ハニーチ

スロウ・エール 220




「おれ、さんのこと、抱きしめてたい」


いま、抱きしめてる。

日向くんの言ったことは聞き取れたものの、理解はできてなかった。

私の背中に、日向くんの腕はもう回っている。

指摘すると、


「そうだけどっ、そうじゃなくて」


日向くんの手のひらが後ろ髪にふれた。


感覚がゆっくりと髪を伝い、また背中にもどってくる。


「がんばってたさんのこと、おれが全部の時間、会いに行って、今みたく、こう、ぎゅってできたらいいのに……」


日向くんがもどかしそうに、どこか後悔してる様子さえみせた。

大丈夫だよと、空いてるほうの手で日向くんの制服をやんわりと握る。


「いま、してくれてる」


なにかできたらいいのにって。
はじめからそばにいて、何かしてあげられたらって。

日向くんの言いたいことは、なんとなくわかる。

人は、だれかを想うと、できるはずなくても過去に遡って全部なんとかしたくなるみたい。

思い上がりかもしれないけど、たぶん私と同じ。

自分をなぐさめた時のように告げた。



「これまでの時間があって、いま、この場所にいるから。

 日向くんが今、ぎゅってしてくれたら、全部ぎゅってしてもらえてる」


制服から手を外し、日向くんの背中にそっと添えると、日向くんがすぐ口を開いた。


「そうっ、だと、いい」

「そうだよっ。

 だから、全部ありがとう、日向くん」


気持ちがあふれてくる。

思いきってぎゅっと抱きしめ返すと、日向くんの肩に力が入った。


「お、おればっかりうれしくなってる……!」

「えっ、いや、私もうれしいよ」

「おれの方が、ぜったい嬉しい!!」

「わ、私だって」


なんでこんな張り合ってるんだろう。

日向くんも同時に思ったのか、笑って脱力した。

日向くんが、ぽつりとこぼした。


「確かめる?」

「どうやって?」

「顔みたらわかると思う」


日向くんが腕の力を抜いたから、合わせてそっと身体を離した。

こんなにくっついてから改めて向き合うと、なんだか照れてしまう。

日向くんも同じだったようで、お互いの顔を確かめるはずが、どちらともなしに視線を外した。


「ど、どっちが嬉しそうだった?」


切り出すと、日向くんがほっぺたをかいた。


さんもうれしそうっ、だった」

「日向くんも、そう」

「気付いたんだけど」

「なに?」

「おれからはさんが嬉しそうなのわかって、さんは、おれが嬉しいのわかって」

「うん」

「どっちも相手のことわかるけど、同時に見れないから、引き分けにならないっ?」

「そ……、言われたら、そっか」


そもそも、どっちがより嬉しいかなんて決着がつくものではないけれど、日向くんの説明になぜかしっくりきた。


「じゃあ、二人とも嬉しいんだ」

「嬉しい! ……うれしい」


日向くんが二回目をしみじみと噛み締めるように言った。


「そんなに?」

「そんなに!!」


元気よく返される。

なんとなくはずかしくなって笑ってみせた。

日向くんが呟いた。かわいいって。

聞き間違い? 日向くんは続けた。


さん、かわいい……かわいいな」

「!いや、えと」

「うわっ、声!!! ご、ごめっ、いや、謝んのも変だよな」


日向くんがあわてて口元を片手で覆ってから、悩むように腕を組んだ。


「あっ、そのっ、あ、ありがと」

「ほんとのこと言っただけだから! お礼いいよっ」

「そ、そっか」


でも、他にふさわしい返しも浮かばない。
混乱しつつ俯き、真向かいに立つ日向君の上履きを見つめた。

かわいい、だって。
日向くんに、可愛いって、言われた。

どうしよう。


さん」


呼ばれたこともそうだし、頭にふれる手にハッとした。


さん……」

「なんで、2回」

「呼びたくて」


日向君の手のひらを感じる。


さん、ここにいるよなって、確かめたくて」

「いるよ」


声が震えたのは、勇気をもって手を伸ばしたから。

この気持ちを表しようがなくて、ただ、想いを込めて日向君の制服の端っこをつまんだ。


「日向くんの前にいる」


視線を上げると、日向君と目があった。

日向くんが息を呑んで、私にふれていた手を外して黙った。


「氷溶けたから片付けて来る。 日向くん、待ってて」

「ん……、わかった」


引き戸を動かして廊下を見渡す。

6時間目はまだ続いてる。
見える範囲には誰もいないけど、階段から、グラウンドから、どこかしこから学校の気配が聞こえてきた。

日向くんに抱きしめられていた感触が、今なお身体に残っていた。

ドキドキと胸を高鳴らせ、廊下を小走りで進む。
保健室でもらった氷嚢ならぬ水袋を片付けてすぐまた戻る。


かわいいって、日向くんに言われた。

窓ガラスに反射する自分はいつもといっしょ、でも、好きな人にそう言われたら魔法にかかったみたいに世界が変わる。

ほんとうに、そうならいい。
可愛くなりたい。

窓ガラスに微笑んでみても、やっぱりいつもの自分だった。
それに、ニヤけてる。

そうじゃなくて、ちゃんと可愛らしい笑顔になりたい。

あれやこれや試したものの、いくらやっても所詮いつもの顔だった。

日向くんの待つ空き教室の前に着く。

中を覗いて、音を立てないようにドアを引いて閉めた。

日向くんは、同じ場所に立ったままだった。

後ろの棚に座っててもいいのに。

こっちを向いた日向くんに駆け寄った。


「ただいまっ」

さんっ、おかえり」


とびきりの笑顔、できてたらいいな。

私たちの荷物は全部棚の上だ。
そろそろコートを着よう。


さん!!」


コートに袖を通そうとしたまま、日向くんの方を振り返った。


「なに? 日向くん」

「あの……さ」


そわそわと視線を泳がせていた日向くんが、一歩前に進み出てまっすぐに言った。


「もっかい、ダメ?」


もう、一回。

というと、私が教室を出る前のことがよぎる。

視線がぶつかって、外せなくなる。


きっと、かんちがいじゃない。


意味なく自分の髪をさわった。

どうしよう。

日向くんは黙っていた。いや、待っててくれてる。

私が、私の答えを出すまで。


どうしよ……。

 髪から、指をはずした。



「い……いいよ」


口にしてから、勘違いかもしれないと自分に言い聞かせる間もなく引き寄せられていた。強く。

日向くんに、抱きしめられている。

すぐそばで聞こえる息遣い。

電話じゃない、直で。



「おれ、さんのこと、すきだ。

 前から好きだけど、いま、もっと好きっ。

 1秒ごとにすきになる。会わない時間もさんのこと考える。

 ……大事なんだ」



不意に両腕を掴まれて顔を見合わせた、かと思えばまたぎゅっと強く日向くんの腕の中だ。

日向くんが口を挟む隙もなく続けた。



「ギュッしてると、さんのこと見れないっ、けど、こうしてたいっ。

 どうしたらっ、両方できると思う?」


相まみえるかっこうで尋ねられた、けど、こんなに日向くんと近いと頭がちっとも回ってくれない。

ギュッて?
見たまま?
そんなのできる?

まずは、少し距離を作ってみて。


「手、つないで、こんな感じなら」

「それだとっ、……物足んない」

「そ、そっかっ。 じゃあー……」


じゃあ?


解決策が浮かばない。

顔を見合わせたまま密着したら、そんなの、想像するだけで。

日向くんの指先が、私のをそっとつまんだ。


「なんで、どっちもできないんだろ」

「できないことは、」


小説だったかで、目にした一節。


「分けたらうまくいくって」

「分けるって?」

「不可能の分割って聞かない?」


日向くんがしっかりと私の手を握りしめ、顔を覗き込んできた。

本当に解決策を探してるようだった。


「どんな難しいことでも、一つずつ分けてみるとなんとかなるって、本で」

「どうやんのっ?

 おれ、さんをぎゅっしてっ、さんのこと見てたい!」


解決して欲しいような、今のままでいいような……
覚悟が決まらないまま続けた。


「そ、そういう場合は」

「そういう場合はっ!」

「……ぎゅっとするのと、見るのを分けるんだと思う」

「わっ分けたら意味ない……」

「でも分けたら」

「分けんなら、いまこーするっ」


近くてちかい。

日向くんの息遣いがすぐそばだ。
きっと、日向くんにも私の鼓動が。


「ぎゅってすんのは、今しかできないから……

 帰るときに、いっぱいさんみる」


どきどきと、ばくばく。
あふれ出しそうな、好意。

私の全部が伝わってしまう。

ひなたくん。

声にならない。
離れたいわけでもない。
あったかいし、このままでいたい。
今の自分の顔、ぜったいみられたくない。

日向くんにそっとしがみつく形になると、日向くんが腕に力を込めた。

少し苦しいのに、それを言い出そうとも思わない。
帰れなくなりそう。

早く……いわなきゃ。


「日向くん、そろそろ」

「まだ、待って。 チャイム、鳴るまで」

「う、ん……」


肩越しに時計が見える。

秒針、長針、短針、動いていく。

あとちょっとで鳴る。
その瞬間に日向くんの肩にもたれかかった。
すぐ、離れた。



next.