チャイムが、 6時間目の終わりを告げる。
私たちにも区切りをつけた。
「か、……帰ろっか、日向くん」
まだ離れがたかった、お互い。
手はそれぞれ触れ合ったままだ。
「そう、だね。 さんの言う通り」
日向くんの手が離れた。
かと思うと、もう一度抱きしめられていた。
すぐまた腕を解かれた。
日向くんはなんてことないように続けた。
「じゃあ……、帰ろう!!」
私に背を向けて、日向くんはいつもみたく荷物からコートを手にした。
てきぱきと羽織っていく。
抱きしめられた感覚は、ちゃんと残っていた。
夢じゃない。
日向くんにギュッてされてた。
遅れてとなりに並び、中途半端に置いていたコートを手に取った。
袖を通し、ボタンを一つずつとめる。
6時間目の終わりとあって、途端に学校が目を覚ましたかのごとくにぎやかだ。
この教室だけ置き去りみたい。
いや、私だけかも。
最後のボタン一つ、なぜか手が止まる。
日向くんが鞄を肩にかけた。
「さん、行ける?」
返事ができない。
「……行けない?
もしかして、おれのせい?」
俯いたままの私のことを知ろうと、日向くんは前屈みになって顔を覗き込もうとした。
「さん?」
こつ、と痛みなく、互いのおでこをくっつけた。
「日向くん、待って」
日向くんから離れ、またカバンを棚の上に置き、顔を隠すようにうずめてじっとした。
早く元に戻れって自分に言い聞かせても、胸のざわめきがいつまでも落ちつかない。
浮遊感。
どこまでも飛んでいきそうな、こそばゆさ。
「さ、先、帰っていいよ」
すぐ元に戻れそうになくて、自分のカバンにくっついたまま告げた。
返事はない。
日向くんが教室を出て行った気配はないけど、もしかしてもう帰った?と顔を上げた。
日向くんがこっちを見ていた。
「おれは、さんといたい」
「そ、そっか……、でも」
「でも?」
「まだ、私、じっとしてたくて」
日向くんから視線を外し、自分のカバンに舞い戻る。
未知なる感覚に流されぬよう浮き輪にでもしがみつくように、ある意味必死だった。
「日向くん、明日試験あるから」
「あっても、待ってる。
さんが帰ってほしいって言わないなら」
そんなこと、言わない。
心の中で返事をする。
どうしてこんな風になるんだろう。
心はみえないのに、ちゃんと、ここに在る。
あふれそう。自分じゃないみたい。
奥底に押し込もうとしてもまたふくらんでダメ、だめだ。
でも、帰らなくちゃ。
ちゃんとしなきゃ。
深呼吸した。
くりかえしゆっくりと、意識して。
きちんと両足で立ち、顔を上げて、振り返った。
「日向くん、帰ろう!」
「もう平気?」
「う、うん」
日向くんから私へと伸ばされた手を、思わず避けた。
日向くんが目を丸くした。
「もっ、もう外出るから、手は……」
やめとこう。
最後まで言えなかったのは、日向くんが私の避けた分だけ近づいて、私の手を掴んだから。
「パワー、もらっていい? 5点分」
授業中に教科書見せてって言うみたく、日向くんはさらりと言ってのけた。
そんな力、私にはないって。
なくていいって、日向くん、言ったのに。
目が合うと、日向くんの瞳が悪戯っぽく輝いてみえた。
絶対、確信犯。
つられて気を抜いてしまう。
日向くんにそんなふうに言われたら、手を握り返すほかない。
折角ならと、もう一方の手も重ねて祈るように高く上げた。
「日向くんが受かりますようにっ」
「さんがやりたいことやれますように!」
日向くんも私の手にもう片方を添えて力強く続けた。
互いに繋がれた手を腰くらいまで下げて、顔を見合わせた。
「日向くん、帰ろう」
今度こそ、大丈夫だ。
ちゃんと、いつも通りになれる。
そう思ったのに。
「日向くん」
「なに?」
「なにじゃなくて」
しっかりと握られたままの互いの手と、日向くんの顔とを交互に見る。
「これ」
「手が、どうかした?」
日向くんがしっかりと私の手を握っている。
「これじゃ帰れないよ」
日向くんが黙ったままそっぽを向いた。
聞こえてないわけがない。
本気で振り解けば、さすがに離してくれるだろうけど、そこまでしたくない。
だったら、こうする。
「まず、親指からね」
日向くんの指先を反対側の手でひとつずつ外していていく。
一本、またいっぽん。
これで帰れ、
「日向くん、だからさ」
「なにっ」
「これじゃ帰れない」
「そう?」
しれっと日向くんが返事する。
日向くんの右手を外したはずが、今度はもう一方の手を掴まれて繋がっている。
しかも手を繋ぐと言うより、日向くんの右手と私の左手で今度は握手の状態だ。
「日向くん」
「わ、わかってんだけどさ」
ぐいっと、引き寄せられて間近。
「つないでたいっ、さんやだっ?」
聞くの、ズルい。
「いっ、やじゃなくても」
「さん、嫌じゃないんだっ」
「そうじゃなくて」
このままじゃ、日向くんのペースだ。
帰れなくなる。
「話がずれてるっ。 こうしてたいのは私もわかるけど」
「わかってくれるっ?」
日向くんは、なんでこんな簡単に近づけるんだろう。
うれしいけど、嬉しいだけじゃなくて。
西日が、窓の向こうから差し込んできていた。
まぶしくて目を閉じたくなる。
「日向くんだって、わかってるっ?」
逃げなかった。
真っ直ぐ見据えた。
「私だって、日向くんと同じだっ、て!?」
あまりの勢いにまた日向くんの肩にぶつかるようにおさまった。
日向くんのコートにしまわれたみたい。
こんなふうに引っ張られるたび、思い知る。
日向くん、男の子だ。
また、力いっぱい抱きしめられていた。
今日何度目だろう。
近い。とても近い。
第二ボタンになった気分だ。
コートと冬服じゃなければ、日向くんの鼓動を聞けたかもしれない。
抱きしめ返したいのに、こんなに強くされたら、身じろぎもできない。
声をかけるべきか。
でも、なんて?
私に何ができる?
日向くんに、
なにを、してあげられるかな。
「さん、
おれ、
こわくないの?」
力を抜いて身を委ねていると、日向くんがささやいた。
「……なんで?」
日向くんを怖いと思うこと、ない。
自分の気持ちの方が、ずっと。
日向くんの腕から力が抜け、やっときちんと向き合えた。
「痛かった、よな、ごめん」
「ちょっとだけ。
でも、大丈夫だよ。日向くんからいっぱい元気もらえた」
「ほんと?」
「ほんとう」
「おれ、さんのことになると、……とまんなくて」
日向くんが突然ガクッとしゃがみこんで、前髪を片手で握りしめた。
日向くんが私を見上げる。
「帰っていいよ、さん」
「日向くんは?」
「おれは、もうちょっと、このまま……」
消え入りそうな日向くんの言葉を追いかける気持ちで、同じようにしゃがんだ。
「待ってる。 日向くんと帰る」
「でも」
「私が、そうしたいから」
日向くんが急に何か唸り出したかと思うと、今度はひざを抱えて勢いよく言った。
「かわいいっ、さんすげーかわいい。
あんまり言うとっ、さん困らせんのわかる。でも、言いたい。すげー言いたい。なんで、こんな……さん、かわいいっ、です」
一気に言い終えると日向くんがチラと私を見て、手を伸ばしてきた。
逃げずにいると、指先が髪に触れ、ゆっくりと撫でられた。
かわいい。
また、なぜか褒めてくれる。
かわいいを受け取りすぎて混乱する。
小首を傾げて尋ねた。
「な、夏ちゃんみたいな?」
「なんで夏? 女の子として!」
お、女の子として。
「自分じゃわかんないのかな……、
さんはかわいいっ、すごくかわいい」
日向くんはすっかり調子を取り戻した様子で、こちらを穴が開くほど見つめ続けた。
今度は私が視線を逸らす。
「日向くん、なんでも、そう、言うから……」
「なんでも言ってないっ、さんにしか言ってないし、さんだけかわいいっ」
「も、いいよ」
言わなくていい。
顔を上げてられなくて自分の膝に逃げ込んだ。
こっちの気も知らないで、日向くんは私の頭を撫でてくる。
「日向くん、さっき」
「さっき?」
「ギュッてしたとき」
キッと見つめると、日向くんが気まずそうに言葉にならない声をあげてたじろいだ。
「すごく、……男の子だった」
「お、おれ、ずっと男、だけどっ」
「そうだけど、そうじゃなくて」
伝えようか迷って、でも、言ってしまった。
「ドキドキ、した。
……今日、もう、耐えらんない、です」
言ってから、やっぱり言わなきゃよかったって、後悔する。
向かいから視線を感じる。すごく感じる。
顔を上げると、予想通り、日向くんが私を直視していた。
「さ、「しっ」
日向くんを真似て静止した。
視線がぶつかって絡まって、ほどけなくなりそう。
「帰ろう、……明日もあるし」
「……」
「日向くん、いい?」
これ以上は、もう無理だからね。
そんな念押しを込めて見つめると、通じたのか、日向くんはこくこくと大きく頷き、すぐに立ち上がった。
手を、差し伸べてくれた。
そっと重ね合わせると、すぐさま引っ張り上げられる。
「あっ、ありがとう」
「教室出るまではいいよね?」
しっかりと結ばれた私たちの手と手。
おずおずと頷くと、日向くんがいつものように微笑んで、強く握りしめた。
next.