ハニーチ

スロウ・エール 221




チャイムが、 6時間目の終わりを告げる。
私たちにも区切りをつけた。



「か、……帰ろっか、日向くん」


まだ離れがたかった、お互い。

手はそれぞれ触れ合ったままだ。


「そう、だね。 さんの言う通り」


日向くんの手が離れた。

かと思うと、もう一度抱きしめられていた。
すぐまた腕を解かれた。


日向くんはなんてことないように続けた。



「じゃあ……、帰ろう!!」


私に背を向けて、日向くんはいつもみたく荷物からコートを手にした。
てきぱきと羽織っていく。

抱きしめられた感覚は、ちゃんと残っていた。
夢じゃない。
日向くんにギュッてされてた。

遅れてとなりに並び、中途半端に置いていたコートを手に取った。

袖を通し、ボタンを一つずつとめる。

6時間目の終わりとあって、途端に学校が目を覚ましたかのごとくにぎやかだ。

この教室だけ置き去りみたい。
いや、私だけかも。

最後のボタン一つ、なぜか手が止まる。

日向くんが鞄を肩にかけた。


さん、行ける?」


返事ができない。


「……行けない?

 もしかして、おれのせい?」


俯いたままの私のことを知ろうと、日向くんは前屈みになって顔を覗き込もうとした。


さん?」


こつ、と痛みなく、互いのおでこをくっつけた。


「日向くん、待って」


日向くんから離れ、またカバンを棚の上に置き、顔を隠すようにうずめてじっとした。

早く元に戻れって自分に言い聞かせても、胸のざわめきがいつまでも落ちつかない。

浮遊感。
どこまでも飛んでいきそうな、こそばゆさ。


「さ、先、帰っていいよ」


すぐ元に戻れそうになくて、自分のカバンにくっついたまま告げた。

返事はない。

日向くんが教室を出て行った気配はないけど、もしかしてもう帰った?と顔を上げた。

日向くんがこっちを見ていた。


「おれは、さんといたい」

「そ、そっか……、でも」

「でも?」

「まだ、私、じっとしてたくて」


日向くんから視線を外し、自分のカバンに舞い戻る。
未知なる感覚に流されぬよう浮き輪にでもしがみつくように、ある意味必死だった。


「日向くん、明日試験あるから」

「あっても、待ってる。

 さんが帰ってほしいって言わないなら」


そんなこと、言わない。

心の中で返事をする。


どうしてこんな風になるんだろう。

心はみえないのに、ちゃんと、ここに在る。
あふれそう。自分じゃないみたい。

奥底に押し込もうとしてもまたふくらんでダメ、だめだ。

でも、帰らなくちゃ。
ちゃんとしなきゃ。

深呼吸した。
くりかえしゆっくりと、意識して。

きちんと両足で立ち、顔を上げて、振り返った。


「日向くん、帰ろう!」

「もう平気?」

「う、うん」


日向くんから私へと伸ばされた手を、思わず避けた。

日向くんが目を丸くした。


「もっ、もう外出るから、手は……」


やめとこう。

最後まで言えなかったのは、日向くんが私の避けた分だけ近づいて、私の手を掴んだから。


「パワー、もらっていい? 5点分」


授業中に教科書見せてって言うみたく、日向くんはさらりと言ってのけた。

そんな力、私にはないって。
なくていいって、日向くん、言ったのに。

目が合うと、日向くんの瞳が悪戯っぽく輝いてみえた。

絶対、確信犯。

つられて気を抜いてしまう。
日向くんにそんなふうに言われたら、手を握り返すほかない。
折角ならと、もう一方の手も重ねて祈るように高く上げた。


「日向くんが受かりますようにっ」

さんがやりたいことやれますように!」


日向くんも私の手にもう片方を添えて力強く続けた。

互いに繋がれた手を腰くらいまで下げて、顔を見合わせた。


「日向くん、帰ろう」


今度こそ、大丈夫だ。

ちゃんと、いつも通りになれる。

そう思ったのに。



「日向くん」

「なに?」

「なにじゃなくて」


しっかりと握られたままの互いの手と、日向くんの顔とを交互に見る。


「これ」

「手が、どうかした?」


日向くんがしっかりと私の手を握っている。


「これじゃ帰れないよ」


日向くんが黙ったままそっぽを向いた。

聞こえてないわけがない。
本気で振り解けば、さすがに離してくれるだろうけど、そこまでしたくない。

だったら、こうする。


「まず、親指からね」


日向くんの指先を反対側の手でひとつずつ外していていく。
一本、またいっぽん。

これで帰れ、


「日向くん、だからさ」

「なにっ」

「これじゃ帰れない」

「そう?」


しれっと日向くんが返事する。

日向くんの右手を外したはずが、今度はもう一方の手を掴まれて繋がっている。
しかも手を繋ぐと言うより、日向くんの右手と私の左手で今度は握手の状態だ。


「日向くん」

「わ、わかってんだけどさ」


ぐいっと、引き寄せられて間近。


「つないでたいっ、さんやだっ?」


聞くの、ズルい。


「いっ、やじゃなくても」

さん、嫌じゃないんだっ」

「そうじゃなくて」


このままじゃ、日向くんのペースだ。
帰れなくなる。


「話がずれてるっ。 こうしてたいのは私もわかるけど」

「わかってくれるっ?」


日向くんは、なんでこんな簡単に近づけるんだろう。

うれしいけど、嬉しいだけじゃなくて。

西日が、窓の向こうから差し込んできていた。
まぶしくて目を閉じたくなる。


「日向くんだって、わかってるっ?」


逃げなかった。

真っ直ぐ見据えた。


「私だって、日向くんと同じだっ、て!?」


あまりの勢いにまた日向くんの肩にぶつかるようにおさまった。
日向くんのコートにしまわれたみたい。

こんなふうに引っ張られるたび、思い知る。

日向くん、男の子だ。

また、力いっぱい抱きしめられていた。
今日何度目だろう。
近い。とても近い。
第二ボタンになった気分だ。
コートと冬服じゃなければ、日向くんの鼓動を聞けたかもしれない。

抱きしめ返したいのに、こんなに強くされたら、身じろぎもできない。

声をかけるべきか。
でも、なんて?

私に何ができる?

日向くんに、


 なにを、してあげられるかな。




さん、

 おれ、

 こわくないの?」



力を抜いて身を委ねていると、日向くんがささやいた。



「……なんで?」



日向くんを怖いと思うこと、ない。
自分の気持ちの方が、ずっと。

日向くんの腕から力が抜け、やっときちんと向き合えた。


「痛かった、よな、ごめん」

「ちょっとだけ。

 でも、大丈夫だよ。日向くんからいっぱい元気もらえた」

「ほんと?」

「ほんとう」

「おれ、さんのことになると、……とまんなくて」


日向くんが突然ガクッとしゃがみこんで、前髪を片手で握りしめた。

日向くんが私を見上げる。


「帰っていいよ、さん」

「日向くんは?」

「おれは、もうちょっと、このまま……」


消え入りそうな日向くんの言葉を追いかける気持ちで、同じようにしゃがんだ。


「待ってる。 日向くんと帰る」

「でも」

「私が、そうしたいから」


日向くんが急に何か唸り出したかと思うと、今度はひざを抱えて勢いよく言った。


「かわいいっ、さんすげーかわいい。
 あんまり言うとっ、さん困らせんのわかる。でも、言いたい。すげー言いたい。なんで、こんな……さん、かわいいっ、です」


一気に言い終えると日向くんがチラと私を見て、手を伸ばしてきた。

逃げずにいると、指先が髪に触れ、ゆっくりと撫でられた。

かわいい。

また、なぜか褒めてくれる。

かわいいを受け取りすぎて混乱する。
小首を傾げて尋ねた。


「な、夏ちゃんみたいな?」

「なんで夏? 女の子として!」


お、女の子として。


「自分じゃわかんないのかな……、
 さんはかわいいっ、すごくかわいい」


日向くんはすっかり調子を取り戻した様子で、こちらを穴が開くほど見つめ続けた。

今度は私が視線を逸らす。


「日向くん、なんでも、そう、言うから……」

「なんでも言ってないっ、さんにしか言ってないし、さんだけかわいいっ」

「も、いいよ」


言わなくていい。

顔を上げてられなくて自分の膝に逃げ込んだ。

こっちの気も知らないで、日向くんは私の頭を撫でてくる。


「日向くん、さっき」

「さっき?」

「ギュッてしたとき」


キッと見つめると、日向くんが気まずそうに言葉にならない声をあげてたじろいだ。


「すごく、……男の子だった」

「お、おれ、ずっと男、だけどっ」

「そうだけど、そうじゃなくて」


伝えようか迷って、でも、言ってしまった。


「ドキドキ、した。

 ……今日、もう、耐えらんない、です」


言ってから、やっぱり言わなきゃよかったって、後悔する。

向かいから視線を感じる。すごく感じる。

顔を上げると、予想通り、日向くんが私を直視していた。


さ、「しっ」


日向くんを真似て静止した。

視線がぶつかって絡まって、ほどけなくなりそう。


「帰ろう、……明日もあるし」

「……」

「日向くん、いい?」


これ以上は、もう無理だからね。

そんな念押しを込めて見つめると、通じたのか、日向くんはこくこくと大きく頷き、すぐに立ち上がった。

手を、差し伸べてくれた。

そっと重ね合わせると、すぐさま引っ張り上げられる。


「あっ、ありがとう」

「教室出るまではいいよね?」


しっかりと結ばれた私たちの手と手。

おずおずと頷くと、日向くんがいつものように微笑んで、強く握りしめた。



next.