけど、たとえば……、もし、他にセッターやりたい人がいたら、私がセッターしてたら、できないでしょ?」
コートに出られるのは、6人までだ。
「それに、ほら、ボールは一つだから、トスも一人にしか上げられないし」
楽しいままで、いられない人が出てくる。
チームメイトのことだけじゃない。
日向くんには伏せたけど、コートの外にも気づくようになった。
バレーをする以上、私は、ただの“わたし”じゃいられない。
祖父も従兄も好きだけど、だいすきだからこそ、きちんと切り離しておきたかった。
でも、できなかった。
日向くんの様子を確認すると、たぶん、私の言っていることが通じてない。
「ご、ごめん、よくわかんないよね」
「いやっ、えっと、さんが言うことわかんだけど、いや、全部はわかってないと思うけど……
でも、トスが誰かに上がるのは当たり前だし、さんがセッターやるのは、さんが選ばれたからで、だから、その、さん、気にしなくても……」
日向くんが遠慮がちにこちらを見る。
わかる、日向くんの言うことはもっともだ。
それでも、私は。
「みんなが楽しいほうが、よかったの。
それが、バレーする理由だったから」
私のトスでみんなが楽しければいい。
みんなが楽しいと私も嬉しい。
でも、私がバレーするだけで喜ばない人もいる。笑顔にできない人もいる。
波風が立つこともある。
上手くなればいいのかと練習を重ねたけど、意味はなかった。
どこかがうまく行けば、どこかが噛み合わない。
解決方法はわからないのに、何かがズレていくことだけはわかる。
綻びは、見つけたら最後、無視して進み続けることはできないんだ。
いつか立ち止まる時が来る。
1番のスパイカーがいた最後の試合の、最後のトス。
決定的だった。
「合わなかったの……、私が迷って、試合終わって……
なんとかしたかったのに、できなくて。
その子がいなくなった残り一年もずっと続けたけど……」
気づいたら、
ずっと続いて欲しかった時間を見失っていた。
何を望んでいたのか。
何を好きだったのか。
何をどうしようとしてたのか。
「自分のことなのにわからなくなって……
他のことしてみたら、わかるかなって」
あれだけ身近だったバレーボール。
やめてしまったらどうなるんだろうって怖くもあった。
離れるのは、想像してたよりずっと簡単だった。
手元の氷はすっかり溶けて、ただの水袋になっていた。
言葉を飲み込み、明日を思う。
やっと、向き合える気がする。
「ごめん、日向くん! 自分のことばっかり」
「なにできる?」
日向くんが、私の方に片手をついて身を乗り出した。
「おれ、さんのためにできることがあるなら、なんでもするっ。 言って!」
「ぇ」
「ないっ?」
「な、ないっていうか、その」
日向くんが悲しそうになるから、慌てて続けた。
「いてくれるだけでいい」
氷嚢だったものを横に置いて、日向くんの方に同じく手をついた。
「こんな風に、日向くんがいてくれたら、それだけで十分で」
「もっと、ないのかな……」
「もっと?」
「おれに、できること」
「できること……」
日向くんの問いを理解するために腕を組んで繰り返してみても、答えは浮かばなかった。
「おれが、さん、困らせちゃ意味ないよな」
「こ、困ってないよ、日向くん、わたし」
改めて、日向くんの方を向いた。
「日向くんがいるだけで、がんばれる」
こんな風に自分のことを想ってくれている。
それだけで、力になる。
「ほんとうだよ? 本当に、そうなの。
日向くんがそんな風に言ってくれて、もう、いま私、なんでもできそう」
そうだ!
「また、前みたく、がんばれって言って。
日向くんに言ってもらえると、もっとがんばれるっ」
名案だとはしゃいだせいで、水袋が足に当たって落下した。
さいわい破れてこぼれたりせず、棚から降りて拾い上げた。
日向くんも床に足をつけた。
これ、捨てて来るね。
言おうとしたのに、言えなかった。
腕の中。
日向くんに抱きしめられていた。
「さん、がんばれ。
……がんばれっ」
すぐそばで聞こえる、小さなエール。
おかしいな。
頑張れって言ってもらったのに、日向くんの声色がやさしくて、とてもやさしくて……
がんばらなくていい
そう、言われた気分だ。
胸の奥が、やる気に満ちて熱くなる。
同時にくすぐったくてあったかい。
ただ、力いっぱい抱きしめられてるだけで、なぜだろう、守られてるみたい。
「ありがとう、日向くん。
ほんと、がんばれそう」
できることなら、今この瞬間を切り取って、宝箱にしまっておきたいくらいだ。
片手に摘んだ水袋がいい加減邪魔だった。
「あの、日向くん」
そろそろ離してくれるんじゃ、と声をかけてみても、日向くんは動かなかった。
う、嬉しいけど……、どうしたんだろう。
「日向くん?」
もう一度声をかけると体が離れた。
日向くんが私の両腕を掴んだまま、真剣な眼差しで言った。
「さん、もっかい!!
いいっ?」
「う、うんっ」
何のことかわかってなかった。
勢いに押されて頷いた。
!?
ふたたび、日向くんの腕の中にいた。
next.