ハニーチ

スロウ・エール 222





日向くんと目が合うと、視線を外すタイミングに迷う。

こんな風だとキリがない。
意を決して、教室の外を確認した。

誰も、いない。

どこの教室も担任から連絡事項を聞いている頃だろう。
掃除の時間がなるまでは、きっとここは私たちだけだ。

一歩、廊下へ足を踏み出す。

また一歩。


片手だけ教室に残されている。

日向くんとつながったままだ。

離したいわけじゃなかった。


言葉なく会話する。


一歩、二歩。

日向くんも空き教室から進み出た。

日向くんが力をゆるめてくれて、自然な形で抜け出した、私の右手。

なぜる空気の冷たさ。残る温もり。

さみしくはなかった。


みたされていた。






「日向くん」


下駄箱のそばで、日向くんが靴先をトントンと地面に当てていた。

遅れてそばに並んで告げた。


「今日、ほんとうに来てくれてありがとう」

さんが呼んでくれたら飛んでくっ、どこでも!」


大げさなほど力強い返しに、嬉しさを隠さずに応えて校門に向かった。

日向くんが自転車を取りに行こうと、私より先に前に出た。


さん、ここで」

「一緒に行ってもいい?」


いつもなら日向くんが自転車を取ってくるのを待っている。

今日に限っては、ほんの少しの時間も一緒にいたかった。

けれど、いつまでも返事がない。



「ダメ、だった?」


「だっ、ダメじゃない!

 いいよ、さん、一緒に行こっ」



日向くんがはりきって先陣を切る。

どことなく肩に力が入っているような。
緊張? 日向くん、ときどき、こんな風になる。

大人しく待ってたほうがよかったかもと後悔したとき、日向くんが顔を覗き込んできた。

びっくりしすぎて反応できない私と違って日向くんはもういつも通りだった。


さん、どうかした?」

「な、なんでもない、なんでもっ、……なんで、いま笑ったの?」

「あっ、お、おれも、なんでもないっ」


お互い、ふわふわと、よそ見した。

駐輪場の景色は、日向くんが来てくれた時と何ひとつ変わっていなかった。


さん、二人乗りする? この時間、先生いないし」


掃除の時間が始まるであろうチャイムと同時に、日向くんが自転車の鍵を外した。

それは、魅力的な誘いではあったけれど、静かに首を横に振った。

自転車の準備を見計らってさきに歩き出す。

日向くんが自転車を押しながら走ってきた。


「二人乗り、やだ? さん寒い?」

「寒いけど、そうじゃなくて」


意を決して振り返り、日向くんを見つめる。


「ゆっくり帰りたいなって」

「ゆっくり?」

「自転車は、早いから」


分かれ道にすぐ着いてしまう。

日向くんは合点がいかない様子で、頭をななめに傾けた。


「おれが、ゆっくり漕げばいい?」

「そうじゃなくて」


わかってもらうには、きちんと言葉にする必要がある。
自分がはずかしくても。

日向くんに近づき、誰もいないけど気分的に片手を口元に添えてささやいた。

とおまわりして かえりたい

小さく、ちいさな声で伝える。

なぜだか斜めに傾いていた日向くんが私の言葉を復唱しながら直立に戻っていった。

とお、まわりして、帰りたい

人のことを言えないけど、不思議な動きだった。


「とっとおまわりっ!? さん、遠回りしたいの?」

「いっ嫌なら別に」

「やじゃない!!ぜんぜん! スッゲー遠回りしよう!」

「ぃやっ、そこまではいいよっ」

「いいのっ?」

「いい!」


明日のこともあるし、と付け加える。

日向くんが残念そうに眉を下げると、すぐまたパッと表情を切り替えた。


「じゃあさっ、さん! 荷物のっけて!」

「あの、重いから」

「ゆっくり帰るんだしっ」


こうも、期待に満ちみちた眼差しを向けられたら断れない。


「……日向くん、いつもありがとう」

さんもありがとう!」


なんで日向くんがお礼を言うんだ。

疑問にすぐ答えてくれた。


さんに頼ってもらえんの、なんでもうれしいっ。 ゆっくり帰ろう!」


日向くんが“ゆっくり”をトクベツ強調して言って自転車を再び押した。

から、から、からと車輪が回る。
また冬の風が吹く。冷たいつめたい風と、火照る頬。

空はいつの間にか雲に覆われてきた。


「寒いね」

「また雪降るかなっ」


日向くんはワクワクと声をはずませた。


「明日は雨か、みぞれが降るかもって」


週間予報のお天気マークを思い出す。

最近の天気予報はそこそこ外してくるし、晴れないかな。

白くて厚い雲は、風にのって大きく動いていく。


「明日、おれも行く」

「どこに?」

さんのところっ、体育館の場所ってあの公園から見えたやつだよね?」

「そー、だけど、日向くん試験」

「終わったらっ。
 さんたちの試合には間に合わないと思う、すっげー悔しいけど……でも行く! 最後みれるかもしんないし」


日向くんが自転車のハンドルをぎゅっと握りしめて、晴れやかに微笑んだ。


「明日のさんに会いたいっ」


日向くんは続けた。


さんがやりたいって言ってた試合だし、直接みれなくてもさ。どんなだったか、その日に聞きたい。

 電話よりさ、会って、さんの顔見て、話したい。聞かせてっ。

 ……さん?」


顔を隠そうと片手を口元に当てたまま固まる私を、日向くんはじっと見た。


「どうかした?」

「明日……」

「あしたっ、明日の話っ」


日向くんはなんでもない様子で明るく返した。

早く、なにか言わなくちゃ。



「あした……の、私に会いたいんだ」

「え?」


な、
  にいってんだろ。


「ごっごめん、今のなしで」


逃げるように早歩きする。

今の私は?って当て付けしてるみたい。
焦ればあせるほどろくなことが浮かばない。

ただ舞い上がっただけだ。明日も会いたいって言ってもらえたから。

訳わからない私なんか放っておいていいのに、後ろから日向くんが追いかけてくる。


「あっ明日だけじゃなくてっ、今日のさんにも会いたかった!いま会ってるけど、電話くれた時からっ、いやくれる前からずっと、昨日もその前も、ずっと会いたかったっ、明日も会いたいし、明後日も会いたいっ」


不意に風、ちがう、日向くん、前。

通せんぼするように、日向くんが自転車ごと真ん前にすべりこむ。


「明明後日も、その先も、全部のさんに会いたい、いまだって……

 さん、こっち向いてくんないの?」


一度視線がぶつかると最後。
わかってるのに、やっぱり、見つめてしまう。
吸い込まれてしまう。


「おれは、まだ、さん、見足りない」


真剣に、こんなこと言われたら。

逃げようがなくて。

見つめ返す以外の選択肢は消え失せる。

もっと可愛らしい反応できたらいいのに。
そう出来ない自分にいらだって、制御の効かない気持ちのまま、ハンドルを握る日向くんの手に自分のを重ねた。

日向くんがわかりやすく驚いているけど、かまわず自転車を押そうと試みた。


「日向くん帰ろう」

「かっ帰る、帰るけどっ、さん、いいの? ここ、通学路だし」


重なった手と手をだれかに見られたらアウト。
電信柱にもばっちり通学路表記がある。

自分の手に力を思い切り込め、日向くんの自転車の進行方向を変えた。


「こっちの道、行こ」

「いいけどっ行くけどっ、さんどうしたの!? おれがちゃんと動かすから」

「日向くんが帰ってくれないから」


代わりにハンドル動かしただけ。

自分でも子供じみた返事だと思う。

日向くんは怒るどころか笑って言った。


「かわいい……」


なんで、そう、なるのか。
どんな顔で日向くんのそばにいればいいのかわからなくなる。

手も離せないまま、身体の向きだけは日向くんからなるべく違う方にした。


「わ、私、もう耐えられないって言った」

「今のさんもかわいかったから、あ、さんはずっとかわ「日向くんもういい、言わないで」

「照れてるっ」

「怒るよ!?」

「わ、わかった、黙るっ」


極端に静かになる日向くん。

気になって、つい、また様子を伺ってしまう。

あー、もう。


「日向くん、ふつうにしてて」

「おれ、ふつうじゃないの!?」

「ニヤニヤしてる、それもダメ」

「それも!? さん厳しくない!?」

「厳しくないっ、明日、ちゃんとしてなきゃいけないのに、こんな……」


言葉に詰まる。

だめ、隠せない。


「日向くんが嬉しくさせるからっ。

 緊張、なくなった」


試合前なのに、足取り軽く、スキップでもしたくなる。
心の奥をずっとくすぐられてるみたく、全部ゆるんで、うれしいって気持ちがあらわになる。

こんなんじゃなかった。

試合前の張り詰めた空気、どうしようかとソワソワと落ち着かない不安。
染み付いて離れてかないと思ってたのに、いまはどんなだったか思い出せない。

日向くんがフッと息つき、やさしく言った。



「緊張、いる?

 さんがやんの、バレーだよ」



やわらかな声色。

あたたかな眼差し、と。

ほんの少し、本当にちょっとだけ滲んだ、羨望。

かんちがいならいいのに、中1の時に比べれば、日向くんのことがわかるようになっていた。


ごめん。


胸の中だけで謝る。

明日、コートに立つのが、私で、ごめん。

そのことを聞かせてごめん。


自分のためだけの謝罪。

日向くんには絶対言わない。


私にできるのは、決めたことをやりきること。

バレーボールをする。




「日向くんの言う通りだ。

 緊張、なくていいね」


気づけば、厚い雲の隙間からきれいな青空がのぞいていた。

もう、大丈夫。

今のままでいい。

認めてしまうと、ふわふわとした心もなんとかなりそうだ。



「緊張するなら、試験する日向くんの方だよね」

「……さんに言われると、先生に言われるよりグサッて来んな」

「ごっごめん! あ、でもほら、手繋いだからたぶん5点アップしてるよっ」


ぎゅっと指に力を込めると、日向くんがハンドルを強く握った。


「私も5点」


いや、得点より。


「5センチ、いつもより高く飛べたらいいな。

 日向くんからパワーもらえたし」


高さのスポーツだからこそ、たとえ5ミリでも、いっしゅん空高く舞い上がれたら。


「なんて、……日向くん、どうしたの?」


自転車のブレーキが突然握られ、耳につく高音が路上を駆け抜けた。


さん、自転車止めていい?」

「え、なんで」

「ギュッてしたい」


なにを、とまでは聞かなかった。


「……だ、ダメ」

「なんで!?」

「つ、通学路だし、私たち帰るから」

「道一本ズレた!」

「けど外だし」

「今までも外で、「今日はダメ、もう絶対だめ」


念押しすると日向くんがハンドルを大人しく握ったまま言った。

今度、中の時にさせて。

そうじゃないなら今、を遮るように頷いた。

ほんとうに、私の知っていた試合前と、今日は全然違っていた。

『明日どうなるんだろう』より、いまこの瞬間でいっぱいだった。



next.