日向くん、もう帰ったかな。
答案用紙を回収し終えた試験監督がいなくなり、緊張の解けた教室で、受験生は一斉に椅子を引いた。
荷物を片付けながら、『二個上』にいるであろう日向くんが気にかかる。
「仁花ー」
「すっすぐ行く!」
後ろにいた子もあわてて席を立った。
彼女と同じ制服の人たちが、教室の入り口に立っていた。
廊下も人があふれている。
この教室だけ答案の回収に手間取っていたから、他より試験の終わりが遅れたのかもしれない。
この感じだと、日向くん帰ってそう。
約束だってしていない。
そう思ってもすんなり諦めきれず、ぞろぞろと人の流れが途絶えない廊下を出る前、カバンから携帯を取り出して電源をいれた。
電話、してみようかな。
今日は受験だから日向くんも自転車じゃない、はず。
着信に気づいてもらえるかも。
ふと視線を上げると、のっぽの黒髪の人が廊下を通った。
つい、追いかけてしまった。
人をすり抜けて横から顔を覗きみると、影山くんじゃなかった。
全く知らない人だ。
考えてみれば、この世の中、黒髪の男子なんていっぱいいる。
「あっ」
手提げ、忘れてきた。
いきなり立ち止まったせいで、すぐ後ろにいた人と激突しかけた。
「すっ! み、ませ、ん?」
影山くん並に高身長、この眼鏡。
その男子は目が合うと顔をひどく顰め、私を大きく避けて何事もなかったかのように廊下を進んだ。
見間違えるはずがない、月島くんだ。
あの態度からして、向こうも、ぜったい私だって気づいてた。
……にこやかに挨拶しよう、とは言わない。
ただ、
せめて、
もう少し、
反応を、さ!
「あっ、さん」
向かいから早足にやってきたのは、山口くんだった。
塾でよくみる制服姿だ。
みんな烏野を受けてたのか。
いや、このへんの人なら受験してておかしくない。
「ツッキー、見なかった?」
「……ちょうど今すれ違った」
「そっか、やっぱりツッキーだったんだ。急げば追いつけ、……さん、ツッキーと、なんかあった?」
「なんで?」
「な、なんとなく」
「なんにも。 それより早く行ったほうがいいよ、月島くんに追いつけなくなる」
「そ……、だね、じゃあ!」
「じゃあね」
手を振って山口くんを見送り、手提げカバンを取りに、人の流れに逆らって、今日受験した教室に戻った。
後ろの扉から入った方が近いんだっけ。
同じく廊下から扉に入らんとする人に肩からぶつかった。
「「ごっごめんなさい! あっ」」
見事なまでに声が重なった。
「日向くん」「さん!」
「「あっ」」
また、かぶった。
二人して笑って、今度はお互いにしゃべりだしのタイミングを気をつけ、まずは私から話した。
「日向くん、どうしたの?」
「さんいるかなって!」
教室の中じゃなく私を見ながら、日向くんは元気よく声を弾ませた。
「はいっ、います!」
「いましたっ」
先生に当てられたときみたく片手をあげると、日向くんも嬉しそうにジェスチャーを返してくれた。
「そういうさんはどうしたのっ」
「忘れ物しちゃって」
自分の座っていた席を目指す。
「やっぱそれ、さんのだったんだ」
「わかる?」
「持ってるの、よく見かけるからっ」
誰もいなくなった受験の教室から自分の荷物を手にして日向くんのところに戻った。
これで忘れ物、なし。
「じゃあ、帰ろっか」
「帰ろっ、あ! さん、このあと時間ある!?どっか寄ってこ!!」
出口の方に移動しながら、勢いある日向くんの誘いに応えた。
「そうしよっ」
日向くんと同じくらい、いやそれ以上に嬉しさが溢れていた。
もし日向くんに会えなかったら、坂ノ下商店に寄るつもりだったけど、従兄に特別用事がある訳じゃないし、日向くんが優先だ。
会えて、「会えてよかった」
自分が言ったのかと思った。
校舎を出たからだろうか、日向くんの表情がいっそう明るい。
「おれの教室は時間通りに終わったからさ、外でさん待ってたんだけど、待ちきれなくて!
朝会った時に一階って言ってたから、そーだっ!
これ、ありがとう!!」
日向くんがゴソゴソとカバンを探ると、大事そうに取り出してくれた。
今朝、渡した消しゴムだ。
受け取ってペンケースに入れつつ尋ねた。
「試験、どうだった?」
「全部書いたっ、先生の予想問題と同じのも出たし、いける!! さんはっ?」
「私も全部書けたよ」
「そっか、さんなら心配ないけどよかったっ。
あとは、結果を待つだけ!」
日向くんが立ち止まって空を見上げて震え立つ。
家まで車で送り届けてもらった日のように、なんでだか、日向くんが遠くに感じられた。
「さん、行こ!!」
振り向く日向くんはいつも通りだ。
今にも走り出しそうな日向くんの足取りより遅れて、視界に入ってきた建物を指さした。
「興味あるなら、のぞいてく?」
「なにを?」
「烏野のバレー部」
日向くんは目を丸くすると、私の指さす方向にある建物に気づいて腕を組んだ。
「そっか、おれたちは試験だったけど、高校生は部活やってんのか」
「あ、ごめ、やってるかまではわかんない」
朝は受験生でいっぱいだったから、烏野の人がいたかは記憶にない。
せっかく烏野にいるならバレー部見学でも、くらいの、とてもシンプルな思いつきだった。
適当すぎてごめんと謝ると、日向くんは首を横に振った。
「さんが、バレー部のこと、覚えててくれてうれしいっ」
日向くんは組んでいた腕を解いて、体育館のある方角をもう一度眺めた。
「覗いてみたいけど、まだ、楽しみ取っとく!
4月に行く。そんで、6人のバレーするっ」
不意に、日向くんのこれまでの“バレー部”のことがよぎった。
花の咲く気配のない枝葉のさきに、ほんの少し先の未来を感じる。
「さんも覗いてみたい?」
「え、あ」
「さんが行きたいなら、いっしょに行く!」
なんで、私が行きたいなんて。
聞けば、日向くんは楽しそうに言った。
「さんの目がさ、キラッてしてた」
「きらっ?」
「そう! あっち見た時、さん楽しそうだった!」
「そ、そんなこと」
「すきだよ」
日向くんは足が止まった私に気づいてもなんてことのない様子で続けた。
そういうさんもすきだ。
くりかえしてくれた。自然に。
「行ってみるっ? 体育館」
「い、いいよ、やってるかもわからないし、また今度」
「そっか、じゃあ、行こう」
日向くんに続いて、体育館には足を向けずに校門を目指す。
鼓動が、はやかった。
日向くんにすきって言われたのもあるけど、それだけじゃない。
無自覚だった自分の気持ちを日向くんに気付かされたからだ。
烏野高校は、祖父や従兄とゆかりのあるバレー部のある学校。
落ちた強豪、飛べない烏。
この間も聞いたし、よくよく思い返せば、何度も聞いたことがある。
祖父がコーチを離れてから、ちらほらと耳にする会話。
昔は強かったのにって、何の気無しに評される。
バレーは好きだ。
もう一度見つけられた、大切な気持ち。
でも、私には、バレーは、“それ”だけじゃなかった。
烏野、バレー部。
振り返ってみても、もう体育館は見えなかった。
「さんとこんな風にバス乗るの、いいな! 奥行く?」
「うん」
空いている席に二人並んで座る。
日向くんに促されるまま、窓際に座ってすぐ、バスが走り出した。
「こっちの道、朝と違う!」
日向くんが窓の外を見ようとすると、自然と腕と腕がくっついた。
たぶん、気にするの、私だけだ。
つい、意識してしまう。
「さん、みて! 鳥いたっ、綺麗なやつ!」
「えっどこ?」
「ほら、あっちの枝! あっ、向こう、花咲いてるっ」
日向くんが何でもなく見える景色からいろんなものを発見してくれるけど、日向くんの視力の良さについていけない。
窓からの風景じゃなく、少しだけ近い距離にいる日向くんを見つめると、日向くんが瞬きして言った。
「どうしたの?」
「日向くん、すっごく元気だね」
「さんは?元気じゃない?」
「元気だけど……、そんなに窓の外見たいなら、日向くんがこっち座ればよかったかなって」
日向くんは、今座っている背もたれに寄りかかった。
「さんと見たかったから!」
晴れやかな笑顔。
「そっちに座ったらさ、さんと窓、どっちも見えないじゃん。こっちなら両方見えるっ。
あ、飛行機! さん、みえる?」
「み、える、けど、あの飛行機、どこに行くんだろうね」
「どこだろうなー、あれっ、北ってどっちだっけ」
日向くんがあーでもないこうでもないって頭をひねっている横で、窓から視線を外した。
「日向くん」
バスの中だし、一段と声をひそめて呼びかけると、日向くんが少しだけ私の方に傾いた。
この近さ、ずっと会ってなかったから久しぶりだ。
意識してるの、たぶん私だけだ。
車内に知り合いはいない。
人も少ない。
とはいえ、さらに小さく、日向くんにだけ聞こえるように囁いた。
私も、日向くんと窓、どっちも見たい。
言い切ってから、羞恥心がじわじわと湧き上がってくる。
や、やっぱり今のなしで、と言おうとしたとき、ぐっ と日向くんとの距離が縮まった。
「これならいい?」
私にしか聞こえないくらいだった。
抱きしめるみたく距離が近くて、呼吸を忘れかけた。
「みえる? さん、窓と、おれ」
横を見ればすぐ、日向くんにぶつかる。
動けなくて、窓ガラス越しに見つめあった。
next.